きっと君は僕をうらむだろう

 夢を見ていた。夢の割になぜか鮮明で何かが焦げる臭いと、ごうごうと火が燃える音。自分の腹と腕をどろりとしたものが流れている感覚があった。

 ――これは夢。
 ――ぜんぶ、夢なの。

 そう願っていたのに、目を覚ました先で待っていたのは紛れもない現実だった。


「……」

『知らない天井』
 みさきは好きだったアニメのセリフを思い出す。真っ白な天井と、薬品のにおい。左手には点滴が刺さっていて口元を覆う呼吸器がただ鬱陶しい。
 身体中が痛かった。何故か右手が動かないので辛うじて動く左手をもぞもぞと動かすと傍らの椅子に座りながら寝ていた誰かが、ばっと顔をあげた。

「みさき!」
「お、かあさ……」

 喉が渇いていて、たいした言葉にならなかった。

「みさきちゃん……みさきちゃん、大丈夫?どこか痛いところはない?」

 母は真っ赤に泣きはらした目をしながら一生懸命平静を保とうとしていた。

「みず……」
「お水が欲しいの?待っててね。先生呼んでくるね。あとパパに電話してくるわ。先生が良いっていったらお水飲もうね」

 母が部屋を飛び出していく。
 みさきはぼんやりした頭で何があったかを思い出そうとした。

 こうちゃん達と旅行に行って、帰りのバスで――大きな急ブレーキと、衝撃があって。
 それで?

 その後、みさきは母が連れて来た医師と、母に状況の説明を受けた。父は今出先で、後ほど来るらしい。 母と医師は状況を説明してくれた。
 乗っていた夜行バスが事故を起こして、正面からきた車と衝突、横転。運悪く崖に落ちたこと。バスに乗っていた乗客の半数が亡くなったこと。事故から五日たっていること。
 みさきの右腕は複雑骨折した上、筋が切れていること。腹部の裂傷がひどくて出血多量で危険な状態だったこと。

「右手……」

 言われてみれば、右手は動かない。僅かに指先を動かそうとすれば激痛が走った。

「お母さん、ピアノ、は……弾ける?」
「……みさきちゃん」

 母の目から涙が盛り上がり、頬を伝って落ちる。いつもは若作りでお洒落な母が今日はやけに年老いて見えた。毎朝コテで綺麗に巻いている髪はぼさぼさだし、化粧っ気もない。
 少女趣味なレースのハンカチで目元を拭いながら、母は肩を震わせて泣いている。

「みさきさん」

 初老の医師が言う。

「リハビリの経過にもよりますが、右手の損傷はかなりひどいです。右手で物が持てるようになるのにも、かなり時間がかかるでしょう」

 医師ははっきりとピアノは無理だと言わなかったが、みさきはそれだけでもうすべてを察してしまった。

(――ああ、もう、無理なの?)

 あんなにがんばってきたのに。私のピアノ。私の楽譜。私の――呼吸。
 もうあの鍵盤を弾いて、好きな曲を弾くことも叶わないのか。

(こうちゃんに――言ったらなんていうかな)

 諦めるなと言ってくれるだろうか。それとも別の道を目指せばいいと諭してくれるかもしれない。自分ではわからないことも、こうちゃんなら教えてくれるに違いない。

「お母さん、こうちゃん、は?」

 母がひゅっと息をのむ。みさきの動かない右手にそっと手をそえて母は俯き、そして静かに告げた。

「琥珀さん――亡くなったの。お葬式はもう終わったわ」






 あれから何日たったのだろう。
 琥珀がいない。その事実を受け入れられないまま、みさきは茫然と病室で過ごしていた。
 こういう時、個室はいけないと思う。
 自分以外に音を発するものがないものだから、あまりに静かすぎる。

「こうちゃん……」

 琥珀は即死だったそうだ。
 遺体の損傷はひどいもので、誰か特定するのに時間がかかったらしい。あのやさしげなかんばせが血に濡れ、露出した肉と骨と化した姿を想像して、息が詰まるようだった。
 海斗は比較的軽傷だったそうで、もう退院しているという。
 枕元に手をやると、ざらりとした手触りの本がある。
 形見が欲しい――とみさきは両親を通して琥珀の両親に申し出た。小浜夫妻はとても優しい人で形見を渡すのは構わないが、みさきの心痛がひどくなるのではと心配してくれていたようだ。
 それでもどうかお願いします、とみさきは頼み、昨日母が一冊の本を頂いてきた。
 
