「…ん…」
長い睫毛に覆われた瞼を震わせ、目を開く。
情事後。
真夜中。
辺りは無音である。
静かすぎて、まるで音がなくなったかのようだ。

どうやらまた、利弥に抱かれた最中に菜月は気を失っていたらしい。
利弥の攻めは激しすぎて、負担が大きい。
利弥自身も、いつもお酒を飲んでから行為に及ぶので、疲労はあるはずなのだが、けしてこの意味のない行為をやめようとはしなかった。

(また新しい…パジャマ着せられてる)

利弥はいつも後処理をきちんとしてくれる。
中に注がれたものはもちろん、汗なども拭いてくれ、毎回綺麗なパジャマを着せられていた。
後処理はしっかりやってくれるおかげで、菜月は利弥に抱かれてもお腹を壊したりした事はなかった。


(嫌いなら、こんなやさしさやめてほしい。
とことん突き放してくれたら、嫌いになれたかもしれないのに)

酷いことをされているのに、些細な優しさで菜月の心は揺れてしまう。
嫌いになりきれたら、こんな風にやさしさのひとつで心なんか揺れないはずなのに。

(利弥さん…)

「ごほっ、ごほ…ごほ」
数回、菜月は激しくせき込んだ。
ここのところ、寒いのに連夜で抱き合ったせいで、風邪をひいてしまったかもしれない。
利弥も風邪ひいてしまわないように…と、隣に眠る利弥にはだけてしまった毛布をかけなおす。
利弥の部屋のベッドはキングサイズのベッドなので、男二人でも隅に余裕がある。
情事の時はあんなに近かった二人の身体も、今はだいぶ離れていた。
まるで心の距離のようだ。

(利弥…さん)

そ…っと、利弥の背に両手で触れ、顔を寄せる。
利弥が起きている時などは、菜月が自分から利弥に触れない。
なにも知らなかったときはべたべたと触ることができたけれど、今は素面のときは、拒絶が怖くて触れることができなくなってしまった。

好きだけれど。
側にいたいけれど。
甘えたいけれど。
利弥は菜月を恨んでいるようだから。
だから、こうして利弥が寝ている間しか菜月は彼に触れることができない。
利弥が寝ている時にしか、菜月からは触れられないのだ。

(せつないって…こういうこと…なのかな…)

初めて、すきになった人。
初めて、温もりをくれた人。

でも…憎まれていた人。


(切ないって言葉は、悲しさや恋しさで、胸がしめつけられるような気持ち…。今の俺みたいな状態なのかな。触れられなくて、悲しい。それでも愛しくて、憎しみをぶつけられるたびに、胸が締め付けられる…。苦しい…)
なにも知らなかった菜月を、利弥は快楽を強要し、いいなりにしている。

酷い男だ。
ズブズブに菜月に男を教えて…
もう多分菜月は女など抱けないだろう。
それどころか、三日ほどで慣らされた身体は疼いてしまう。
奥まったそこに、男の欲望が欲しいと…。



『ねぇ菜月くん。
優しい人はいっぱいいるんだよ。
利弥にこだわる必要ないじゃないか』

小牧はそう、言っていた。
なにも、利弥だけに執着する必要はないと。
自分を傷つけるだけの相手と、これ以上そばに至ってなんの利益もうまない。ただ、傷つくだけ。
それでもいいのか?
傷は浅いうちのほうがなおる。
あとになればなるほど、取り返しのつかないことになるんだぞ、っと。


(俺は…どうしてこんなに好きなんだろうな…。
きっと諦めたらすごく楽になれると思うのに)

こんなに咎められているのに…。
利弥の言葉や言動に傷ついているのに。
それでも…彼から離れられなかった。
さみし気に笑う彼の顔が頭から離れず、一人泣かせたくないと思ってしまう。
菜月を苛み復讐に燃える利弥ではなく、あの一人孤独に迷う利弥こそ本物の彼だと信じてしまっている。確証など、どこにもないのに。
利弥にこれ以上、辛い顔をさせたくないと思ってしまう。

「利弥さん。
好きです。俺、あなたが」
寝ているときだからこそ、何度もいえる愛の言葉。
起きているときの利弥は、菜月の愛の言葉すら、患わしげに口で塞いでしまうから。
寝ているときにしか、言えないのだ。
愛の言葉、すらも。

「ねぇ、利弥さん。利弥さんはかっちゃんを愛していたんだよね。
かっちゃんは利弥さんを愛していたのかな?どうして、かっちゃんは俺に復讐なんてしようとしていたんだろう?利弥さんは母親を玩具にされた。だけど、かっちゃんは?かっちゃんは、なんで…俺を恨んでいたんだろうね。利弥さんとかっちゃんって、どんな仲だったんだろう?」

どんな思いで、香月は菜月のそばにいたのだろう。
利弥と同じで、自分になれさせたうえで、突き放そうとしたのか。
であれば、何故、自分を守るように助けてくれたのだろう。

「あの時、かっちゃんじゃなく…俺が事故で死ねば、利弥さんは今頃、幸せになれた?」
「うぅ…」
突然、利弥は苦し気なうめき声をあげた。

「利弥さん…?」

首を掻きむしり、苦しげに肩を上下している。
発作だろうか。

「利弥さん、大丈夫…?利弥さん…、ねぇ…大丈…」
利弥の身体をゆっくり揺らす。
(凄い…汗)
利弥の顔には大粒の汗が浮かび上がっていた。
近くの棚からタオルを持ってきて、菜月は利弥の大量の汗を拭ぐった。
汗は拭っても拭っても、次から次へと流れ、比例するように体は冷たくなっていく。

「母さ…苦し…よ…。母さ…」
「利弥さん」

ー利弥、たまに言うんだ。
時々、母親の顔を夢で見てしまう、って…。

小牧の言葉が頭を過ぎった。
菜月が悪夢を見ていたように、利弥もこうして悪夢を見ていたのだろうか。
1人で、憎しみに心を縛られながら。

「利弥さん」
小刻みに震える利弥の手を握る。
菜月が悪夢で魘されていたとき、いつもこうして、利弥は手を握ってくれた。


「大丈夫だよ…なにも怖くない。もう怖くないんだ。
もう、大丈夫だよ。なにも怖くないから」
利弥の背を摩りながら、優しく話し掛ける。
そんな菜月の声をきいて、利弥はそっと閉じていた瞳を開いた。

不安に揺れる、利弥の視線。
菜月と視線があったとき、利弥は安堵したように視線を和らげて、


「香月、」

香月の名前を口にした。

「香月…戻って…きたのか…」
「え…」
「香月…」
利弥は香月の名前を口にし、力無く菜月に笑いかける。
普段は見せない優しげなその表情にチクン、と胸が疼いた。

(…かっちゃんにはこんな優しい表情を、するんだ…)

真相を知る前は優しい顔をされたこともあった。
でもこんな風に安堵した、優しい表情じゃなかった。

優しさを感じた真相を知る前の利弥も、香月への愛には遠く及ばなかった。



「香月…」
「…うん…」
「香月…」
ギュ、と香月ではなく、菜月を抱きしめる利弥。
フワリ…と微かに利弥のコロンが香る。

(利弥さんとであったのは、かっちゃんが合わせてくれたんだって思ったけど、本当にそうだったんだね。かっちゃんと、利弥さんの匂いはそっくりだ。泣きたくなるくらい、好きな匂いなんだ)

「香月」
好きな人に抱きしめられているのに…どこか遠い。
きつく抱きしめられる度に、泣いてしまいそうになる。
どれだけ抱いても、そこに彼の瞳に自分は映らないのだから。



  
百万回の愛してるを君に