世界はたおやかに終を告げる

 わいわいがやがやと人の声が心地良い。
 夏の避暑地は人が多かった。道路を挟んだ向こう側には売店や土産物屋が立ち並び、人が群がっている。みさきは道路のこちら側のベンチに腰掛けて、幼馴染たちが土産物から出てくるのを待っていた。
 空を見上げる。
 夏の陽射しが、綺麗な緑の葉っぱを透かして葉脈がくっきりと見える。生ぬるい風が髪を浚っていこうとするのでみさきは慌てて麦わら帽子を押さえ付けた。
 じりじりと肌を焼く凶暴な陽射しも、今日は腹が立たない。ペットボトルのソーダ―水を一口飲んで、みさきは少しだけ口の端をあげた。

 ――良いところだなあ。避暑地なだけある。

 腰を捻って後ろを振り向く。そこに在るのは大きな湖だ。一日に何度か観覧船が通る。みさきもこの旅行の最終日に乗るつもりだ。
 ベンチの背に両手を乗せて、そこに顎を乗せる。目を閉じるとたぷんたぷんと水の音がして心地良い。

「みさき。お待たせ」
「わっ」

 言葉と共に頬に冷たい缶が押し付けられた。驚いて体制を元にもどせば、土産の入っている紙袋を下げた幼馴染が微笑んでいた。

「こうちゃん」
「暑かったでしょう。待たせてごめんな。みさきも一緒に中に入れば良かったのに」

 彼の手からコーラの缶を受け取って、みさきはかぶりを振った。

「あんな人込みでは、クーラーなんてたいして効いていないでしょう。あの売店は窓も開けっぱなしだし。此処の方が涼しくていいわ」
「そう?ならいいけど」
「ね、こうちゃん。何を買ったの?」
「うん。これは父さんにあげる置物でこれは母さんの好きそうなお菓子。こっちがバイト先の――」

 嬉しそうに説明を始める琥珀をみさきはじっと見つめる。
 凛々しい眉。すっと通った鼻筋でパーツのはっきりした顔立ちだけど、まとう空気はどこか柔らかくてまどろんでいる。あくまで普通の顔だ。
 普段から物静かで、にこにこと人の話を聞いてる事が多い人だったけれど――大学ではどんな人と一緒にいるんだろう。

「ねえ、最近バイト忙しいの?」
「うーん……そうでもないよ?」

 琥珀は口元に手を当てて、思案するようなそぶりを見せた。

「嘘。忙しいんでしょ」
「え」
 
 みさきはくすくすと笑いながら言う。

「こうちゃん、嘘つくときいつも口に手を当てるんだよ」
「え、そうなの」
「うん。そっかーバイト忙しいんだね。それなのに時間作ってくれたんだ。ありがと」
「そこまで忙しいってわけじゃないよ。少し面倒なバイトなだけなんだ」
「そう?でも、夏休みにこうちゃん達と旅行できるなんてラッキーだなー。来年からは無理かもしれないじゃない。これが最後の夏かも」
「何言ってるの。みさきも来年は大学生だし、またみんなで来ればいいじゃない」
「大学ってそんなに暇なの?」
「うーん、どうだろ。でも夏休みは長いから」
「音大も暇かな?」
「さあねえ」

 琥珀は肩を竦めて笑ってみせた。みさきは受験を控えている音大の事を考える。この旅行はあくまで息抜き。帰ったらもっとたくさんピアノの練習をしなくちゃ。楽典も――そういえばまだ不安なところがあったな。先生に確認とって、そうして――

「おーい、お待たせ―」

 もう一人の連れが戻って来たらしい。声のした方を見れば、道路の向こう側で琥珀と同じように土産物を両手に下げた幼馴染その二が手を振ってる。

「海斗もいっぱい買ったみたいね」
「そうだね」

 海斗は左右を確認して車が来ない事を確かめると、大量の土産物を抱えたままダッシュした。短い距離でもわかる、彼の足の長さと運動神経の良さ。

「さすが、スポーツ得意なだけある」
「僕と違ってね」

 琥珀の呟きが面白くてぷっと噴き出す。

「そうだねえ。こうちゃんは運動ダメだもんね」
「おーい、お前ら何話してんだ」

 さすがに道路を横断するくらいでは息は切れないらしい。笑う二人をきょとんとした顔で不思議そうに見てる。

「海斗は運動神経がいいねって」
「おかしいね。僕たち双子なのにどうしてこんなに違うんだろ」

 そう。彼等は――琥珀と海斗は確かに双子だった。それも一卵性の。
 双子なだけあって、顔はとてもよく似ているけれど、纏う雰囲気は真逆だった。琥珀が静ならば海斗は動。性格も真逆で物静かな琥珀に比べて海斗は口数が多いお調子者だ。

「双子つってもなあ。別の人間だし?」

 けらけらと笑いながら手を振って海斗は言う。

「好みも真逆だよなー。少なくとも俺は笹岡、お前と付き合おうとは思わないよ」
「失礼な!」

 小さい頃から仲良くしてきたけれど、年頃になったら恥ずかしいという理由で海斗はみさきの事を苗字で呼ぶようになっていた。
 大学二年の彼等は高三のみさきからすると随分大人びて見えるようになった。

「ふいー、一服。こは、お前は?」

 どかりとベンチに腰を下ろすと海斗は煙草を吸い始めた。懐からだした煙草を琥珀にも勧めるが、彼は首を振って断った。

「みさきの隣では吸わないよ」
「こは は笹岡に甘いよなー」
「みさきは僕の彼女だから」

 少し恥ずかしそうに瞳を伏せて琥珀が言う。

「げほっ。ちょっとカイ!くさいよ。ほんと、煙草やめて。こうちゃんを見習って!」
「やーだよーだ。ていうか、お前はもう少ししおらしくしろよ。今、こは、すごく勇気出して言ったんだと思うんだけど」

