正夢から覗く声がわらう

 瀬那の王子である我が子が妻を迎えた。
 その父である信夜は、息子の婚儀を無事見届けながら感慨に耽っていた。
 秋夜が妻となる彩咲の娘に盃を差し出す。彼女はそれを受け取り、口をつけた。美しく着飾った花姫とそれにふさわしく横に在る、我が子。

(大きくなったものだ。そして歌の制御も巧くなった。なあ和花。お前も見ているか)

 王は心の中で今は亡き妻にそう問いかけた。
 式が滞りなく終わると、今度は宴会が始まった。いつもは気難しい顔ばかりしている家
臣たちも今日ばかりは良く酒を飲み、語らっている。

「いやあ、これでお世継ぎは安泰ですかな」
「気の早いことを――」
「いやいや、そんなことは」
「花姫様には早く若の子を産んで頂かなくては」
「愉しみだのう」
「ええ」
「して、花姫様は――」
「今は芦屋の殿方に捕まっているよ。あの人はお祝い事が大好きだからね」
「若は」
「厠に――と言って逃げたのでは」
「ははっ。秋夜様は騒がしいのが苦手だからなあ」
「照れ屋なんだよ。あの方は」

 そんな会話を聞きながら、王は少しだけ頬を緩めた。傍らに控える古くからの友人であり腹心の男が言う。

「秋夜様のご結婚が嬉しいですか?」
「そうでもない。ひとつ面倒事が終わったと思っただけだ」
「そうですか?私には幾分、今日の貴方は幸福そうに見えますが」

 これは、臣としてではなく友人として言っているのだろう。共にこの国を治めながらもう何十年経ったことか。互いに歳をとり髪には白いものが混じるようになった。早くに結婚した友人の子等は大きくなりやがてそれぞれの道を歩み離れていった。そして、我が子も今日、新たな門出を迎えた。

「儂は――かつてあれを処分しようとした。あれがこれからまた『歌』の制御を誤るようなことがあれば、きっとまた同じ決断をするだろう」

 歌うたい。天都の一族はそう呼ばれる。それは他人を思い通りに操るような超能力ではない。己の声に色を滲ませ、他者を少しずつ犯しては思惟を蝕んでいく『病と言う名の歌』を使役するのものだ。
 王家は『病』で赤橋家――祈雨師を冒している。それ故に祈雨師はこの地を離れられない。祈雨師は此処を離れれば死に至るだろう。
 天都の王家が初代の祈雨師を捕え、声で犯したのは何時の事なのだろう。少なくとも遠い昔の話である。初代祈雨師に当時の王がどのような『歌』を用いたのか、信夜は知っていた。

『尽くせ――ただ思うがままに』

 なんとも単純な素っ気ない一言であった。しかし赤橋の一族はその言に『犯され』また『冒されて』いる。

 先程の婚儀の場に居た赤橋家の者達――特に先代祈雨師の赤橋静音は自分や秋夜達をまさに敵を見るような目で睨んでいた。

 末代までも蝕む歌うたいの、恐ろしいところである。一生歌に縛られて生きるのだ。

 故に秋夜をおぞましい子だと信夜は思った。花を枯らし、人を傷つけ、自らをも殺そうとする己が子の歌。
 制御の出来ない力など、なんの意味もないのだ。

『これを仕舞え』

 そう命じ、何度も和花にあの子どもの危険性を説いた。

『お願いです。あの子を殺さないでください――』

 いつも自分に対しては一定の距離感を保って接してきた慎ましい妻が、その時だけは信夜の襟に縋って泣いた。

『お願いです。私は花姫として生きてきて、何一つ望みませんでした。雨の子に捧げられるのは構いません。どうせ餌人です。喰われるだけなんです。私にはそのくらいしか能がありません。でも――あの子は』

