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貰った名刺を片手に、一度も行ったことのない椎名先生の家へ向かった。
夏目くんと会ったら、なんて切り出そう。
まだ怒っていて、話も聞いてくれなかったら…。
いや、たとえ拒否されても聞いて貰えるまで粘ってみよう。
必要以上に怖がるのは、もう辞めるのだ。
夏目くんが僕のことをどう思っているのか、僕が彼をどう思っているのか…、今しっかりと伝えないと後で絶対に後悔する。
これ以上、後悔は抱えたくない。
観覧車を前に切ない思いをするのは、もう終える。
玉砕覚悟であたって砕けてやるのだ。
見知らぬ街を歩いて、頭の中では夏目くんのことを思い描いて…。
その時、僕の注意力散漫になっていたんだとおもう。
だから、僕のあとをずっとつけている男に気づくことはなかった。
人通りが少ない小道を曲がると、前触れもなく背後から力強く肩を掴まれた。
なに?と思った瞬間に、背後から鼻と口を布で塞がれる。
抵抗しようと身体を攀じるが、背後にいるのはどうやら男のようで、僕より体格が大きくて振りほどくことができない。
声を出そうにも、恐怖で声も出ないし、男の手を外そうと手を伸ばし爪を立ててみるけれど、手は緩まない。
身体をピッタリと押し付けられて、耳元に男の吐息がかかった。
「んぐ…」
「…お前がいけないんだ…お前が…、あの人のそばにいるから…」
男は荒い呼吸をそのままに、僕の口元を覆っていないほうの手を首の方へ移動させ、指先に思い切り力を入れた。
ぎゅっと首を締め付けられる圧迫感に、呼吸がままならなくなる。
視界がぼんやりと、かすれる。
薬品の匂いが強烈すぎて、胃液が迫り上がったように吐き気がこみ上げた。
クロロホルムか何か翳されてるんだろうかー?
意識がどんどん、遠のいていく。
「…んんん…」
「お前があの人を誑かすから…。独り占めするから…。だから…」
この男…、先生のストーカーか。
首を圧迫する手は、憎しみが込められているように強かった。
首を絞められているだけでも恐ろしいのに、男はハァハァと荒い呼吸を零しながら、僕の腰辺りに硬いものをこすりつけていく。
その硬いものがナニかなんて、同じ男だから嫌でもわかってしまう。
腰を反らせ、ピタリとあててくるモノ。
何故、興奮しているんだ?僕なんかを捕まえて…ー
もしかしたら、猟奇的な男なのかも。
人が苦しんでいる様をみて喜ぶ男かもしれない。
だとしたら、このままにしておくのは危険だ。
この場で捕まえることができれば…
しかし、焦れば焦るほど意識が朦朧としてくる。
なんとかしなくちゃいけないのに…どうすることもできない。
このまま、死んじゃうんだろうか。
夏目くんに、この気持を告げることのないまま。
夏目くんに、あの時のキスの意味も聞けないままに。
このまま、先生のストーカーに殺されて僕の一生は終わってしまうんだろうか。
「夏…目くん…」
君に、伝えたいことがあるんだ。
「な…つめ…」
小さく夏目くんの名を呼ぶ。
立っているのも覚束なくなり、力が抜けた。
その時…ー
「俺の大事な人になにしてんだ…」
ドスがきいた低い声とともに、圧迫感が消える。
拘束が取れて、支えを失った僕はフラリと地面に倒れ込んだ。
「…は…っごほ…ごほ…」
気道に入った酸素に噎せ返る。
僕が咳き込んでいる間、「うぐ…」だとか「あぁ」だとか、悲痛なうなり声があがった。
僕を襲ったストーカーだろうか。
それとも…ー
ぜぇぜぇと、荒い呼吸を整えながら、顔をあげると…。
「殺してやろうか?ああ?」
そこには鬼の形相をした、夏目くんの姿があった。
どうして、彼が。なんで、ここに?
湧き上がる疑問は、男を殴りかかる夏目くんを見て消えさる。
舞うように軽やかに男に対し拳で殴りつける夏目くんに、僕は見惚れてしまってしばし、思考が停止した。
かっこいい…。
夏目くんに視線が奪われたように、目が離せなくなる。
夏目くんは、なにか武術でもやっていたのだろうか。
男との戦いの差は歴然で。
男はサンドバックのように、なすがままになっている。
顔は殴られすぎて、原型を留めていない。
容赦ない夏目くんに、ストーカー男はぐったりと地に伏せていた。
「な、夏目くん…それくらいにしたほうが…」
「宮沢さん。でも…」
僕が声をかけた瞬間、夏目くんの意識が男から僕へと移る。
その瞬間を見計らって、襲いかかっていた男は逃げ出した。
夏目くんは、舌打ちをうつと、すぐに逃げ出した犯人を追おうとした。
それを、僕は夏目くんの服を握りしめて、とめた。
ストーカー男をこのままにしてはいけない。
このまま、先生に害が及ぶかもしれない。
それはわかっていた。
だけど…ーーー。
「い、行かないで…」
「宮沢さん…」
「側にいてください…」
お願いします、と懇願すれば夏目くんはそれ以上、ストーカーを追うことはなかった。
震える僕を夏目くんは抱きしめると、「もう大丈夫です、俺がついてます」と僕の震えが止まるまで、側にいてくれた。
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