砕け散る硝子が赤く咲く
ざりざりと口に混じる砂塵を噛み締めて、涙をぬぐわぬまま、少女は水に流された己が村の跡に縋って泣いていた。ほっそりとした顎がわなわなと震え、病的に青白い肌に毒々しいまでの赤い唇が美しい、年端もいかない子供である。
この娘の故郷である村は、止まない雨のせいで土砂に流され、近隣の村から来た助っ人たちが農具で必死に埋まった人間を掘り起こそうとしていた。
「ねえやぁ……」
四十五日続いた雨による土石流は多くの遺体を流し去ってしまったが、それでも村人の幾数人かは木の枝や岩に引っかかり、憐れな骸を晒している。かあかあと、間延びした鳴き声をあげながら鴉が死肉を啄ばんでいた。
「ねえや、どうして」
まさに目前で骸となり、転がっている姉の姿を、少女はまだ受け入れられていない。
どうして、こんな。
おとうもおっかあも死んでから、ねえやと二人きりで生きてきた。ねえやはーー千枝は五つになったばかりの三枝をとてもよく可愛がってくれた。村一番の美人。もうすぐ十五で、嫁に行く予定だった。
その姉の骸は水でふやけて、あの大きな優しい瞳は不気味に見開かれたまま。
かあかあ、からす。ねえやの柔い頬をつついて、千切る。あのまあるい、笑うとぽうっと赤く染まる綺麗なねえやの頬を。
「やめろーー喰うな!」
乱暴に石を投げつけて鴉を追い払うと、足を引きずりながら三枝は千枝の骸を掻き抱いた。
「あああ……ねえや、寒かろ」
死んで水の中は寒かろ。死んで土の中は寒かろ。
ねえやいつも言っていた。この国の雨は祝福の雨だと。なぜ、こうなった。なぜ、雨は止まない。土砂が、水が、川が、雨が、ねえやを喰ろうてしまうなど。
(「大丈夫、止むけんね。この雨は祝福の雨だけん」)
ねえや、最期まで笑ってた。
(「三枝、信じてご。この雨は美しい、救いの雨さに。いまのいとに、雨は止むよ」)
やわらかい方言で噛んでくるんで、ねえやはずっと三枝にそう言ってた。
「生き残りはーー!」「駄目だぁ、こっちも死んどる」「しょろしょろしとると、おらたちも巻き込まれるぞ」「諦めろ」「もう生き残りはいねえだろうーー」「あの女の子だけだけん」「気の毒さなあ」「ああ、気の毒に」
男たちが大声でそんな会話をしている。
「ねえやあ、いやあーー!死なないでよぅ。私、どうしたらいいのぉ、ねえやあ」
一人残された子供は骸に縋り、泣くことしか術を持たない。雨に打たれ、嗚咽と共に、現実のおぞましさに怯え、胃液を吐き戻した。
そんな彼女に声をかけた男がいた。
「ーー娘」
涙と胃液でぐしゃぐしゃになった顔をあげると、どう見ても堅気ではない初老の男が自分を高い位置から見据えていた。鷹のように鋭い眼光と、どしりと腹に響く声がとてつもない威圧感を与えてくる。
「あなた、だれ」
男は答えない代わりに、三枝を抱き上げた。
男の親指がゆうるりと三枝の肋骨をなぞる。顔の高さまで持ち上げられて、長い前髪の合間から見える鋭い眼光は乾いていた。商人が値踏みするかのような、容赦のない視線。男は口の端を少しだけあげた。
「これは良い。お前は私が貰いうけよう」
そうして三枝はこの男の所有物になった。
*
ざあ、ざあと。しとしとと。雨は降り続く。略式の雨。今は雨期だから毎日のように雨が降る。
左之が三枝の部屋に水指しを持っていくと、彼女は熱があるにも関わらず褥の上に起き上がっていた。
呆れながらぐるりと部屋を見渡せば相変わらず殺風景な部屋だった。花ひとつ置いてない。着物だって父や自分が与えなければ極端に無頓着で、流行りのものなど欲しがりもしない。髪は伸びれば乱雑に刃物で切り落とそうとするので組の若い女が世話をしてやり、揃えてやってるらしい。
