夏の終わり、生温い風が髪を揺らす。
9月に入ったというのに、日差しは未だに高く焼け付くような凶悪さを秘めていた。
夕方というのに、30度を裕に越しているだろう温度の中、ただ歩くという行為にも気が滅入る。
じわり、とした汗がシャツにはりついて気持ちが悪く、不快指数ばかりが増えていく。


 添継龍馬《そえつぐりょうま》は、近所のスーパーで買ったビールが入った袋を片手に、茹《う》だるように暑い9月の夕方、一人暮らしのマンションへと歩いていた。

のっそり、と歩く龍馬の姿は、非常に疲れきった様子を伺わせる。
眉間にシワを寄せた姿は…龍馬の強面をよりひきたたせ、近づき難いオーラを纏っていた。
唇を真一文字に結んだその表情は、まるで決戦にでもいくかのように、ぴりぴりとしている。

 家を帰る事を嫌がるそのゆったりとした歩みは、まるで恐妻家の妻の家に帰る旦那のようでもあった。

添継龍馬。
32歳。独身。

 現在は恋人もいない寂しい独り者である。
当然、結婚もしていない彼に恐妻など、存在しない。
存在しないのだが、龍馬の今の歩みはかなり重く顔も強張っていた。


 駅から徒歩30分というマンションが龍馬一人が住む城であった。
2LDKの部屋は、龍馬一人には少し広いものの、使い勝手がよく気に入っている。会社からも、そう遠くない位置にあった。
都心の住宅街であるが、あまり人がいないため、とても静かなのも龍馬がマンションを気に入っているひとつである。

休日などはクラシックをかけてゆったりとするのが、龍馬の楽しみでもあった。

家に居てまったりと過ごすのが、龍馬にとって癒される時間でもあったのに…


今の龍馬の足取りは、癒しの場所へ行くものとはほど遠い。
足取りだけではなく、強面で鋭い瞳が、今日はいつもの3割増しにもなっていた。
商店街で龍馬の顔をみた子供は泣き出して逃げたほどである。
今の龍馬は、チンピラが裸足で逃げるほど、その顔は凶悪じみていた。


「はぁ…」

深い溜息をはき、視線を腕時計へ移す。

自分への御褒美にとちょっと奮発して買った金のロレックスは、ちょうど夜の7時を射していた。

暦ではすっかり秋ではあるが、まだ日が落ちるのは遅い。辺りはまだ薄暗い程度で日は落ちきっていない。

夜の7時など、普段だったらとっくに家に帰り、テレビで野球中継を見ている時間だった。

それが……。


「あ……」

ウダウダと考えている間に、いつの間にか足は自分の家の前に到着していた。

一人暮らしの筈の龍馬の家のドアは、今日は鍵が下りていなかった。

それを目にした途端、苦虫でも噛んだような渋い顔で、龍馬は唇をかみしめた。

「あいつめ…」
龍馬はそうつぶやいて、まじまじ、と穴が空くほどに鍵が下りていないドアをみつめる。

しかし、どれだけ睨んでも、現状は変わることはない。


「……ちっ…。あれほど帰れと言ったのに……」

深く眉間に皺を作ったまま、苛立たしげにマンションのドアノブを握る。
しかし、龍馬がドアをあける前にガチャリ、っと握っていたドアノブが回った。


「あ、龍馬さん」
龍馬の家から出てきた人間は、龍馬の姿をみとめると、にこりと満面の笑みを浮かべた。
龍馬が家に帰りたがらない元凶。
実は、その元凶たる人物は目の前の男にある。


「お帰りなさい。りゅ・う・ま・さ・ん」
「な……」
「お風呂にする?
ごはんにする?それとも…俺?」

きゅるん、と音がつきそうな、微笑み。
龍馬の強面な顔が、ポカン、と一瞬間の抜けた顔になった。
龍馬の家から出てきたヒラヒラのピンクのフリルのエプロンをきた男に、度肝を抜かれ反応が遅れた。

「なんの真似だ」
「なんのー?
このフリルエプロンのこと?
新婚さんごっこかな?ね、かわいいでしょ、俺」

ピンクのふりふりエプロンを身につけ得意そうに男は笑う。
男のフリルエプロンなど、気味が悪い。
気味が悪いに決まっているが……

不思議と、目の前の男にそのフリルエプロンは似合っている。
龍馬よりも背は低いが170は過ぎているはずなのに…
男が中性的な顔立ちで、しかも髪の毛も方くらいまで伸ばしている為か、さほど違和感がない。


呆然としている龍馬と対して、現れた茶髪の男は、ちょこん、とエプロンの端を持ちながら可愛らしく首を傾げた。


「さぁさ、そんな場所にいないで〜中へ入って。

あ・な・た。
お風邪をひいてしまいますわん」

「あ、あなっ……
は、離せっ!
く、くるなと言っただろうっ!」

迫り来る男に、龍馬は真っ赤になって怒鳴った。


「何故家に上がりこんでくるんだっ」
「やだ、あなた。妻の顔をお忘れなの?」
「妻?俺に妻などいないっ」
「いやだ、私をおわすれなの」
くねっと身体をくねらせて尋ねる男に、龍馬の眉間の皺は深くなっていく。

「ふざけるな」

玄関先と言うのに、龍馬は近所迷惑など顧みず、剥きになって男に怒鳴りつけた。

「んもう、かわいいんだから。でもね、龍馬さん、今よるだから、静かにしないと、メッダヨ」
「だ、誰のせいだ、誰の…」
「うーん、俺?」
「疑問にするまでもなくおまえだ」
「あはは、俺のせいなの…。
そりゃ、まいったね」

答えて男は、しばし口を閉ざしたが、ふと真顔になり、突然龍馬の腕を取った。

龍馬は不機嫌全開で男を睨みつけたが、男に気にした様子はない。

「な、なんだ……」
「やだなぁ、龍馬さん。
俺の名前忘れちゃったんですか?
あんたじゃないですよ。
俺の名前は東矢。三原東矢。

あんたが数年前付き合っていた綾子のおとーと。
そんでもって…」

ニヤリ、っと男…東矢は挑発的に龍馬に口端をあげ笑ってみせる。
薄い唇は、緩やかな弧を描き、目は誘うように細められ艶めいている。
含みをもったその表情は、男をたぶらかす小悪魔を連想させた。


「一ヶ月前から……、言いましたよね?

金曜日にあんたを俺の自由にするって。
俺、あんたじゃないとぬけなくなりました、責任とって、って言ったよね?」
「なんっ……つぅ……」

龍馬の言葉を遮るように、東矢の唇が重なった。
息をつく暇がない激しいキスを繰り返される。
「貪る」という言葉がぴったりなソレは、考える思考すらも奪われる。

舌先で唇をこじ開けられ、ズカズカと口内へ侵入してきた東矢の舌は、まるであやすように龍馬の舌と戯れる。

「ふっ……んん」

龍馬はそのキスに溺れながら、ぼんやりと東矢との出会いを思い出した。


百万回の愛してるを君に