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秋も半ばに入り、日中の日入りが夏の時よりも少しだけ早くなった頃。

菜月の睡眠不足はピークを迎えていた。

睡眠不足から、仕事中でもふらついてしまうことが多くなっていたし、悪い時にはその場で倒れこんでしまい、一日中休憩室にいるということもあった。
いつもの半分も仕事ができない状態が続いてしまい、思うように仕事をこなすことができない。
バイト仲間からは、仕事ができず厄介者扱いされていたし、菜月自身もどうにかしなければ…と思えば思うほど眠れなくなり体調を崩すという悪循環間に陥ってしまっていた。


 その日も、菜月はバイト先のガソリンスタンドで、客の車を洗車をしたり、軽油をいれたりと疲れた体に鞭をうち、忙しく仕事をこなしていた。

体調が悪いからといって、せっかく雇ってもらえた仕事を休むことはできない。
菜月が働いているガソリンスタンドは、重労働で体力的にきつい仕事ではあるが、安定して稼げるバイトである。
学歴もなく頼るべき人もいなかった菜月に、バイト先の店長は、菜月の家庭事情を深く聞くこともなく採用してくれた。
数十件バイトの面接を受けたが、こんなに親切にしてくれたのは、ここの店長のみである。

現在は、居酒屋のバイトとガソリンスタンドのバイト、2つ掛け持ちしているのだが、居酒屋のほうはもっと他人行儀で菜月を採用したのも人がとにかく少なかったからだそうで、会話という会話も必要最低限であった。

ガソリンスタンドの店長は、気のよい豪快な親父、という表現が似合いの人なのだが、菜月を気に入ってくれており、よくシフトで使ってくれ、時折、外食にも連れて行ってくれる。

菜月の家庭内が複雑なことを、それとなく気づいていて、借りているアパートの保証人にもなってくれていた。

 たまに奥さんが作った料理を持ち寄ってきてくれたり、菜月の体調も気遣ってくれる。
もっと自分に甘えなさい…と、一人で暮らしている菜月を案じてくれており、菜月が困っているときは時に親代わりにもなるといってくれている。とても優しい人である。


 菜月はそんな店長に、感謝してもしきれないくらい、感謝している。
ただ、店長の言葉どおり、心の底から甘えることはできないでいた。

 とても優しくしてくれるのに、素直に甘え委ねることができない。
頼ってしまって、またあのお兄さんのように死んでしまったら?
自分が頼ったことで店長までも悪く言われてしまったら?
そんなありもしない恐怖が心の奥底にあるから、素直に甘えることができず、距離をおいてしまうのかもしれなかった。
それに、ただでさえ菜月は店長によくしてもらっているので、贔屓だ…と陰口を言っているバイト仲間もいる。今以上に店長に甘えてしまえば、そんな従業員から余計に非難されてしまう懸念もあった。

 


ガソリンスタンドの仕事は、時給はいいものの、ガソリンの匂いが常につきまとうし、車の洗車など力を使う肉体労働であり、時給の割にはバイトの入れ替わりが激しい。

 ガソリンの匂いもずっとしているから、合わない人には本当に合わない仕事でもある。


夏は車の排気で暑く、冬などは、冷たいタオルでガラスを拭いたりしなくてはいけなくて、手も気を抜けばすぐ荒れてしまう。身体にガソリンの匂いがかすかに残ることもあった。

バイト仲間は、大学生が多くて、バイトあがりには香水をつけているものがほとんどだった。


自分にも他人にも無頓着だった菜月は、今まで自分の匂いというものを、あまり気にした事はなかったし、彼らに混じって香水をつけるということもなかった。
けれども、その日、彼に会ったことで菜月は考えを改めることになる。




「レギュラー、満タンで」

就業中、黒いポルシェの車窓から、ぶっきらぼうに声をかけられた。

「あ…はい…」

愛想がないその言い方に、嫌な客がきたのか…っと、警戒しつつも、菜月の他に誰も手が空いていないようだったので、仕方なく車に近づいていく。

仕事をしていると、こちらがバイトだから…と、店員を軽んじる客がいる。
いかにもお客様は神様…と思っていそうな偉そうな態度の客もいままでに沢山あたったことがあった。

同じ客は客であるが、その手のタイプは高慢で接客すると気が滅入ってしまう。
目の前の車が、やたら高そうな黒のポルシェというのも、いかにも成金という感じがしていやな感じがする。


 身構えながら、ポルシェに近寄ると、開かれた窓からは、タバコの臭いのほかに、フローラルないい香りが鼻をくすぐった。


(いい匂い。なんの匂いだろう…?
甘い。でもそれだけじゃない…?)

すんすん…と鼻をならしながら、菜月は客人の前だということも忘れ、匂いを辿る。

突然鼻を鳴らし、客に声もかけずにおいの元を探る菜月は、正直、不審者この上ない。

案の定、
「なにか…?」
怪訝な声が、車内からかかった。


「あ…す、すいません!
えっと匂いがして!」
「匂い?」
「ええ、あの…、甘い花のような…。
コロンかな?
すごいいい匂いで…つい、なんなのかな〜って。
あの、すみません。
くんくん嗅いでしまって…ご不快になりましたよね?」

慌てて菜月が謝罪を口にすれば、男は淡々と
「いや…。別に…」と言葉を濁した。


「ほんと、すみません。そ、それで…あの…」

菜月は視線をあげて、目の前の客をみやる。

ワックスで撫でつけれられ、整えられたオールバックの髪型。
鼻は高く、真一文字にキュっと結ばれた薄い唇に、無駄な肉のついていない顎ラインのシャープな顔立ち。
極めつけは、黒いサングラスを着用していた。


(うわ…。ま、マフィア…?)

客に対し、マフィアなんて失礼だとは思ったが、実際見えてしまうのだから仕方ない。

黒いスーツにサングラス、それから嫌みにならない程度に固められたオールバックに、落ち着いた佇まい。

チンピラのように、やすっぽい印象を受けないのは、纏う空気のせいだろうか。

声も低く、耳に残る深みのあるバリトンだった。
  声もかっこいいしオーラもあるなんて、やっぱり俳優さんなのかな…と、客をじろじろ見るなんていけないことだと思いつつ、車の主から視線が離せなかった。


(いかにも隙がない男っていうのはこんな人を言うのかな…。)
男の肩幅は、競泳でもしているかのように広く一般的な日本人の体形よりもがっちりしていたのだが、スーツは特注品のように、男の身体にフィットしている。
傷一つない黒光りしたポルシェ。
サングラスをしても、浮いた雰囲気を出さない落ち着いた佇まい。
最初に感じたいやな感じはいつの間にか消え去っており、菜月は男に対し羨望のまなざしをむけていた。


(…でも、花ってなんかイメージがあわないかも…。

なんかこんな男前の人には花じゃなくて、シトラス系の匂いの方が似合いそうな感じなのに。
甘い匂いじゃなくって、もっとスーッとするような。
こんな可愛い甘い匂いのイメージじゃないんけどな)

菜月の意識は、仕事そっちのけで男に移っていた。


 いつもだったら、他人にあまり興味をしめさない菜月なのに、その男のことはどうしてだか、気にかかってしまった。

男らしい外見に、フローラル系の甘い匂いというアンバランスさのせいだろうか。

さっさと仕事に移らなくてはいけないのに、男への感心が、どうしても消えなかった。



  
百万回の愛してるを君に