 今思い出しても痛々しい程に、妻は憔悴していた。秋夜の傍にいて『歌』の影響が一番強く、自分の襟元を必死に掴む指は生傷だらけだった。彼女は全身にそんな傷が沢山あった。すべて息子が意図せずつけた傷だった。
 頬を伝う涙が、真新しい傷跡をなぞり、しずくに薄く赤が滲む。

『あの子は私の子です。唯一の、わたしだけの、子なんです。おねがい。おねがいです。殺すなら私にして、あの子を殺すなら――わたしも、殺して下さい。お願いです』
『和花……』

 殺すとも、殺さないとも言えなかった。
 そんなとき、ある女が言った。

『私が秋夜様を救ってまいりましょう。だいじょうぶですよ、理由なんて単純で良いのですから』

 それが赤橋早葵。赤橋静音の妹であった。

(早葵……か。あの女も、長生きはしなかったな)

 妻である和花。そして妻を想いながらも、早葵まで愛していた自分。
 男とは愚かなものである。妻には強い同情心を抱いていた。こんな詰まらない男に花姫だという理由だけで嫁がねばならないことが、可哀想で。閉じられた世界で雛の刷り込みのように、王に、自分に尽くしたいじらしさが可愛くて。
 それなのに自分は真逆の女を、愛していた。妻とは違うようで同じような危うい感情で。
 自分は愚かな王である。

(早葵、お前はそんな事どうでもいいと笑っただろうな)

『なあに、あなたってほんとうにつまらないんだから。私は和花様も秋夜様も大好きですよ。だって、あなたの妻で子ですもの。それってあなたの一部でしょう。あなたが愛でているものでしょう?なら、私もそれって大好きだわ』

 あの女は悩まなかったに違いないし、あの言葉に嘘などなかった。あっけらかんとしていて、和花と仲良くなるわ、秋夜を座敷牢から連れ出すわ、好き放題だ。
 それでも――

『ねえ、あなた。あの子を――よろしくね』

 今わの際に、そう言って流した涙だけは、弱々しく優しかった。





 宴が終わったその夜、王はある娘とすれ違った。赤橋家の蝶子だ。
 彼女は自分の姿を見かけるとゆっくりと膝を折って頭を垂れた。王である自分に対して人は皆そのように敬意を示す。何度となく見かける在り来たりな光景であり、仕草でもある。しかしただそれだけの仕草であったのに彼女のそれは優美でありまた儚げでもあった。

 天都信夜が彼女と顔を合せることは少ないので、言葉を交わすのがこれが数度目だ。

「顔を上げよ」

 命じると蝶子は顔を上げた。湖水のように澄んだ、しかしどこか色のない瞳と目が合う。

「赤橋の娘よ。どこか具合でも悪いのか」
「いいえ……」

 会話をした事があまりなくても、彼女が聡明で利発な娘だと言うことは知っていた。
 信夜は少しばかり『歌』を滲ませて、さらに問うてみる。

「――痛むのか?」
「いいえ」
「では、」
「行かねばならぬところがあるのです。何かをしなければならないと、そればかりが頭をぐるぐるとしていて」
「そなたは祈雨に専念していれば良い」
「いいえ――いいえ」

 どうにも様子がおかしい。この娘は、まるで何かに憑りつかれているかのようだ。

「申し訳ありません。失礼致します」

 蝶子はふらふらとした足取りで通り過ぎて行った。
 彼女の姿が見えなくなったころ、王は呟く。

「あれは、秋夜の『歌』か?」

 息子が歌の制御を誤って何かしたのだろうか。ならば――良くない事が起こる。

「沙紀、いるか?」

 王が呼ぶと、沙紀が姿を現した。王の警護としてどこかに控えていたのだろう。

「お呼びですか」
「六花が王家に嫁いだ今、お前の花姫監視の任は解かれた。これからは蛇の目として精力的に励め」
「はい」
「これからは赤橋蝶子の監視を命ずる」

 こうして、姿を消した蝶子と其れを追う沙紀の話が、始まろうとしていた。


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