「あ…」

懐かしい匂いに、胸がつまった。
じんわりと、暖かな感情が胸に広がった。


(かっちゃん…)

おまえが、泣くと、俺は悲しい。
でも、おまえが我慢しているのが、一番つらい。
なぁ、菜月。
もっと、甘えていいんだぜ。
もっと、泣いてもいいんだ。
つらかったら泣いても、さ。
泣いたらきっと、すっきりするからさ…。

泣くことって、べつに悪い事じゃないんだぜ。
もっと自分を出したって、なにも悪いことじゃないんだ。
お前は何も悪いことはしていない。
お前の存在は、けして、“いけない”存在ではないんだから。


(そうだ…、俺が死んだら、かっちゃんは悲しむ。
俺は…かっちゃんに生かされたのに…
こんなところで死んだら…、俺かっちゃんを裏切ることになる。
こんなの…もしかっちゃんに死んであえたとしても、怒られる。
俺は、かっちゃんに生かされているんだから。今の俺をみたら、幻滅される…)


「ご、ごめんなさい…。俺…、大事な人に怒られることいいました…。ごめんなさい。
それから、ありがとうございました。俺を叱ってくれて…」
「いや…私の方こそ…。
気が動転している君に急に怒鳴って…悪かった。
私の私情を話しても君には迷惑だっただろう…」

すまない…。
男は菜月に対し、頭を下げた。


「そんな…あの、顔をあげてください…。えっと、あの…」

呼び名に困って、つい、お客様と呼ぶ。
それに、男はふと、表情を和らげて苦笑した。
「お客様…か…」
「すみません、お名前…」
「私は…日下利弥《くさかとしや》
君の名は?」
「日下さん。
あ、あの、俺は、中川菜月といいます。
あの、なぜ日下さんはここに…」
「ああ…実は…」

男…利弥は、また事故から今日までのことを簡単に説明してくれた。
利弥の車も事故に巻き込まれ、大破したこと。

利弥は菜月とは違い、大きな負傷はしなかったものの、念の為に病院へ行く事となったこと。
菜月の親族と連絡がつかず、菜月の様子をうかがいにきた利弥が親族に間違われ、色々と説明をうけたなど。


「そうだったんですか…すみません。
家族でもないのにご迷惑をおかけして」
「いや、べつに…。私は…」

言い掛けていた言葉を止めて、利弥は口を閉ざし菜月を見つめた。
鋭利な鋭い視線が、菜月を射る。

(え…?)

利弥の強い視線に、ざわり…と胸がざわついた。

(なに…)

落ち着きのない感情に戸惑う菜月に対し、利弥は君さえよければ、だが…と前置きし、
「私の元へこないか?」と続けた。


「わたしのもと…?あ、あの…?」
「君には…病院に入院しても見舞いにきてくれる親族がいないようだ。
だから、君さえよければなんだが…身体が治るまでうちに来ないか?
君の腕が治るまで。
私に君の世話をさせてほしいんだ」
「えっと?」

利弥は、少し間をおき、再び
「うちにこないか…と誘っているんだが…」
と言葉をつづける。


「…さそう?」
「その身体じゃ…一人じゃ不自由だろう?
満足に動けないようだし、困るんじゃないか?」

利弥は菜月の固定された菜月のギブスに視線をよこした。

確かに、この身体では日常生活は不便だろう。全身に痛みが走る状態であるし、普通の生活もままならないかもしれない。
バイトだって、この腕ではまともにできない。

でも…

「そんな…義理ないですし…」

そんな急な申し出、はいそうですか…と受けられるはずがない。
加害者ならまだしも、利弥も被害者だ。
事故を起こしたわけでもないし、知り合いでもない。

ただの客と、店員である。
ほぼ初対面同然な人に迷惑はかけられない。

「お金でもだましとろうとしているんですか?無理ですよ。
俺、お金なんて、ないし。なにもないんです。
それとも、同情…ですか?死にたいっていった俺に。
でも、ほんと、俺、別に…」

そもそも、初対面であるのに、なんの見返りもなしに世話をしたいだなんて、普通はありえない。
こういう話には、絶対になにか裏があったりする、そう、ただより怖いものはない。
警戒心を持って断れば、利弥は菜月の言葉にしばし逡巡し、


「君が…車にひかれたときに、胸が、ひどく…ひやりとしたんだ」

抑揚のない声で、言葉をつづけた。

「胸がつかまされたような…そんな気持ちになった。また失ってしまう…そんな焦燥感に襲われた。

君が…私の大切な人と同じように、笑って花が好きだといったから。
死んでしまったあいつと同じように、私に微笑んだから。

君があいつに…似ていたから。
あいつと、そっくりだったから。

君が車にひかれ宙を舞ったとき、私は君とあいつを重ね、また失う恐怖におびえてしまった。
君に生きてほしいと、願ってしまった。だから…」

「俺に…?いきて…」

「ああ。君に生きてほしかった。死んでほしくなかった。
そんな風に思った君だから、頼るべき身寄りがないと聞いて、心配になったのかもしれない。
もし頼るべき人がいないなら、私が世話できないか…と偽善にも思ってしまったのかもしれない。
君が目覚めるまで傍にいたのかもしれない」

(俺が大切な人に似ているから…?)

