かえらずの夏の雛
『絵画』
あなたは愛したものを
美しく閉じ込めておくことが得意だ。
ただ、色彩で閉ざしたこの世界に
あなたがいないことを残念に思う。
***
「だから、いい加減にしろって言ってるんだ!」
居間で琥珀が怒鳴っている。もう夜も遅い。近所迷惑にならないだろうかと心配しながら、俺は自分の部屋で耳を塞ぐ。
「海斗に僕の真似をさせたってなんの意味もない!僕の趣味なんか、海斗に関係ないだろ。あいつの自由にさせてやってくれよ!」
「――……――、……――」
対する父と母の声は小さくて聞こえない。何かぼそぼそと言い訳をしているようだが、内容は判然としない。逆に聞こえなくて良かったのかもしれない。両親が俺を愛してくれない理由なんて、聞いたって仕方がないのだから。
自分を守ろうと怒鳴り続ける兄の声を聞き続けていると心臓をぎゅっと掴まれているような気分になった。言葉通り、心臓に良くないのだ。ヘッドフォンをして、音楽を聴こう。今日は特別うるさいやつを。ロックにしようか。それともメタルがいいか。
なんでもいい。琥珀の声から逃げるように、適当につけたウォークマンから流れたのはアメリカの人気バンドの曲だった。
(懐かしい。中学の時に流行ったやつだ……)
ウォークマンのお気に入りリストを何気なく操作すると『琥珀』と名付けられたフォルダが沢山でてくる。両親に――主に母親に、琥珀が好きだから聞いておけと言って押し付けられたCDを落としておいたものだ。
落語からロック、クラシックまでジャンルは様々で、俺はそれを耳が潰れるかというくらい聴いた。
曲が終わり、次の曲が流れる。それは女性歌手の歌う英語のバラードだった。
(これは、琥珀が一番すきなうた)
幼い時に一緒に聴いた、大好きなうた。
思い出に浸りながらその曲を聴いていると琥珀の荒い足音が聞こえてきた。そして当たり前のように俺の部屋のドアを乱暴に開ける。
「海斗、なにしてんの」
(うわーすげえ怒ってる)
普段大人しいやつがキレると怖いと言うのは概ね事実だと思った。琥珀の様子からするとどうやら『説得』は無駄に終わったらしい。俺からすればはっきり言って時間の無駄だし、必要もないことなのだが。
俺はヘッドフォンを少しずらして返事をする。
「音楽聴いてんの。懐かしいのあるよ、お前も聴く?」
「聴く」
琥珀は胡坐をかくと膝の上で頬杖をついて、イライラしていた。兄のこんな顔を知っているのは自分だけだろうな、と思う。笹岡だって、見た事ないかもしれない。不健全なことにあの二人は『まともな喧嘩』をしたことがないようだから。
ウォークマンをスピーカーに繋いで、聴いていた曲を最初から流すと琥珀はじっと瞳を閉ざした。
「ね、懐かしいだろ」
「懐かしいし、やっぱ好きだなあこの曲。僕たちがアメリカに住んでた頃聴いてた歌じゃないか」
「だな」
我が家は父親の仕事の都合でアメリカに住んでいたことがある。俺達が四歳になるまで、異国の地で過ごした。だから俺達はほんの少しだけ、英語がわかる。まあ、英語話者と言ってしまうと本当の英語話者に失礼だ。あくまでわかる程度。
五歳で帰国して、日本で仲良くなったのがご近所の笹岡家だったわけだ。
ちなみに笹岡ご夫妻は新婚時代にアメリカで暮らしていた経験があったから、うちの母親が懐いたのは言うまでもない。でも笹岡みさきが産まれたのは日本だからね。あいつ英語喋れないよ。あと英語大嫌いだよ、あいつ。『英語は勉強の敵だ』って言ってたわ。
「Please....forget me not」
琥珀が小さく口ずさむ。そして頬杖をついたまま呟いた。
「でもアメリカなんかに住んだから、母さんはおかしくなったんだよ」
「かもなー」
俺はあくまでも軽い口調で応えた。
母が『海斗』を差別するのは俺達の幼少期が原因だった。
「慣れない海外での初産。産まれたのはなんと双子でてんてこ舞い。生活習慣が違う、食生活が違う、自由の国とか言って人種差別だって当たり前にある」
