喰散らかした残滓は甘く
『――どうか忘れてしまって。そう、自分勝手な女がいたって言う事実があるだけだもの』
そんな言葉を残して夢に出てきた女は消える。秋夜は浮上した意識を自覚しながらも瞳を開く事を拒んだ。
夢という鈍く重い水に浸っていた躰がゆっくりと浮かび上がり、乾いて、自分自身の四肢の感覚が明確になって――そして完全にまどろみから目覚めた躰が肌に触れる柔らかい布団の感触と夜の冷たい香りを伝えてくる。
『――どうか忘れてしまって』
夢の残滓がふわりと耳を掠めたのを最後に、秋夜は瞳を開いた。
*
自分の事を忘れてしまってと言う女を秋夜は憶えている。何故憶えていたかという理由は単純だった。女が面白そうに笑っていたからだ。けたけたとではなく、どこか悟りきったようなわかりきったような小さな笑みを浮かべて美しく笑っていたからだ。
あの女は知っていたに違いない。
秋夜が自分の事を忘れることは、きっとありはしないだろう、と。
*
例えばという仮定を語ったところで何の意味もないことを知っていた。故に天都秋夜は『たら、れば』を語る事を好まない。
ああしていたら?
こうしていれば?
そんな問いをしたところで過去は変わりはしないのだから無駄な事だ。
ただこの話題を好みはしない。が、どうしても考えてしまう事がある。特に、家臣でありながら派手な着流しを好み、僭越にも主の自室で眠っているこの男を見ると。
「沙紀」
呼んでも返答はなくすやすやと幸せそうな寝息が聞こえるだけだ。うなじで結わえられた艶やかな長髪が力を失った蛇のように畳にゆるく広がっている。
仕方がないので叩き起こそうと彼の着流しの襟を掴む。
「おい、さ――」
き、と言おうとした言葉は素早く伸びてきた手が喉をがっしり掴んできたせいで音になりはしなかった。
「……――!!」
ぐるんと視界が揺れる。それを頭が理解した瞬間には視界が反転し天井を見上げていた。畳に叩き付けられた衝撃と共に更に喉を強く抑え込まれて思わず咽る。
「――ッ」
「……なんだ、秋夜か」
寝起きのぼんやりとした表情のまま沙紀が顔を覗き込んでくる。彼のほつれた髪のひとふさがはらりと秋夜の頬に滑る。僅かに、ほんのわずかに、知らぬ花の香りがした。
「重い、どけ」
どこでも眠れる程に鈍感かと思えばこれである。その素早さに秋夜は呆れるしかない。まるで先程まで眠りこけていたのが嘘かのように、沙紀の瞳ははっきりと秋夜を捉えた。
「寝込み襲うなんていい趣味だね」
沙紀が左手を振ると。かちん、と小さな金属音が鳴った。長煙管に仕込んだ暗器を仕舞った音だった。
「お前こそ主の室で眠りこけるとはいい趣味だな」
うんざりして、先程まで考えていた事を思い出す。
この男が家臣でなかったら?
あるいはもう少し自分が手綱を操れていれば?
「本当に苦労しなくて済むが……」
思わず口にでていた。
「苦労人だねえ」
沙紀が笑う。
「お前が言うな」
「でも、いい教訓になっただろ。寝てる蛇の目には近づいたら駄目だってこと」
――蛇の目。天都の一族に仕える隠密の総称である。非常に高い身体能力を誇り、それでいて目立たず、闇に紛れ、人を葬り、またある時は明るい陽の下で身分を偽りながら諜報などの活動をする。
沙紀は秋夜の側近であり、蛇の目の一員である。ただし蛇の目は蛇の目でも少し特殊な立ち位置ではあったが。
「……それよりいい加減にどいたらどうだ」
しかし沙紀は秋夜の言葉に応えずにぐ、と彼の首を掴む手にさらに力を込めた。
「――表情が、乏しいね」
細められた瞳がどこか面白そうに笑う。その表情はあの夢の女の笑い方にどこか似通っていた。知っているくせに知らないふりをする。わかっているくせに敢えて問うてみせるそんなところが、似ている。
「咽を掴まれて、抑え込まれて、俺がもう少し力を込めればあっさり死ぬかもしれないのに、それでもそんな風に無表情でいるの?」
その問いに先程までの軽薄さは無かった。沙紀は責めてはいない。ただ咎めてはいる。この青年は自身を粗末に扱う人間を嫌う。
秋夜は黙って首を振った。沙紀の言うように生に無頓着なのではなく、ただ己の事など大してわからないだけで。
「別に殺されたいと思った事はない。お前には」
生に執着がないのか?
おそらくそれは否。
恐ろしいとは思わないのか?
そして、それもきっと否。
ただ、自分はそう――
「――『決めてしまった』」
口を開く前に沙紀がそんな風に言う。この男はいつもこうして秋夜の思考を先回りする。
それでいて、その言葉が中らずと雖も遠からずなのだから質が悪かった。
だからこそ秋夜は考えてしまうのだ。
沙紀が指摘したようにもし自分がこうして感情に乏しくなかったら。
あるいはそれを嘆くことができていれば。
もう少しだけ、ひとらしく在れただろうか、などと。
*前 しおり 次#
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