利弥は、真正面から菜月を見据える。

「理由がないとイヤか?
なら、私は、君を死んだあいつのように見守りたい。
君を甘やかしたい。
君の傷をいやしたい。

あいつが死んでしまってぽっかり空いた空間を君で埋めたい。
君が、しっかりと生きていけるまで、君を見守っていたい。
こんな理由じゃだめだろうか?」

そういって、なおも食い下がった。

(…詐欺…?)

普通、あったばかりの人間に、なんの見返りもなく世話を焼いてくれる人間なんていないだろう。
よっぽど慈悲めいている人間くらいしか。
ボランティア精神溢れる人間くらいなもんだろう。

菜月だって、ふつうの状態ならば、利弥の言葉をまともに信じることができなかった。

しかし…

(俺に死んでほしくないっていってくれた…。
大切な人と重なって見えたからっていっていたけど…俺に、死んでほしくない、生きてほしいっていってくれた)

たたかれたのも、心配されたのも、あのおにいさん以来のことであった。
真剣に怒ってくれたのも、こんなに泣いてしまったのも。
ずっと時が止まったかのように、泣くことも癇癪あげることもなかったのに。


 自分にはどうせなにもない。
盗まれるものだって、金だって。
自分の身体以外、なにもないのだ。
その身体も魅力的なものでもない。

こんな大怪我じゃ、今後ちゃんと生活はできない。
だまされたって、どうせ、一度は捨てた人生である。
ならば、この男にかけてみたっていいじゃないか。失うものなんかない。

大切の人の代わりにしたい。
そういう男の言葉にのってしまったって、罰は当たらないはずだ。
だまされたところで、自分にはなにもないのだから。
ダメ人間な自分は、これ以上、堕ちることはないのだ。

(いいよね…、かっちゃん)

「俺…いいの…?ご厄介になっても…」

不安そうに問う菜月に対し利弥は、「ああ」と表情は変えずに、肯定の返事を返した。


「家に人がいれば一人、寂しくなくていい…。
どうだろう、交換条件でいてくれないか?
私の寂しさを埋めるために…。君は怪我を治して独り立ちするまで」
「じゃまじゃない?
俺、なにもできないよ?こんな腕だし。家賃とかも…」
「家賃のことなら心配しなくていい。
私はこうみえて社長なんだ」
「社長さん…偉いんだね…」
「お飾り、だけどな…」

菜月の言葉に、男は微苦笑を浮かべる。

「そんな風には見えないよ」

菜月も、男に、微笑みを返した。

「君は、やっぱり笑っている方がいいな…。花をみて笑っているときも思った。
心から笑っている、そんな気がする…」
「そうかな…」
「ああ。とても、すてきなことだと思う…」

お兄さんが死んだ日から感情が、死んだと思っていたのに。
男に対し、自分はお愛想笑いじゃない笑顔を向けることができたのか。
あの日から、お兄さんが死んだから時が止まったかのように、なにを思うこともなかったのに。

あの日から、菜月の季節は止まったままだったのに。


(かっちゃんが…、
この人を俺の元につれてきてくれたのかな…)

お兄さんと同じ匂いの、同じく菜月を叱ってくれた人。


「日下さん…」
「ん?なんだい?」
「あの…日下さんさえよければ、お世話になりたいです…」

よろしくお願いします、と菜月は頭を下げた。

「代わりでもいいので…」
「そうか…ありがとう。うれしいよ」

利弥は菜月の返事に、口角をあげてほほえむ。
笑った瞬間、少しだけ彼の瞳が鋭く光った。


「でも…前もっていっておこう。
きっと、君は途中で私との生活がイヤになると思う。

私は…さっきもいったように、“欠陥人間”だからな…」

だから、私が世話をできるのは、君が私を嫌いになるまで、と思って欲しい。

君は未成年だったか。
では、20歳になるまでにしようか。

きっと、それまでが、私が君を世話できるタイムリミットだと、そう思って欲しい。

そんな言葉を連ね、利弥は菜月にそれでもいいか…?と尋ねる。
菜月が20になるまで、まだ数ヶ月はある。

その時までには怪我も回復するだろう。

利弥の言葉に菜月は「大丈夫です」と返した。


 その日から、菜月は利弥の世話になることとなった



  
百万回の愛してるを君に