「だよなあ。それで俺のほうが夜泣きがうるさくって、キレちゃった……いや、頭のネジが飛んじゃったのかな。でも琥珀は夜泣きほとんどしなかったらしいじゃん?双子でもやっぱ別の人間だよなー当たり前だけど」
俺は笑ったが琥珀は笑わなかった。
母は病んでいったのだ。自宅で子どもの世話をしながら家で夫の帰りを待つだけの母にとって、子育てはきっと苦痛だったのだろう。疲弊しきっている時に、きまって酷い夜泣きをする俺がまるで『自分の敵のように』思えたのだと言う。
『琥珀は――本当に困らせない、いい子だった。お父さんが帰ってくるのが遅いときはいつも琥珀の笑顔を見れば幸せになれた。敵だらけのあの国で、琥珀だけが――私の、私のたったひとりの、味方だったのよ』
あの子は、わたしのかみさまだったの。
いつか俺にそう言ってあどけない少女のように微笑んだ母はもう、きっと正気じゃないのだ。
「なあ、こは。お前もう両親にあれこれ言うのやめろよ。俺は平気だから」
そう言えば琥珀は眉間に皺を寄せて言うのだ。
「僕はお前の為に言ってるんじゃない。僕は、僕の為に、両親にぶつかるのはやめないよ」
そうは言っても元が温和で争い事が大嫌いな性分だ。琥珀の為にはなりはしない。そしてあの両親にまともな会話を求める方が間違っているのだと、彼は気づいていないのかもしれない。
「僕は、海斗ときょうだいでいたい。上とか下とか、真似とか、そんな余分なものは僕たちの間にはいらない」
「琥珀……」
――僕ら、きょうだいで、いたいだけなんだ
琥珀はいつもそうだ。俺の為にじゃなくて、自分の為に両親と争っている。
でも琥珀の望みと俺の望みは一緒なのだ。普段は恥ずかしくて言えないけれど、やっぱり俺はこの双子の兄がとても、とても――好きで。
ただ、きょうだいでいたい。
この愚直な兄が、自分の我儘だと言って必死に盾になろうとしてくれているから。
なにひとつ『お前の為だ』と言わない兄が、ただひとつ、きょうだいでいることを望んでいてくれるから。
「ありがと」
俺はぼそっと呟くことしかできない。
「礼なんて言わないでよ」
琥珀の声音は少しだけ潤んでいたが、それを表に出さずにただ兄らしくにっとわらった。
「あ、そうだ。僕ね、絵を描き始めたんだよ。ちょっと見てくれる?」
「おう」
そう言って琥珀は自分の部屋からスケッチブックを持ってきた。
見せてくれた絵は、風景画だった。何気ない、俺もよく知っている公園の絵。
ただその色彩が――
「きれいだな」
絵に関しては門外漢だ。ありきたりな台詞しか言えない。でも、
木の色が、鮮やかなオレンジだ。池の色は、不思議なくらいな緑。池を泳いでいる鳥、ベンチの色、空の色。なにもかもが、現実離れした色をしていて、なのに不協和音を起こさずに綺麗に融け合っていた。不思議な、本当に不思議な絵だった。
「そう?友達には下手な絵って言われちゃったけど」
あははーなんて琥珀は笑ってる。
双子だけれど、きょうだいだけれど、この人はきっと俺よりたくさんの色を知っていて、世界も知っていて、きっと、
あったかいものを、知っている。
(ああ――)
完全に理解はできない。でも俺なりに愛している、あの母親のことが少しだけわかる気がした。
『私のたったひとりの、味方だったのよ』
――あの子は、わたしのかみさまだったの
血は争えないね、母さん。あんたが嫌う俺のほうが、琥珀よりよっぽどあんたを理解できているだろう。
「確かに独特な絵だな」
琥珀は俺に世界を教えてくれる。
俺が思っているより世界は美しくて、きっとやさしいのだ。
(なあ、琥珀。知らないだろう?お前)
俺を守る、お前の背を。
お前が見せる、俺の世界を。
(どんなに俺が、愛しているか)
お前はたったひとりの、俺の味方だ。そして、嗚呼。
きっとあなたは、俺のカミサマだったんだろう。
なあ、兄さん。
20161028
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