そんなひとどこにもいない。

そんなひとどこにもいない。
(だから、貴方しか、いない。)




■■■15■■■■

「お前が、中川菜月なのか…」
香月が初めて、菜月と出会った日。
香月は菜月を見て、驚愕に目を見開いた。
「貴方は?」そう訊ねた菜月に、香月は「俺は新しくやってきた家政婦だ」とぞんざいに言い放ち、菜月を横目に舌打ちを打つ。


「こんなガキがあいつの息子かよ…。こんな子供が…」
香月は大きなため息をはいて、その場にしゃがみこみ頭をガシガシとかいた。
そんな出会いが、菜月と香月の2人ファーストコンタクトであった。




乱暴な香月の物言いに人見知りな菜月が彼を『苦手』のカテゴリに入れるのは早かった。

機嫌が悪くなると、責めるように声が大きくなる。
不機嫌になると、鋭い目つきで睨みつけられる。

苦手な父親に似ている香月の視線に、菜月は睨みつけられると蛇に睨まれたように動けなくなった。
菜月は香月から逃げるように、彼がいるときは自室に引きこもり、彼がいなくなるのを待った。

 そんな逃げる菜月に、香月はわざと近づいては子供の菜月を怒らせるような言葉を投げつける。
子供相手に、香月の態度は非常に大人げないものだった。

どうして、自分にかまうのだ?と菜月が恐々と尋ねると、香月は悪びれもせずいうのだ。
俺は、お前が嫌いだから、と。
菜月を傷つける言葉を吐いて、わざわざ嫌われることを望むように香月は菜月に対し、傲慢に振る舞う。
険悪な関係の菜月と香月。


そんな険悪な香月と菜月の仲が変化したのは、春先の事であった。


「お兄さんなんて、大嫌いだ!!だいだいだいっきらいだ!!!」

その日も、香月はわざと菜月に辛辣な言葉を吐いた。
なにをそんなに言い争っていたのか、今ではちっとも思い出せない。
おそらくとても些細なことであったと思うのだが、その時の菜月は香月から与えられた言葉が耐えきれず、菜月は後先考えず家を飛び出してしまった。

衝動的に、無我夢中で、香月から逃げるように走り続けた。
とにかく香月と一緒にいたくなくて。
ひたすら香月から逃げるように走り続けていたら、菜月は全く知らない道に出てしまって、帰り道がわからずに迷子になってしまった。

入り組んだ見知らぬ道。
どれだけ歩こうとも、ちっとも自分が知っている道に通じない。
家への帰り道がわからなくてウロウロと同じ場所をいったりきたりしていたら、やがて日は暮れてあたりは暗闇に包まれてしまった。
辛うじて公園にたどり着いたのだが、遊んでいる子供は1人もおらずここがどこの公園かもわからない。
通りかかる人もいなくて途方にくれていたら、悪いことは重なるもので、雨まで降りはじめてしまった。


 菜月は雨宿りにと、公園の木でできたアスレチックの物陰に蹲った。
春であるのに、夜になると気温はまだまだ寒くて。
菜月は震えながら、雨がやむのを待っていた。

(このまま、誰もきてくれなかったらどうしよう。こんなに暗いし、寒い)
ぎゅっと膝を抱えていると、不安で涙が込み上げてくる。

(こわい…まっくらだ…。このまま、帰れなかったら…)

何時間、菜月はそこで1人膝を抱え泣いていただろうか?


「菜月…っ、菜月っおい、菜月…」

息を切らし大声で、自分の名を呼ぶ聞き覚えのある声がした。
顔をあげて、アスレチックの影から身体をだすと、傘もささず雨でずぶ濡れになりながら、香月は菜月の名を呼んでいた。
キョロキョロと、どれだけ濡れようが菜月を探している。


「菜月…!」
息を切らしながら探す香月は、必死の形相をしていて。

「おにいさん…」
香月を見止めた瞬間、ぶわっとまた菜月の瞳からは大粒の涙が零れおちた。

「こんの…馬鹿っ…。危ないだろ、一人で…、雨も降っているのに」
「ごめんなさい…ごめんなさ…」

菜月の側にかけよると香月は思い切り菜月の身体を抱きしめた。
香月は菜月を叱ったが、その腕は温かくて。
菜月は香月の腕の中で、わんわんと泣いた。
ぐっしょりと、香月の服が涙で濡れるまで。
香月はそんな菜月をそっと抱きしめて、「ごめんな…」初めて菜月に謝罪の言葉を口にした。


