さよならの機能

『水槽』

あなたが愛した世界はまだ此処に在る。
鮮やかな色彩が揺らめく水底が、
ただ「幸せだ」と言って微笑むのだ。


***



 陽の暮れてきた静かな教室に、澄んだ声がよく通る。

「『――私が進むこの道に、貴方がいない事を祈ります。ずっとずっと。そうして私と貴方の道が交わらないように、ひっそりと水の底で生きていきます。私の肺で、貴方の声を砕く事がないように。私の想いで貴方を殺す事がないように』」

 女子生徒の細い声が芝居がかったその台詞を読み上げる。ぱらぱらと紙のめくれる音と、紙を滑る鉛筆の音。それはある種の舞台音響となって、その台詞に滲むような切なさと艶やかさを与えた。

「『私は心のなかで――父を、母を、きょうだいを、何もかもを殺して生きていきます。一歩一歩を踏みしめるたびに、殺したその心と……人たちを思い出すでしょう。そうしていれば、私は生きていけるのですから』」

 読み終えた女子生徒がほっと息をつく。
 現国の教師は満足そうに「はい、よろしい」と告げるとこの物語の主人公の心情を述べよと別の男子生徒を指名した。

「相手を想うが故に、離れていたいという気持ちです」
「なぜ離れていたいんだい」
「主人公と一緒にいると死んでしまう可能性があるからです」
「じゃあ、この主人公は何を殺そうとしている?」
「自分の気持ちや、それに纏わる人物全てです」
「よろしい」

 初老の教師が二度目の「よろしい」を告げたのと同時に、授業終了のチャイムが鳴った。


 夕陽が教室に差し込む。あれこれと雑事を済ませれば、あっと言う間に帰宅時間になった。

「海斗、帰ろ」

 人の良い兄が、今日も俺を迎えに来る。

「高三にもなると、みんな授業中に内職してない?」
「してるしてる。前の席の木下なんて現国だけど数学のプリントやってたわ」
「それにくらべて僕らは気楽な方かな?」
「僕らは、じゃなくて成績優秀なお前だけな」
「いや、海斗だってスポーツ推薦じゃん」
「そうだけど……」

 つまらない話をしながら、こうして琥珀と歩くのが好きだった。少し歩調を緩めると、自然と彼が前に出る。その背を見ながら、俺は今日の授業を思い出す。

「『私は心のなかで――父を、母を、きょうだいを、何もかもを殺して生きていきます』」

 あの話の主人公は幸せになれただろうか。

 人は一歩ずつ歩みを進めるごとに、何かを殺しているのだと言う。それが何かは人によってかなり偏りがあることだろう。

 希望、夢、喜び、愛?
 絶望、現、悲しみ、無関心?

 そしてあの初老の現国教師のこぼれ話曰く、人が成長するのに必要なのは精神的な意味での『親殺し』なのだという。昔のスポ根漫画なんかにある『俺は親父の背中を超えていく!』ってやつだ。

 親を受け入れつつ、相容れない部分を殺していく。自分なりに噛み砕いて消化しては、自身の血肉に昇華させていく。親の意見と自分の意見の折衷案を、自分のなかで見つけていく。

 それに失敗すると、いつまでも親に恐怖を覚えたまま大人になる。自分の意見に自信を持てない大人になる、らしい。

(俺は――)

 殺せるだろうか。

 目の前を歩く兄の背を見て、思う。
 一卵性の双子は遺伝子レベルだとほぼ同一人物だ。自分だったはずの『なにか』が、自分にとって脅威となった時、俺はどうするんだろう。



 家について各自荷物を自室に置いてから、琥珀の部屋でだらだらする。今日は両親が旅行でいないから、夕飯も適当に済ませる事になる。

 琥珀の部屋は俺と違って綺麗に片付いている。ベージュを基調に整えられた部屋はヘタなホテルよりも居心地が良い。棚のひとつには、色とりどりの鮮やかな熱帯魚が泳ぐ水槽が置かれていた。

「琥珀、熱帯魚増えた?」
「いやー?そのまんまだよ」
「へえ……グッピーだっけ?」
「うん。尾ひれが綺麗でしょ」
「母さん俺にはグッピー飼えって言わないんだよな」
「言わないと思うよ」

 やけにはっきりと断言するので、琥珀なりに手を回したんだろうと思った。いつもは琥珀になる為に色々な事を押し付けてくるあの母親が、琥珀にはやはり甘いのだ。

『――海斗、お兄ちゃんが新しい習い事を始めるみたいなの』

 熱帯魚の件とは別に昨日母が笑顔で言っていたことを思い出す。
 俺にもその習い事とやらをしろと言うのだろう。断る理由はなかったし、そもそも俺にそんな権利はなかった。しかしその習い事を始めるにあたり、バイトや俺自身の時間をいくつか減らしていかなくてはならないだろう。

