ゆめのあと
苦痛に身を寄せて寄り添うほうが楽なこともある。抱える苦しみを乗り越えるという過程はひどく苦痛を伴うのだから。
*
「アキ」
「なあにハル」
ソファで眠そうにしながらアキは気だるげに返事をした。
「ハルモトさんから僕宛にメールきたよ。『最近アキが冷たいんだー(泣)』って」
「はい!?」
「ハルモトさんのこと放置してたんでしょ」
「う、」
「連絡してあげなよね」
ハルモトはアキの恋人だ。中学生のハルが言うのもなんだけど、子犬のようなひとだと思う。女性にしてはおおざっぱで短気でむらっけのあるアキのことが大好きでしかたなく、時折こうしてハルにもメールしてくる。
「めんどくさいやつね。ほんとにもう」
そう言いながら携帯を手に取りメールを作成するのだから、アキだってハルモトが大好きなのだろう。
「そういえばさ、ハルモトさんがいたからだったよね。アキが僕の事『シン』って呼ぶようになったの」
「そうね」
アキがメールを打つ手を止める。
「……そうね、そうだった」
「ハルとハルモト、ややこしいもんね」
「ずっと、あいつのこともハルって呼んでたからね」
「僕がサイトでシンって名乗ってたから、ちょうどよかったよね。あだ名ができて」
「ハル」
ソファから身を起して彼女は甥と視線を合わせた。左手首の傷跡を右手でなぞりながら、ほんの少し微笑んで言う。
「ハル、あんたはシンって名前が好き?」
「好きとは違うけど」
「『なくしたいとも思わない、自分の一部』?」
クゥが言っていたことを思い出す。ハルが母親は右手のようなものだと言っていたと。きっとこのこは何事もそんな風に感じている。
「うん。僕の一部。僕が僕だなあって思える一部分」
「罪が?」
「そんな大げさな意味じゃないよ、アキ」
「でもそう呼んでほしいと思う時期もあったんでしょう」
「アキがこれからもシンって呼びたいなら、そうしていいよ。僕はハルだけど、シンでもあるんだから。僕はアキが笑ってくれるならそれがいい」
彼の言葉に重さも冷たさも感じなかった。ほがらかに軽く、さらりとした風のようにいつだって変化は可能なのだというように彼は笑う。
「アキ。僕ね、かあさんに殴られるの辛かった」
「……うん」
「アキも同じでしょう」
「そうね」
悪い男に騙されて、リホがハルを身ごもったのは十代の頃だった。当時学生だったアキもシングルマザーとなる姉に戸惑いを隠せなかった。生活は劇的に変わってしまった。母はヒステリックに。そして自慢の姉は常に塞ぎ込み、平和な日常に毒を流し続けた。
「あんたの父親がねえさんを置いて逃げたから、大変だったわ」
あとはどこにでも転がっているような話。実家で暮らして母親とアキに協力してもらいながら、育児、家事、仕事に追われ自身の至らなさに苦悩しながらもリホはようやく息子を連れて家を出て、幸せになれるそう思ったのも束の間のこと。リホは気丈な女性ではなかった。崩壊した自身の未来像に絶望して、だんだんと精神を病み、そして……
「ハルに暴力を振るうようになった」
「そうだね」
細い背。レモンジャム。熱く走る痛み。母と二人で過ごした数年の間を思い出して浮かぶのはそれだけだった。
「でもね、アキ。かあさんは僕の事忘れてなかったよ」
口元に笑みが浮かぶ。赦せないという黒一色の感情のなかに浮かぶ一筋の白。
「だって『しろねこ』の絵本を持って僕を待ってたんだ」
「そんなの、偶然じゃないの」
「そうかもしれない」
精神を病んで息子と引き離された母がどこまで正気を保っているかなんてもう誰にもわからなくて、自分がしたことに責任が取れる日がくるかなんてもっと怪しい。
「でも、アキ」
甥の瞳が潤む。
「僕はそれでいいと思う。ううん、いいと思えた」
「赦せるの?」
「赦せない。でも」
ハルは息を吸い込んで、胸に手を添えた。
「赦せないことが痛いと思えたよ」
痛い。痛くない。嫌い。愛してる。赦したい。赦さない。どんなに混ぜても黒にしかならない絵の具。
なにもかもを綯い交ぜにして、沢山の絵の具から作られた黒に少しでも白が混ざっているのならそれでいい。
――なくした白を僕は見つけた。
「そう。痛かったんだ」
「痛かった。久しぶりで痛くて泣いちゃったよ」
ハルが泣き笑いをして見せる。アキも笑った。ほんの少し、涙もでていたかもしれない。
「ばかだね」
「アキだって。頑固すぎるとハルモトさんにフラれるよ」
「ほっといてよ」
「いやだ。僕はアキに幸せになってもらわないと困る」
貴女が幸せでなければ僕だって幸せになれないから。
13.03.12
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