Prologue

「オーカ、最新のニュースを」
 アーサーが携帯端末に呼びかけると、秘書型アプリケーションソフトウェアのオーカが女性の声で「はい、かしこまりました」と返事をした。すぐにニュース映像のホログラムが出現する。
 空に浮かび上がった画像を幾つかスワイプして、今日のニュースを確認する。
「今日の目玉のニュースは何?」
 アーサーは眼鏡をくいと上げて映像に見入る。
 オーカは対人インターフェイスの役割も果たしている。携帯端末を変えても『オーカ』だけはいつも一緒だ。だから『彼女』はアーサーが気になるようなニュース熟知している。
『ミュージシャン、ギル・ラックのライブが行われたようです』
「あー行きたかったなあ。チケット取れなかった」
『アルバムの発売日が来月14日だそうです』
「じゃあ、予約しといて」
『了解しました』
「他には?」
『はい、アーサー。本日、2152年5月15日は人類がレイの心と知識を手に入れて、15年目だそうです』
 機械的な音声なのに、どこか嬉しそうに聞こえる。それはオーカにもレイの心と知恵が反映されているからだろうか。
「オーカ。嬉しいのかい?」
『はいアーサー。貴方の妹、レイは私のお母さんです』
 オーカが画像フォルダから関連写真をピックアップしてくれる。ぴこんぴこん、と点滅する画像に写っているのは白衣の男性たちと共に居る彼の妹。
 生命体ではないオーカからも母と呼ばれるアーサーの妹。レイ。

 確かに彼女はこの世界の知恵であり、母でもあった。





 西暦2152年。人類は既に3度目の世界大戦を終えていた。それでも人々というのはしぶといもので、卓越した技術を以て文明の発達と、医学、心理学、遺伝子学。様々な分野を用いてこれ以上人類が争いを起こさないようにする術を身に着けた。
 アーサーの妹、レイ。
 彼女はこの世界の『技術』が認めた、世界で一番美しい心を持ち、世界で一番の知識を持つ女性とされ、技術者と政府によってこれを容認、この世界人類すべてに彼女の心と知恵を『インストール』することが可決された。それが10年前のことである。





「兄さん、お帰りなさい……」
「ただいま」
 二十五歳になった妹は、病弱であまり外出しない。1日をベッドで過ごすことが多い。
 世界の『母』と呼ばれる彼女は、アーサーからしてみればただの内向的で大人しい女性だった。
「ニュース見たか?今日でお前も母親歴15年だ」
「……嬉しいわ」
 俯くと長いプラチナブロンドが頬に掛かる。頬が真っ赤だ。
「良いじゃないか。お前のおかげで人類皆平和。お前の知識はライブラリーとして有効に活用されてる」
「そうかな」
 妹は自信がないのだ。十歳で大学を卒業、その後脳科学、心理学、医学、ITなど様々な分野で活躍してきた。
「今日統括部から……連絡があって」
 彼女が務める、通称<世界樹>と呼ばれる研究所。そこで人々は脳内にレイの心と知識をインストールしたり、アップデートしたりする。
 いまではそれが世界中にあり、メインシステムから延びる端子に人々が繋がれて眠る様は大樹が地に根を張っているように見えて、だから皆統括部を<世界樹>と呼んでいた。
「そっか。どうだった?」
「うん、大丈夫そうだった。体調が良くなるまで休んでいいって。でも、兄さん」
私ね、と妹は呟いた。
「私の心と知識は、他の人と変わらないと思う」
「……」
 レイのことをギフテッドと、学者たちは呼んだ。
 十歳であらゆる学問を修め、美しい心と呼ばれ、それらを人々に提供するようにと迫った。レイもそれが人の役に立つならと引き受けた。
「そんなこと、ないよ」
 アーサーはインストールを受け入れていない。脳に他人の――ましてや妹のそれを入れるなんて抵抗があったし、なにより嫌だった。
 脳に埋め込まれる知的ライブラリー、対人インターフェイスにまで組み込まれる妹の『心』。
 妹は世界の母になった。
 人々に知識を与え、争いを好まない、他人を貴ぶ心を与えた。
 でもそれはまるで――世界に個人というものが存在しなくなるような気がした。
 
 妹を、世界に一人きりにする事は、できない。
 たったふたりきりの兄妹なのだから。

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