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あれだけ派手な事故だったのに、俺は生きていた。血が沢山出て事故現場は悲惨なものだったのに、人間案外図太いようだ。
ただ、代償として俺の記憶のいち部分が消えてしまった。
消したかった先生の記憶も、笹宮の温もりも思い出せなくなっていた。
病院で目を覚まして一番最初に見たのは笹宮だった。笹宮は俺が目をさますまでずっと側にいてくれたようで記憶を失った俺に対し、恋人だといって俺の看病をかって出た。記憶を失う前の冷たい態度が夢だったみたいに、笹宮は優しく俺に接してくれた。
その表情は本当に恋人を心配する男で偽りなんて見えず、記憶を失った俺はただ与えられる笹宮の愛にオロオロしたり照れたりするばかりで今までのように気持ちを取り繕うことできなかった。
「俺が一生、あんたの面倒を見ますから」
「そんなそこまでしてもらう義理は…」
「あります。恋人なんで。それに…もう二度とあんな思いはしたくない」
笹宮の申し出を申し訳ないと断った俺に対し、彼は頑として聞かず、俺の側にいたがった。笹宮の甘やかしは嬉しい反面、人前でも構わず俺を甘やかすからとても恥ずかしくて。
ちょっと抗議してみても
「恋人なら当然です。だから、あんたは俺にもっと甘えるべきです」なんて変な理屈をたてる。
「ジロジロ見られてもいいの?男同士なのに、肩組んでさっきも見られたよ」
「ジロジロみたいやつには見せればいい。俺はただあんたを愛してるだけなんで」
記憶がない俺が、甲斐甲斐しく俺の世話を焼いて助けてくれる笹宮をまた愛してしまうのも仕方のないことだった。
頼れる相手は笹宮だけ。それが俺の笹宮への想いを加速させた。
初めて見たものを親だと感じるひよこのように、記憶をなくした俺にとって笹宮は初めて見た“唯一”になった。
「記憶なんて戻らなくてもいいよ。笹宮がずっと一緒にいてくれるなら。記憶が戻って笹宮がいなくなるなら、記憶なんていらない」
記憶が戻ったら、笹宮がいなくなってしまうと記憶をなくした俺でも無意識にわかっていたんだろうか。
俺の言葉に、笹宮はどこか泣き出しそうな顔をしていた。
記憶がなくなった俺は笹宮の苦悩の表情の理由がわからず、でも笹宮の悲しんだ顔のままにしたくなくて
「俺、笹宮の言葉なら全部信じてるから。過去なんていらない」
いつも決まって慰めるように彼の頭を撫でるのだった。そして笹宮はその手に年下の恋人らしく甘えるのだった。
記憶を失った俺は、嘘を吐くこともなかった。嘘を吐くことすらも忘れたといっていい。
だから、笹宮には嘘偽りのない言葉で接することができた。
弱音や不安も吐露したし、記憶が失う前は甘えることも遠慮していたのに、先生の記憶の記憶が消え笹宮の腕に身を委ねることができた。
「笹宮、キスしようか?」
「え?」
「したくない?」
「いやいや…!したい。したいですけど…」
「けど?」
「いや、こうやって強請られるの凄く久しぶりだったから…。いつもしたらって感じだったから」
「そうだっけ?覚えてない…」
「そう…ですよね」
「俺は過去なんていいや。今したいから」
にんやりと笑って、笹宮の唇を奪う。
記憶なんていらない。嘘でも笹宮が側にいてくれるなら、偽りの愛に溺れたままでいたい。
蓋を明けなければ、辛いことなど気づくこともなかったパンドラの箱。
それをわざわざ開けることはない。
キツく蓋をして、心の奥で鍵をかけてしまおう。
二度と開くことのないように。
けれど俺の願いとは裏腹に、パンドラの箱は勝手に開いてしまった。それは、皮肉にも笹宮が俺を抱いた時だった。
好きですという甘い言葉と優しい愛撫で気づいてしまったのだ。こんな記憶、ありえないっと。脳がありえない異常に記憶を戻してしまった。正しい記憶はこっちだと思い出させるように。夢からさめろと、パンドラの箱を勝手に開け現実に呼び戻した。
笹宮から甘やかされて、俺も何も疑わず彼へ甘えられる。そんな甘い夢を見てしまったら、もう前の自分には戻れなかった。笹宮には申し訳ないことをしているとわかっていても、 記憶が戻っても俺は、また笹宮に嘘を付き始めた。
簡単だ、嘘なんて。気持ちなんて覆い隠して、嘘を吐いてそうすればずっと幸せだから。
*
*
「玉城さんが、好きです」
今日も俺は笹宮の腕の中。笹宮の愛を信じ切る“ピエロ”を演じる。
笹宮の言葉に、愛撫に感じ身体に熱が灯る。
何度となく抱き合った後も、笹宮は毎度のように俺に愛の言葉を囁く。
「玉城さんの一番になりたかった。
俺は、ずっとあんたに愛されたかったんです…」
俺も愛しているのに。
言葉には口にできないけれど愛していたのに。
いつまで笹宮は俺に愛を告げるのだろう。
笹宮は、まだ俺を傷つけたいのだろうか。
まだ復讐したいと想っているのか。
逃げたい。
でも、逃げたくない。
俺は笹宮を、愛しているから。
笹宮の両親を奪ったのは俺だから。
復讐させて、あげたい。笹宮の気がすむまで。
だから記憶が戻っても戻ってないフリをする。
笹宮の復讐が終わるまで。
笹宮の気が晴れるまで。
俺は笹宮が、好きだから。
笹宮が本当に好きな人ができたら、こんな偽りの憎しみにまみれた愛なんて捨てて、今度こそ俺の前から消えてしまうかもしれないけれど。
俺は…ーー
「笹宮…?」
「…ごめんなさい。そんな顔させてしまうのは俺のせいですね…」
笹宮はぎゅっと俺を抱きしめたまま
「ごめんなさい…」
そう何度も口にした。
止まらぬ謝罪に苦しげに潜められた眉。
怪訝に思い笹宮の頬に伸ばした手。
笹宮は泣き出しそうな顔で、その手に己の手を重ねた。
「笹宮…?」
「ずっと、苦しかったですか?」
「…え」
「記憶、戻ったんでしょう?知ってますよ」
さぁ、と顔から血の気がひく。
いつから?いつから気づいた?どうして俺は気づかなかった?
