序章

 ふわりと風が吹いて、六花の髪と着物の袖がやわらかに揺れた。
 ほのかに白梅の香が香ると、彼女の瞳は細められ憂いを散じて。それでいてその瞳には淡い光が灯る。

 ――ああ、まだ彼女は彼を想っている

 その香りを纏い続ける貴女を見るたびに、うまく言葉が出なくなる――貴女は彼への想いを決して忘れはしないから。
『彼』という思い出に紡がれた糸をそっと守りながら、貴女はその想いを支えに生きている。それが真綿のようにゆっくりと自身の首を絞めようとも。

「無名」

 六花は私をそう呼んだ。
 名前のない男。それが私だ。

 同郷の彼女ですら、私の本名は知らない。それが私の失った過去であり、未来でもあった。

「――はやく行こう」

 陽の光を背に受けて、貴女は手招きする。
 その白く滑らかな手に触れてみたいと思い――でも、それを実行に移そうとは思わなかった。

 ――彼女の白梅の香にはきっと『白を纏う』という意味があるのだと思う。
 私は白を纏い喪に服す六花の隣にいることを選んだ。
 彼女は『彼』を亡くしてからずっとその香りをまとい、何事もなかったかのように私に微笑む。
 だから、私からあなたに触れることはしない。
 たとえ言葉にできなくとも、それでいいと思えた。

 あなたの隣に、ただいることができるのなら。





 喧騒がまるで背を追い立てるように響く。実際に後ろからも前からも人混みがおしよせて、私は隣にいる六花が押し潰されやしないかとひやひやする。
 こんな時には『触れない』などと制約を立てた自分に面倒な事をしたものだとうんざりするものだ。
 
「わ、」
「あら、ごめんなさいね。お嬢さん」
「いえ、こちらこそ」
「六花、こちらに――」

 行き交う人に揉まれる六花の袖をやさしく引き、それでも肌に触れないように注意しながら隣に誘導する。

「ありがとう。こんなに人が多いところは初めて」
「おーい、そこの兄さん簪はどうだい?隣の娘さんに」

 これが市場の苦手なところだ。彼らも仕事とはいえ、こうして声ばかりがかかる。それでも活気のある市場に来たのだ。何も見ずに去るというのもつまらない話だろう。

「簪、見てみますか?」
「――うん」

 六花がそう微笑んだので、見てみることにした。
 売られている装飾品は、簡素なものから華やかでそうなものまで様々だ。

「見るだけでなく、ぜひ買っていってくれよ。よく見りゃ、姉さんだけじゃなく兄さんにも良く似合いそうだな。そんな綺麗な顔をしてりゃ」

 それから商人は私の頭巾の隙間から流れ落ちる髪を見て、もっと着飾れば良いだろうと私に勧めた。

「あんたの髪、港で見る異人とおんなじような薄い色だな。目も海みてえに蒼いし、別嬪さんだな。おたくらは男でも実際に着飾ったりするのかい?お偉方がほっとかなさそうだ」

 あけすけに下卑たことを言われたのもあって思わず閉口する。

 昔から、外見については色々と言われた。
 よい『かたち』とは聞こえは良いものの、数日で飽きてしまうものだ。
 自分で言うのもなんだが、異性に困ったことはなかった。
 ただ彼女たちがすぐに去ることを知っていたので、良い関係を築こうという気持ちがあまりわかなかった。

「そこまで綺麗な顔に生まれれば、苦労もなさそうなもんだ」
「生まれてこのかた、苦労しかしてないがね」

 思わず呟いてしまうと、みかねた六花が商人に言う。

「えっと……うん、あの、今日はこの簪を頂こうかな」
「まいどあり!」
「ところで、最近変な噂とか聞いたりする?」
「噂ぁ?ああ、そういや、ここから少し遠くにある日鳴って町で雪が降るって言うんだ」
「雪?」

 六花がちらりとこちらに視線を向ける。
 私も気を取り直して、商人に問う。

「しかしながら――今は夏ですよ?」
「さてねえ。自分も実際に見たわけじゃなく、お客さんが言ってたもので」

 商人は思案するように首を傾げて

「でも『あれは祟りだ』って真顔で言うんで、よっぽど怖い目にあったんじゃないかね」
「なるほど」
「情報、ありがとう」

 六花は買ったばかりの簪を振って、にこにこと商人に別れを告げた。

「うん、嫌な人だったけど簪はとってもきれい」

 棒の先端に硝子細工でできた蝶の飾りが揺れている。
 なんてことのない安物だが、彼女は満足したようにそれを眺めている。

「よかったですね」
「それになんだか懐かしかった。あなたの事を綺麗だって――よく十夜も言ってた」

 そうだったよね、とわらう。
 そんな彼女からは、いつも白梅の香りがする。
 冷たい空気のなかで懸命に花開く――あの白い梅。紅梅よりも控えめで、しかしどこか清々しくほんの少しだけ甘みのある、そんな香り。

「十夜は確かにそう言ってましたね」

 後ろ手に手を組んで、彼女は私の方へと振り返る。
 
 微笑む瞳には、あの淡い光がある。
 憂いと共に、灯るあの光が。

 故郷の村で私と六花と十夜はずっと共にいた。
 彼はいつもひとりでいる私にいつもじゃれついて。気さくで、そして人をよく見ていた。

 ――十夜。

 お前の言葉が、今も六花を生かし続けていることを私は知っている。

「――もう、思い出しか残らないんだね」

 六花がささやく。
『彼』にはこれからがない。
 私は肝心な時に彼を助けられず、この世で大切だと想っていたものをこの手から取りこぼしてしまった。
 十夜を亡くしてからも、六花は涙を見せる事はなかった。
 笑い、怒り、ふざけて――三人でいたころのように振る舞う。
 しかし、

『――十夜』

 花が咲くように、やさしく、淡く。
 あなたが彼をそう呼んでいたことを憶えている。

 そして当然のようにあなたを抱きしめる十夜の姿が、いつも思い出された。

「……六花」

 私は知っていた。
 彼が亡くなろうと、貴女は彼の『もの』であること。

 ――私はあなたへ想いを告げないことを

「じゃあ、行こうか。雪が降る『祟られた』町へ」

 六花は前を向く。
 私たちが――いや、私ができなかった贖罪を果たすために。


20241013

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