 琥珀の優しさは嬉しかった。
 彼氏彼女というには長い年月一緒にいすぎて――自然とそういうカタチに収まってしまっただけだけれど。
 琥珀の事なら、たぶんなんでも知ってると思うし、それは向こうも同じだろう。
 だから口にだす必要なんてない。

「いいの。こうちゃんの事、私はよくわかってるもん、ね?」

 年上の恋人にそう言えば彼は少しだけ困ったような顔をして、哀しげに微笑んだ。




 その日の夜。
 みさきは部屋で楽譜を開いていた。テーブルの上で指を動かす。とんとん、かつん。爪が時折テーブルをはじく。
 目を閉じると、いつもの課題曲の音に聞こえてくる。

「みさき、入ってもいい?」

 襖の向こうから琥珀が声をかけてきた。手を休めずにいいよと応えると浴衣に着替えた琥珀がタオルで汗を拭いながら入ってきた。

「僕たちお風呂済ませたけど、みさきはまだ行かないの?広くて気持ちよかったよ」
「うーん」
「また、楽譜開いて」
「ごめん。不安だったから」

 練習は一回の休みを取り戻すのに三か月から半年かかると言う。事実かもしれないし、はたまた先生の脅しかもしれない。事実だとしても要領の良い人はそんな事気取らせもせず上手に弾くのかもしれない。
 それでもみさきは不安だった。
 一度休むと何もかも追いつけなくなっていく気がする。みんなに置いて行かれるような気持にもなる。

 夏休みに入ってからは特に毎日勉強とピアノのレッスンに勤しんだ。受験生なのだから当たり前だと先生たちには言われるし、自分でもそうだと思っていた。
 でも両親はそうではなかったらしい。

『みさきちゃん――貴女少しおかしいわ、ちっとも笑わないし』
『母さんの言う通りだ。たまには息抜きしないといけないよ』
『ねえ、みさきちゃん。そんなに頑張らなくていいのよ。お母さんはみさきちゃんが勉強もスポーツも頑張って一番取ってくれるのが嬉しくて喜んじゃったけど――』


『一番じゃ――なくてもいいのよ』


 そう言って、両親は琥珀たちにみさきを遊びに連れ出してくれと頼んだようだ。
 次の日には琥珀からすぐにラインが来て、一泊で旅行に行こうと誘われた。みさきは断ろうと思ったけれど両親に半ば強引に行くように言われて、双子と一緒に此処まで来てしまった。

 それでもペンと参考書と楽譜は持って来ていた。

「こうちゃん――こうちゃんは怖くならない?」

 とんとん、とん。
 ここはレガート。次はスタッカート。クレッシェンドを利かせて華やかに。歌うように。

 先生の指示を思い出しながら、みさきは言う。

「立ち止まったら二度と、歩き出せないんじゃないかって」
「……」

 琥珀は黙ったまま近づくと、テーブルで『弾き続ける』手をそっと掴んだ。

「僕は歩いてないかもしれない」
「でもこうちゃんは勉強好きだよね。良い大学行ってるもの」
「勉強が好きなだけで、みさきみたいに頑張っていないと思う」
「……こうちゃんは余裕だよね。私みたいに必死にならなくてもあんなにいい学校に行けるんだもん」

 ああ、なんて嫌味な台詞だろう。こんな事を言う私はきっと醜い顔をしている。そう思って顔を伏せた。目頭が熱くなる。
 勝手に焦って、勝手に嫉妬して、八つ当たりして。
 嫌な女。なんて――めんどくさい。

「うん。ごめん。でも――みさき。僕は頑張り屋なみさきが好きだよ」

 少しだけ、ためらって。
 でも彼はみさきを抱き締めてくれた。
 恋人にするそれというより、幼い子どもを宥めるような抱擁だった。
 とん、とん、と一定のリズムで広い掌が背を叩いてくれる。
 目を閉ざすと、堪えていた涙が一緒になって零れてきた。恋人でもたやすく泣き顔なんてみられたくない――だから彼の顔が見えなくて良かった。

「うん――うん。ごめん。こうちゃん、ごめんね。わたし、八つ当たりだ――」

 頑張れとも頑張るなとも言わない。
 彼がただ事実だけを述べてくれることを、みさきは感謝した。







 琥珀のおかげか、何だかんだで旅行の最終日は昨日より楽しめたのだから皮肉な話だ。

「よし、忘れもんないよな」
「僕は大丈夫」
「私も」
「じゃあ、夜行バスの時間だからそろそろ行こうぜ」

 バスまでの短い道のりを、琥珀と手を繋いで歩いた。海斗は夜でも元気なままで、相変わらず豊富すぎる話題をふってくれる。
 それにみさきが笑って応える。
 琥珀は保育士のようににこにこしながら二人を見てる。

 バスに乗り込んでからはほとんど喋らずに、琥珀の肩に凭れかかってうとうとしていた。琥珀は乗り物のなかで睡眠がとれないタイプとかで、小説を読んでいる。

(ああ――)

 旅行なんてと思っていたけれど、私は本当は結構限界だったのかも。
 こうちゃん達に連れてきてもらって良かった。明日からも頑張れそう――。

「ねえ、こうちゃん」

 私、頑張るよ。ありがとう――。

 そう言おうとして口を開いた瞬間、大きなブレーキ音が響いた。
バスを強い衝撃が襲って、暗転。

 みさきの意識はそこで途切れた。


*前 しおり 次#

title 彼女の為に泣いた
back to top

ALICE+