 父と母は――琥珀の足跡を一つも零す事無く、俺に踏んで歩けと言う。笑顔で、期待を込めて、そう言う。
 
 だから、それに応えようと思った。

「母さんも父さんもどうしようもないね。僕はお前が心配だよ、海斗」

 心配だと言いつつも、自分の真似をするなとか、親を無視すればいいだとかそういう事を琥珀は言わないのだ。それが何を意味するのか、きっと彼なりに理解しているから。

「何突然。こはは笹岡の心配だけしてりゃいいんだよ」
 
 俺は漫画から顔を上げずに言う。

「みさきも心配だけどね。なんでああいうふうに自分を追いつめちゃうんだろうね」

 琥珀の彼女で、俺の幼なじみの顔を思い浮かべる。俺にはつんけんしているけど、そこそこ可愛い顔をしていて、頭も悪くない。冗談も言える面白いやつだった。
 兄があの幼なじみを心配するのは、ただ恋人だからという安直な理由ではなくて、彼女の精神バランスの危うさにある。

「空っぽで、いいのに」

 独り言のように言う言葉が、切なさを孕んでいた。
 兄は俺に笹岡との出来事を逐一話すなんてことはしなかった。言ってしまえば惚気なんて聞いたこともなく、だからこそ言葉の端々に滲むその哀切で彼と彼女の関係を推し量る事が難しくなかった。
 琥珀は笹岡と何があったとは言わない。
 そのぶん、言葉に滲む。

 言葉に滲んだその感情は言いようのない色香を纏い、どこか危うく妖しげで。そしてどうしようもないほどに二人は男と女だった。
 目が、彼の指先が、俺がいないときにどのように彼女を見て、どのように触れているのかわかってしまう。

 空っぽでいいと言えてしまう程度には琥珀は笹岡を愛していて、当然ながら若すぎる恋は盲目で、琥珀は近すぎるが故に笹岡みさきのことを理解しきれていないのだ。
 たぶん俺と同じように。

「逃げ場をなくさなきゃ、頑張れない人間もいるでしょ」

 ぽつりと落とした言葉は、自分でも思っていたより小さかった。

「自分を追いつめて、逃げ場をなくして、なにもかもを殺す寸前までに置いておく。そうすると怖いから走れるんだ。『置いていかれたくない、忘れられたくない』って。骨が折れるまで走り続けていれば、忘れられるし逃げられる」

 そこまで言って、はっと口を手で覆った。
 喋りすぎたと思いながらおずおずと琥珀の顔を見れば、兄は悲しいとも嬉しいともとれるような複雑そうな笑顔で、やっぱり笑っていた。
 困っている、と表現するのが一番近い顔かもしれない。

「海斗」

 琥珀の手がすうと伸びて俺の頭を撫ぜる。真正面に琥珀の顔。
 そういえば双子だからか、身長はほぼ変わらなかった。見下げられることも見上げることもない。それが俺とこいつの立ち位置で、両親がどれだけ俺達を差別しようとふたりは対等だった。

「だから僕は、おまえがしんぱい」

 今度こそ、少しだけ泣きそうな震えた声で琥珀は言う。


 両親がどれだけ琥珀のために俺を虐げていても、それは琥珀の否定に他ならなかった。

 琥珀は俺で
 お前は海斗

 この優しいきょうだいが、そのせいでどれだけ傷ついているかを知りもせず。

 真似をするなとも、やめろとも言えず、ただ後ろをついて歩く俺をこのひとがどんな気持ちで見ているか。

 視線を逸らして水槽のなかを見遣る。美しい熱帯魚は悠然と泳いでいる。
 そのなかの一匹が、仲間の尾ひれを喰散らかしていじめている。

 同じ個体でも、何かが違えばこうして攻撃を受ける。

『私は心のなかで――父を、母を、きょうだいを、何もかもを殺して生きていきます』

 水槽のなかの魚は、世界の色に気づかない。ただ目の前にいるひとの色だけが見える。そしてその色彩に縋っては、自分も同じ色なのだと安心して、生きようとしているにすぎない。

「ばーか。お前がそんな顔しなくていいんだよ」

 所詮、お前に縋って生きているだけの俺も同じにすぎないのだから。
 そう言えば、琥珀はやはり困ったようにわらった。


20161018
title さよならメアリー

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