「かえろう、菜月」

香月が、菜月に微笑む。
雨の中、舞い落ちる桜。
ひらり、ひらりと零れ落ちるように散っていく花びら。

公園のライトに照らされた香月の顔は、とても綺麗だった。
ひらり、ひらりと舞い落ちる桜に、雨で濡れそぼる髪。

それは子供の菜月の目から見ても綺麗に見えた。

「お兄さんは、とっても、綺麗だね…」
菜月が思ったことを口にすれば、香月の顔はくしゃりと歪んだ。

「お兄さん?」
「綺麗なんかじゃないよ…」

香月は苦々しい顔で、もう一度「俺は綺麗なんかじゃない」と呟く。

「とっても、汚いんだよ…。
綺麗になんかなれない。俺は…真っ黒だ。ずっと…」
「なんで?」
「それは…」

視線を彷徨わせる香月。
震える香月の手をとり、菜月はぎゅっと握った。

「お兄さんは、とっても綺麗だよ」


その日を境に香月の態度は軟化し、菜月も香月に懐いた。

女の人ではないのに、女の人のように綺麗な香月。
口は悪いけど、面倒見がよく、実は心配性な香月。
菜月のことをあれこれと世話を焼く香月は、気の利く兄のようでもあった。


「お兄ちゃんじゃなくて、かっちゃんとよべ」
「かっちゃん?」
「そう。友達っぽくていいだろ?それに俺はお兄ちゃんって柄じゃないからな」
「僕はお兄さんがお兄ちゃんだったら嬉しいよ…?」
「………そうか…」

菜月の言葉に、香月は複雑な表情で微笑む。
以来、菜月は香月のことを「かっちゃん」と呼ぶようになったのだ。



 
 香月は花が好きなようで、よく菜月に図鑑で花を見せては雑学を語っていた。
春の花は、夏の花は…今咲いている花は…など、香月と一緒にいるだけで花の知識が増えていった。
そんな香月に喜んでほしくて、菜月は近所に咲いていた花をプレゼントしたことがある。
野にさく雑草だったけれど、とても綺麗な花だった。
喜んでほしくて渡したのだが、予想に反し、香月は困った顔で菜月に「受け取れない」と花を差し出す菜月に困ったような笑顔を向けた。


「……ごめん、受け取れない。気持ちはうれしいけど」
「お花、嫌いなの?
かっちゃんは、たくさんお花の事知っているし、僕にもくれるのに?」
「嫌いじゃないんだ。むしろ、好きだよ。
ただ、贈られるのは苦手なんだ」

花が好きなのに、家には一本も花がないという香月。
菜月には花をプレゼントしてくれることもあったのに、香月自身の家には全く花がないという。

「なんで?」
「花を見ると、切なくなるからさ。思うだけでいいんだ。
綺麗だな、って遠くから見るだけでいい。俺は、それだけでいいんだ」
「…こんなに綺麗なのに?
すきなのに怖いなんておかしいね。すきなら欲しくならないの?」

菜月がそう断言すれば香月は苦々しく苦笑する。

「そうだな、おかしいよな、うん」
菜月の頭を撫でながら、

「好きなものをすきっていう、そんな勇気もないんだ。俺は。
欲しいとも言えないんだよ」と消え入りそうな声で香月は呟いた。


「どうして?」
「俺が好きだと嫌がる人もいるからさ。
だから好きになっちゃいけないの」
「その人がおかしいんだよ。自分が好きなものを好きって言えないなんて悲しいよ。
なんで、好きになっちゃいけないなんていうの?好きなら好きじゃ、駄目なの?
なんで好きなものを好きっていえないの?」
「そう…だな…。そうなんだよな…」

香月は菜月の言葉に神妙に相槌をうつ。

「菜月」

名前を呼ばれて、菜月は香月を見上げる。
香月はしゃがみこんで、菜月のおでこに自分のおでこをあてた。

「おまえがいてくれるなら、俺もいつか胸を張って好きだと言える日がくるかもしれない。
お前が側にいてくれるなら、いつか…俺も」

変わるってなに?そう菜月が尋ねると小牧は「今はまだ秘密だ」と答えをはぐらかされた。





  
百万回の愛してるを君に