現在19歳である菜月は未成年であるが、両親はいない。
かろうじて父方に遠い親戚がいるものの、やっかいものとされ、必要最低限にしか関わってはいなかった。
 高校まで育ててくれた親戚は絶縁されたため、現在は本当に頼るべき身内はいない。天涯孤独である。

 母方の親戚とは、連絡すらつかない。
そもそも、菜月の父親は死んでしまったのだが、母親は行方知れずである。
もしかしたら、今現在も、生きているかもしれないし、父親と同じように死んでいるのかもしれない。
そんな生存状態さえ、子供の菜月は知らなかった。



菜月の母親は菜月を産んでしばらくすると、父親ではない男と二人で、家を出たと父はいっていた。
菜月に対し、愛がなかったと信じたくはないけれど、今まで一度も母親らしき人が菜月の前に現れることはなかった。

父親はといえば、何かの犯罪で捕まり、そのまま牢屋で首を吊り、獄中で死んでしまった。
何の犯罪かは知らないが、当時、ニュースでこぞってやるくらいの、大きな事件であったらしい。

 自分をおいて男と出て行った母親と、悪事がばれて獄中で首を吊った父。

  母親にとっては、置いていける荷物のような存在であり、父親にとっては、好きだった女の面影を残した忌むべきものだったのかもしれない。


「お前の顔…あいつそっくりだな…。あの女の。
遺産目当てに近づいた女狐そっくりの…売女の顔だ。
色素の薄い茶色の髪といい、無駄に整った女顔といい…。
子供のあいつをみているようで、反吐がでる」


幼い頃の菜月は売女の意味はわからなかったが、ニュアンスで己が嫌われていることはわかっていた。
父親からの視線は、常に菜月への不快感が滲んでいた。


自分は本当に、父の子供なんだろうか?
父親の態度に、何度も疑問に思ったことがある。

どうしたら、好きになってくれるのかな…なんて、怖かった親なのに、健気にも思ったこともあった。
子供なりに、認められたい一心で頑張った時もある。
しかし、どれだけ頑張ったところで父親の態度は変わることはなかった。


 時に言葉だけではなく、暴力もふるわれた。
小ずる賢い男であったので、外から見える場所に傷はつけなかったし、どれだけ怒鳴られても部屋が防音だった為、周りからは菜月が父親から暴力を受けていることを気づくものはいなかった。

屑だ馬鹿だと罵られ、容赦なく殴られる。

父親の近くにいれば、パニックに陥ることもたびたびあった。
パニックをおこし、時には嘔吐してしまった菜月に、父親は「あんな女の子供だから、ダメなんだ」とよく吐き捨てていた。


幸いにも父親は、家に立ち寄ることは少なく、菜月はいつも家で一人だった。
お手伝いさんは数人いたものの、皆、事務的に菜月と接しており菜月と親しくなることもなかった。
  子供の頃から菜月は、感情を出すのが苦手で喜怒哀楽がわかりづらい子供であった。
あまり笑うこともせず、遠くから人を観察する様は、臆病な野良ネコのようでもあった。


初めは何人かお手伝いさんも菜月に友好的に接するように声をかけていたものの、菜月の極度の人見知り具合に次第に嫌気がさして、誰もよってこなくなった。
可愛げのない雇い主の子供など、面倒なだけと思われていたのだろう。


そんな中、たった一人、過去に菜月の味方になってくれたお手伝いのお兄さんがいた。
ほかの派遣されたお手伝いさんより若く男なのに、綺麗だったおにいさん。

菜月は、そのお兄さんをかっちゃん、と呼んでいた。
いまにして思えば、菜月にとっての肉親ともいえる心から許した人間はそのお兄さんだけであったかもしれない。


(かっちゃんがいてくれたら、こんな風に寝不足になることもなかったのかな)
思い返せば、あのお兄さんがいたときは、ここまで酷い不眠症でもなかった。

かっちゃん…、お手伝いのお兄さんは、菜月の家でやとってきたお手伝いさんの中でも、異質な存在であった。

それまでのお手伝いさんは皆、服装も化粧も派手で胸が大きく気が強そうな女性が多かった。20代後半から30代前半くらいの人が多かった気がする。
それに対しお兄さんは、男であったし年齢も20代前半ほどで、家事もお手伝いさんのなかでは誰よりも下手であった。


菜月の父親は、家にいるときは子供の菜月よりもお兄さんと一緒にいたがった。

菜月に対し厳しかった父親が、お手伝いのお兄さんに対しては、でれでれと顔を緩ませて、まるで女に対するかのようにやさしかった。

 
菜月は人見知りに加え、父親の影響か、少し男性恐怖症のきらいがある。
幼い菜月にとっての男の人といえば、身近にいる父親で。
父親といえば、菜月に対して暴力をふるい傷つける恐ろしい存在であった。

