赤の識別

 ――はあ、はあ、はあ
 呼吸がやけに大きく聞こえる。今は自分を取り囲む男たちの怒号もなにも聞こえない。頭がぎんぎんと痛い。
(知らない、こんな感情)
 アキラは大きく息を吸って、かぶりを振る。
(俺は知らない!)
 目の前に倒れた男は事切れているようだ。しっかりと握りしめたナイフから血が伝って、手を汚す。その温かい血に触発されたかのように、ゆっくりと音が、視界が、リアルに甦る。
「――ラー、だ」
 周囲の男たちが叫んだ。
「エラーだ!」「こいつを世界樹に」「いや、警察に」「<MOTHER>に狂いはない」「しかし、」「危険だ」
 怒号が舞う。
 貧しい街だった。スラムと言ってもおかしくない。政府からの配給でなんとか日々を凌いで、良心と知識を――MOTHERをインストールしているから犯罪が起きないようなそんな場所で十三年間、今日まで生きてきた。
「俺が、殺したの……」
 アキラはまだ信じられなかった。殺意なんて知らない感情だ。MOTHERには無い。知的ライブラリーで参照すれば出て来るかもしれないが、心は、知らない。
「待て!」
 少年は男たちの隙を見て、逃げ出した。
 逃げなければ。

 逃げなければ。






 ぬるい日差しだ。
 昼下がりのオープンカフェはまだ少し肌寒い。向いに座る親友は寒そうにしながら、アイリッシュコーヒーで体を温めようとしている。ノイズ交じりのスピーカーからは21世紀初頭に流行ったらしいジャズが流れている。アーサーはカプチーノを啜りながら空を見上げた。
 エアフィルター越しの空は、いつも砂埃が立っていて眺めが良くない。戦前から大気汚染は深刻だったが、戦争のおかげでさらに酷くなった。環境破壊もすさまじく昔はこの国は常夏だったらしいが、今は大半が冬である。
「偉大なる先人のお蔭で、俺達はいつも籠の鳥さ」
 同僚兼友人、エンリケはいつもそう皮肉る。
「まあねえ」
 アーサーはモバイルを打つ手を止めぬまま、適当に相槌を打った。
 ルポライターをやっている彼はニュースの確認が日課だ。
「確かに戦争があったから栄えたところもあるけどさ」
 友人の言うように、この国は戦争によって栄えた。第三次世界大戦では中立の立場を取り続け、国土には被害がなかった。国の資源はあまり豊かではない為、主に外資で儲け、武器の輸出なども産業のひとつだったからだ。
「えらいとばっちりだよ。俺達は戦争をしなかったのに、気候は変になるし、海外旅行もままならねえ」
「……そうだね」
 エンリケの不満は概ね国民の不満を代弁したものでありよく理解できるが、アーサー自身、戦争に対して批判的な意見を持つ気になれないでいることを口にはしなかった。
 それはアーサーの今は亡き両親がいわゆる戦争成金であり、多大な財産を残してくれたおかげで苦労せずに生きてこれたからだ。妹のレイもやや病弱ながら良い学校を卒業し、良い職に就いている。
『アーサー、ニュースです』
「およ?」
 オーカがこうして自分からニュースを報告する時は、まだ公にされていないスクープがほとんどだ。これはオーカが半自立的に情報収集をするからである。
「おお、オーカちゃん。今日も働いてるねえ」
『ありがとう、エンリケさん。今日もお元気そうですね』
 茶化すエンリケに律儀に返事を返しながら、オーカは情報を読み上げる。
『K地区にて、なんらかの騒動あり。防犯カメラの情報からエラー、バグとの声紋確認。MOTHER関連の出来事である可能性、85パーセント』
 防犯カメラの映像や、音声を盗んだらしい。オーカは指示しなくてもアーサーの望むものを集めて来る。
「MOTHER……がエラー?」
 MOTHERといえば、妹の心や知識が元になっているプログラムの名称である。
 国民はMOTHERの元になっているのがレイだとは知らない。アーサーの親友であるエンリケですら、知らない。
「おいおい、ほんとかよ。MOTHERにそんなことありえねえよー」
 エンリケが呷るアイリッシュからほのかにウィスキーが香る。そういえば、アイリッシュはコーヒーじゃなくてカクテルじゃないか。昼間から酒か、しょうがないな。
 そんな事をうわべでは考えながら、心の奥底に広がるもやを無視はできなかった。
「悪い、僕はもう帰るよ」
「おう、またな」
 挨拶もそこそこに、早足で自宅へと向かう。

 オーカが盗んできた防犯カメラの映像を確かめなくては。







 砕け散ってしまった未来の欠片をひろいあげて、綺麗なものはありはしないかと探し続けるのだ。あるものは炎にまかれ、またあるものは水に沈み、目の前に残ったものだけで未来を築くには余りにも、この世界は終わりに向かいすぎた。
 ざざん、ざざん。ざああ。ざああ。
 目の前に広がる海を眺める。
 きらきら、ちかちか。エアフィルター越しの太陽光が反射して光る。
 この風景とは対照的な、未来を憂いて閉じこもった、あの部屋を思いだす。
 あんなにも綺麗に積み上げた悪夢の残骸はまだ、残っているのだろうか。
「俺は、」
 少年はぎゅっと手を拳を握りしめる。
 
 人を殺めたあの感触は、もうなかった。


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