 あの日、夜行バスの中で琥珀が読んでいた本。
 聞けば彼の中学時代からの愛読書だったそうで、何度も何度も読み返しては大切にしていたものだそうだ。

 ところどころ焦げ付き、血に汚れていて内容をすべて把握するのは難しいだろう。
 手に取り、良く見るとタイトルかろうじて読み取れた。

「ナターシャは此処にいた……?」

 こうちゃんらしい、よくわからない本だ。

「こうちゃん、私どうしよう……ピアノ、弾けないよ。音大にいけないよ……どうしよう。こうちゃんがいないと、私――」

 ぱたりぱたりと本の上に、涙が落ちた。
 
 こうちゃん、私どうしたらいいの。いつもみたいにこうちゃんが励ましてくれないと、私なにもできないよ。
 お願い。お願い。

「いなくなっちゃ、やだ――」

 その時、控え目に病室のドアがノックされ、静かに扉が開いた。

「――みさき」

 海斗だ。
 泣いていたなんて思われたくなくて、慌てて服の袖で顔を拭う。

「か、いと。来てくれ、たんだ」

 ひゃくりあげすぎて、声がきちんとでない。置いてあったタオルを顔に当てて、深呼吸をする。なんとかいつも通りに振舞おうとした。

「――みさき」

 つかつかとベッドサイドまで来た海斗が心配そうな声で呼んだ。

「ごめっ。今ちょっと、でも、大丈夫。ちょっと待って……お願い」

 海斗の顔を見るのが怖かった。もういないあの人。その人と同じ顔の彼。
 見たら、縋ってしまいそうで――怖いのだ。

「みさき」

 その呼び方は、ぞくりとするくらい琥珀に似ていた。当たり前だ。一卵性の双子で、顔も同じなら声だってそっくりで。

「かいと……」

 顔を上げる。海斗も同じように真っ赤な目をしていて、目尻に少しだけ涙が浮かんでいた。彼も兄弟を亡くして辛かったに違いない。自分が意識をなくしてる間にどれくらい泣いたんだろう。まだ(当たり前に)気持ちの整理などついていないに違いない。いつも溌剌としている海斗が今日は大人しく、いつもは乱暴な口調も穏やかだ。

「こは、駄目だった」

 泣き笑いの表情で、海斗は言った。

「うん」

 返事をしていて、涙がさらにあふれた。海斗の言葉で、表情で、琥珀の死がまぎれもなく真実なのだと思い知ってしまう。

「でもみさきが無事で良かったよ」
「うん、うん」
「怪我の具合は?」
「来週には退院できるって」
「そっか」
「海斗は?」
「俺は二の腕縫っただけで済んだ」
「そう……」

 海斗は瞳を細めて儚げに笑う。


「――みさき、大丈夫?」

 静かで穏やかな声と、問い。そこに覚える少しの違和感。そしてはたと気づく。

(――『みさき』?)

 海斗はいつも私のことを『笹岡』と呼んでいた。何故今日は『みさき』と呼ぶのだろう。
 こんな状況だからだろうか。日常ならざる空気が、そうさせただけなのだろうか。

「なんで、今日はみさきって呼ぶの?いつもは笹岡って言うくせに」

 いつもの軽口の調子でみさきが問うと、海斗は少しだけ驚いたように口元に手をやり少し首を傾けて言った。

「そういや、久しぶりにみさきって呼んだな。ただ理由なんてないよ。なんとなく、さ」

 みさきは目を見開く。
 彼のした、あの仕草は――琥珀が嘘を吐くときの、あの――

「今日は顔見れて良かった。いきなり来てごめんな」

 海斗が病室を去った後も、みさきは茫然とする。

『遺体の損傷が、ひどかったの』
『特に顔はひどくて――』 
『誰だかわからないくらいだった』
『海斗さんは意識があって――名前が言えたから』
『だから、残りは琥珀さんだろうって――』


 母の言葉がぐるぐると頭を過る。

(違う。そんなことあるわけない)

 さっきの海斗は本物だ。名前の呼び方と、あの仕草以外、確かに海斗だった。
 海斗な、はず――。

 もしそうでないとしたら。
 ――あの人は、一体誰だと言うの?


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title 彼女の為に泣いた
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