ああ、そうだ。笹宮の目があの頃と違って「嘘」を言っていないから。だからわからなかったんだ。
記憶を失う前の俺に対しての態度と違うから。その目がどこまでも優しいから。
記憶を失う前の俺に対して、笹宮は何を言った?
また記憶を失う前の関係に戻ってしまうのか…ーーー
咄嗟にベッドから逃げ出そうとする俺を笹宮の腕が捉える。
縋るように向けられた視線に、足は止まった。
「許してくれないかもしれませんが、言ってもいいですか。
あんたに、愛してるって…」
「嘘…だって…ーー」
「あんたが記憶をなくしてから…戻ってもずっと後悔してた。
どうやって謝ろうって、タイミングばかり考えてーー」
「な、なんで記憶戻ったってわかったの?」
俺の嘘は完璧だったはず。
ちゃんと演技できていたはずなのに。
「記憶がなくなって、あんたはずっと嘘が下手で泣いていたから。あんたはただ、誰よりも嘘が上手だったんだって気づいたんだ。
気づいてる?玉城さん。記憶をなくす前、玉城さんはけして泣くことはなかったんだよ。俺の言うことばかり聞いて、俺から離れても平気だって、そんな顔してた。」
記憶を失う前の俺は、嘘ばかりついていた。
笹宮の言葉を信じて、愛に溺れて傷つきたくないと。笹宮に嘘ばかりついていた。そんな笹宮も意地になって、辛く当たったり浮気のようなことを繰り返していた。
俺達は似たもの同士だったんだ。
お互い本心が見えないから、嘘に嘘を重ねて、傷つけあっていた…。
「俺ばかりが好きなんだって、俺あんたを陥れようとしてたのに、気づいたら凄くあんたのこと好きになっていたんだ。あんたのことを傷つけるのは俺だけでいいって想った。親のことなんて忘れればいいって…。俺に愛してるって言ってほしいと」
愛してる。言えなかった言葉。言う必要もないと想っていた言葉を、この男はずっと待ち望んでくれていたのだろうか。
愛を諦めた俺の言葉をずっと待っててくれたのだろうか。
「苦しんでいるあんたのこと俺は何も見えてなかった。
俺よりもずっと俺の親のことで傷ついていた。俺の目的は親を誑かした男を見ること。最初はそれだけだったのに。
どんどん惹かれていったんです。不器用に嘘をつくあんたに。
あんたが事故にあって血まみれで倒れた時、自分のした馬鹿なことを本気で後悔した。あんたが、いなくなったらと思ったら怖くて仕方がなかった」
「笹宮」
「ごめんなさい…。謝って許されることじゃないけど…。
何度責めたっていい。だから、どうか…」
一人で傷つかないでください。
俺はぎゅっと笹宮の背に腕を回した。
記憶を失う前は泣けなかった能面だった俺の瞳から、つぅっと涙がこぼれ落ちた。
なぜだろう、涙が止まらない。
今まで『いけない』と思い込み消した“俺”を肯定してくれた気がした。
他ならぬ、一度俺を傷つけた笹宮によって。
「ねぇ、笹宮。俺も言っていいかな。ずっと秘密にしてたこと」
真実なんて辛いから、嘘をつく。
でも、俺はもう嘘をつけそうにない。
嘘を上手につけるほど、役者でもなかったみたいだ。
でも、それでいい。
俺はもう真実しか彼に伝えたくない。
「俺も、愛してるよ。お前を」
そういえば、笹宮は一瞬大きく目を見開いてへにゃりと情けなく笑いながら俺に囁いた。
「愛してます…」
願わくば、今後俺の記憶は彼で埋め尽くされればいい。
今度は偽りじゃない、真実の愛で。