たまに食べ物の好みをきけば「なんでもいい」とそっけない返事のみが返ってくるほどの不愛想極まりなさで、それでも左之は三枝を妹のようにかわいがっていた。
「考え事か?」
左之は三枝にそう問いかけて、肩に引っかかっているだけの襦袢を襟元まで戻してやる。少女の白い喉が少しだけ動く。まるで言葉が喉で絡まっているかのように。三枝の目線は窓の向こう、今もなお降り続く雨に怒りの眼差しを向けている。
いきり立つように薄い胸が一度だけ大きく動き、汗が僅かにある丘陵を伝って褥に染み込んでいった。
三枝は厚着が嫌いだ。今もこうして熱を出して寝込んでいるというのに寝巻きをほとんど脱ぎ捨ててしまっていた。しかし三枝は左之の言うことはよく聞く。左之の父親が彼女を拾ってきてからはずっと兄妹のような関係だった。
「違う。思い出してるだけ」
「そうかい」
「そう。私には考えなんて必要ない。だって左之がいる。左之は私が考える前にぜんぶ、済ませちゃう、から。 左之が考えるのを止めなければ、私も同じ。左之と同じ」
いつも通りの淡々として朴訥で、そして人間味の欠落した返答だった。手負いの獣が無理やり言語を覚えたような、奇妙な文法とぶっきらぼうで愛想のない言葉遣い。
(あーあ、傷は深けえなあ)
顔が見えなくても、この少女が今どんな表情をしているかがよくわかる。
三枝は幼い頃に必要なものは全て殺ぎ落としてきてしまった。愛情も、悲しみも、主体性もなにもかも。彼女が生きるのに必要なのは炭火のようにけぶる深く、静かでーー触れるととてつもなく熱い、怒りだけだった。
(でも、なァ)
雨に全てを奪われた三枝は、祈雨師を怨んでいる。そして自身の復讐を果たすことを許してくれる左之や組の者だけを必要としている。そこにある種の愛情があるのかどうかは定かでは無いが。
「みい」
愛称で呼ぶと彼女は漸く振り返って左之を見た。大きな瞳が怒りに揺れている。
「みい、は、やめてって言ってる」
「いいじゃねえか。可愛いだろうよ」
「可愛さなんかいらない」
「もったいない。せっかく可愛い顔してるのに」
「いらない。そんなこと言う、左之はいらない」
「傷つくだろ」
「いらないっていってる」
「わかったよ。三枝」
「……お頭様は?」
「お前は親父が好きだね」
「別に。早く帰って来て欲しいだけ。早く祈雨師を殺したい」
「……」
三枝の目的はそれだけだ。しかし組は――左之の父親と他の者達にはもっと大きな目的があることだろう。祈雨師、赤橋蝶子の死は『目的』の為の布石でしかない。
「なァ、三枝。俺も雨は嫌いだよ」
「知ってる」
「でも、さあ。俺はお前が心配だよ」
「……なんで?」
「祈雨師とか葉良乃沙紀とか――復讐に必要なものすべて殺したら、お前が腑抜けになりそうで」
「なったらなんなの。なんの問題もない」
言葉は研ぎぬいた刃のように咎っていた。その切っ先はいつも前を向く。だからこそ美しく、だからこそ危うい。
(結局、雨が全部奪っていくんだ)
だから――死んでもらおう。
祈雨師に代わるものは、心配いらない。ゆっくりと準備が進んでいるのだから。
「三枝、お前は心配いらないよ」
だからお前は俺が守ろう。
互いがすべてを失くしたあの雨の日に、還ることが無いように。
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