幼い頃の菜月は男性を前にすると自然と身体が震えてしまい、たびたびパニックをおこした。

同じ年くらいの子供なら、まだいい。
それが成人くらいの大人になるともうだめだった。
男性教師にすら、怖がってしまい、身体がふるえてしまうのだ。

幼い頃の菜月にとって、男の大きな手は、菜月にとって“殴られる恐ろしいもの”であった。


男にしては華奢で、襟足が隠れるくらい髪を伸ばしていたお兄さんは、一見女のようにも見えた。しかし、声はハスキーであり言葉使いは非常に乱暴で、粗野っぽく、女らしさとはほど遠かった。

耳にピアス、そして首もとや手首などに、シルバー系でまとめたアクセサリーなどをじゃらじゃらと身につけていた。
硬派とは真逆の軟派な顔だちであったお兄さんは、菜月でなくても、少し近寄りがたい印象を受ける。

 お兄さんも、はじめは他のお手伝いさんと同じように他人行儀で、菜月に対して冷たくあたっていた。
仲良くなるまでは、菜月は彼に対し必要以上にびくびくとおびえていたし、彼の姿を見つければすぐに逃げだして顔をあわせないようにした。
喜怒哀楽の振り幅が激しく、感情がすぐ顔に出てしまうお兄さんは、そんな菜月を見てよく苛立っていた。


お兄さんは毒舌で、言いたいことは臆せず口にする人であった。
子供で、年もかなり離れた雇い主の子供である菜月に対しても、遠慮など一切なく、時に容赦のない言葉をぶつけてきたこともある。
菜月が泣きそうな顔をしても、その言葉を止めることなく、より強い言葉で菜月に対しぶつけてきたこともあった。



『お幸せな坊ちゃんには、俺の辛さがわからない』

お兄さんは、菜月と親しくなる前は、よくそう口にしていた。
そして、こうも言っていた。

『お前の親父は、男を抱いているんだぜ…?
おとこの尻に夢中なんだ。
同じちんこついてる、男によ。
男の尻にはぁはぁいいながら、ちんこいれている獣なんだぜ…?
最低すぎるうすぎたねぇ、屑野郎なんだ…』


忌々しげな口調は、どこか寒々しかった。
記憶をたどってみれば、彼はただのお手伝いではなく、父の愛人であったのかもしれない。

そもそも、お兄さんは家事はそんなに得意ではなさそうだったし、仕事はきちんとしていたものの、不慣れで他のお手伝いさんよりもうんと時間がかかっていた。
家事よりかは接客業など人と接する仕事の方が得意そうな印象はあった。

めんどくさがり屋で、派手で楽しいことが好き。
面白いことがなにより好きで、喜怒哀楽激しくて、菜月よりも子供っぽい。
そんなおにいさん。


そんなおにいさんに、菜月の父はまるで惚れた女のように、傾倒してるようだった。


『お前の親父は最悪だ…。
男に…それも、俺みたいなやつに夢中になってよ。
男相手にバコバコ獣みたいに腰振りやがるんだぜ。笑っちまうよな。

穴さえあれば見境なく発情する獣以下の存在。
ただ、セックスできれば、なんだって盛るけだもの。

お前も、そんな血が流れているんだ…。
あの屑野郎の血がな…。
あんなくそ野郎なんかの血が、お前には流れているんだよ』

『お前の血は、汚れているんだ。
あの父親の子供なんだから。
どんなにあらがったって、否定しても、あいつの子供であることを逃れることはできない。

自分の快楽だけを追う…他人をどれだけ傷つけてもなんとも思わない、屑野郎の子供なんだよ、おまえは』

『そう…、自分さえよければ、他は傷つけたってかまわない。人を利用して、傷つけてものうのうと暮らしている…ただの、くそ野郎』


親しくなるまでお兄さんは、父親ほどではないものの、菜月を傷つけるような辛辣な言葉をよく口にしていた。

 同時に、父親を咎める言葉も多かった。
父に対して絶対服従のように傍にいるのだが、菜月と二人きりになると、父の悪口ばかりを口にしていた。

悪口、なんてそんな言葉はなま易しいかもしれない。
おにいさんが菜月の父に対し口にする言葉は、隠しようのない憎悪がにじみ出ていた。


 おにいさんと親しくなってから菜月は、彼に直接「菜月の父親が嫌いなのか?」と尋ねたことがある。
お兄さんは、「お前の親父を嫌いなやつはごまんといるよ…」と苦々しい顔で返していた。

嫌いなのに、何故傍にいるんだろう。
幼い頃、それが不思議でたまらなかった。



  
百万回の愛してるを君に