菜月が起きだす頃、利弥は大抵もう会社に行っているか朝の支度をしているかである。忙しいはずなのに、菜月の分の料理まできちんと用意してくれる。
今日は、出かける前だったようで、利弥は珈琲片手に新聞を読んでいた。

「日下さん、おはよ…」
「ああ、おはよう」

微笑とともに、くしゃり、と頭を撫でられる。

「どうだ?怪我は?まだ痛む?」
「うん…、まだちょっと…」
「そうか。
まぁ、焦ることはない。ゆっくり治せばいいんだからな…」
「うん…」
「なんだ?不安そうな顔しているな?」
「そんなことないよ…」

不安なのは、いつものことだし。
暗そうな雰囲気なのも、いつものことだし…。
俺は貴方みたいな人とは、性格も違うし住む世界が違うんですよ。
と、口に出かけた言葉を飲み込む。

それ以上の言葉は発することなく、菜月はテーブル席に着いた。


「朝食、今日もトーストにしたんだが…君は和食派だったかな?」
「どっちでも…特にこだわりはないです」
「そうか…。よかった。」
「俺に気を使わなくてもいいんですってば…」

せっかく気を使ってくれた利弥に可愛げもなく口答えするも、利弥は特に気分を害した様子もなく、コーヒーに口をつけている。
(大人になると、俺みたいな子供が反論しても、気にならないのかな?)
ふと、そんな考えが脳裏に過ぎったが、すぐにその考えを否定する。
大人だから、みんながみんな、こんな生意気な子供に優しくできるわけではない。
ひとえに、利弥の包容力があるから…だ。



「私はもう会社に行くが、買ってほしいものなどないか?その足じゃ買えないだろう?」
「なにもないよ」
「君はいつもそればかりだなぁ。
もっと、わがまま言ってもいいんだぞ?」

私は、君をかわいがる為に引き取ったんだからな…と、利弥は楽しそうに笑う。

「可愛がるって…、なんか、変な意味に聞こえますよ…」
「変な意味ってどんな意味だ?」
ニヤニヤと笑いかける利弥に、菜月はふいっと視線を逸らした。



「菜月くん」
家から出る直前、玄関で利弥が菜月を手招く。
呼ばれて近づいてきた菜月を利弥はぎゅっと抱きしめると、そのままいつものように「行ってくる」と挨拶をしてから、会社に向かう。

菜月が利弥の家に来てからの習慣になりつつある、朝の一連の流れ。
菜月が利弥が会社に行く前に起きると、利弥は出かける前に玄関で菜月を呼び、今のように抱きしめていた。
利弥曰く、人肌恋しい年頃だそうで、朝に菜月を抱きしめると気力を分けてもらえた気になるんだそうだ。
最初は抱きしめられて恥ずかしさと大の男に抱きしめられているという事実に、嫌がりはしたものの。
菜月自身も抱きしめられると、何故か安堵感した気持ちになり、不思議と抱きしめられた日はよく眠れるのであった。

 
 菜月を抱きしめた後、利弥は玄関の扉に手をかけて、はた、と振り返る。

「そうだ、今日は帰りは遅くなるから。先に寝ててくれていい」
「あ…うん。」
「ついでに、夜は豪雨になるそうだ。洗濯物、タオルくらいしか干してないが、もし土砂降りになりそうだったら、取り込んでいてほしい」
「わかった。いってらっしゃい」


利弥を見送り、窓から外を見やる。
外は秋晴れで、雲一つない。
これから夜には、雨が降るなんて考えられない天気だ。

(豪雨か…やだな…)
首元に、手がいく。

雨の日は、あまりいい夢をみない。
悪夢をみる確率が高くなる。
特に、首を絞められる夢は高い確率になる。

今日はせっかく利弥を見送れたのに、雨でまた悪夢を見るかもしれない。
菜月はひっそりと肩を落とし、また視線を外へやった。






『…苦しい…、なあ、苦しいか?なぁ…』
『復讐だよ…これは、お前の…』
『お前に近づいたのは、復讐だ…。なぁ、菜月。
俺は一度だって、お前を…−−−−−で、だから、これはーーーー俺のーーーー』


ーーー復讐だ。

がばっと布団から起き上がる。
は…は…と荒い呼吸音が口から洩れる。べったりとシャツが汗で貼り付いている。

ざぁざぁ…と、外部から切り取られたように雨音が大きく聞こえる。
どうやら、また案の定、悪夢を見てしまったらしい。
嫌な予想ははずれることなく、今夜も夢に出てしまった。

悪夢をみた後はいつも、息苦しくなり飛び起きてしまう。
首を絞められたような感覚に襲われるのだ。


(また、みちゃったのか…。)
布団から体を起こし、膝を抱える。

(なんで見ちゃうんだろう。なんで、いつまでたっても眠れないんだろう。いつまでたっても…。こんな夢、見ちゃうんだ…。こんなの…)

カタカタ、と体が小刻みに震えている。
悪夢を見て怖がるなんて、子供じゃないのに、ばかみたい。
そうじぶんに言い聞かせても、震えは止まらない。
いつまでたっても慣れない自分に嫌気がさす。
いい加減、いつも見ている悪夢なんだから慣れてしまえばいいのに。こんな風に怖がってかっこ悪く震えてしまう自分に、嫌気がさす。


(現実のほうが、もっと怖いのに。
夢なんて所詮、夢なのにさ…)
大好きだった人が、いなくなってしまう悲しさ。
それが1番怖いはずなのに。悪夢なんかに怖がっている自分にどうしようもなく、嫌悪が募る。
男なのに、ちっとも男らしくない、自分に嫌気がさす。


(絶対暗い顔になってる。
こんな顔していたら、心配されちゃうよな。
早く寝て、朝早く起きて、それでちゃんと起きなきゃ…。
おはよう、いつもありがとう…ってお礼も言わないと)

暗い思考を振り切るように、菜月はきつくこぶしを握った。



 菜月が横たわっているベッドはスプリングがよくきいており、布団は柔らかで身体を優しく包んでくれている。
ふんわりとしたとろけるような羽毛布団は、まるでふわふわの羽根に全身を包まれているような錯覚に陥る。

高い素材を使っているんだろう。
ベッドを使わせてもらった時、菜月は自分が使用してきたベッドの布団の肌触りと、硬さの違いに驚いたものだ。


しかし、極上のベッドを使用しているのにも関わらず、悪夢は見てしまうし、眠りも深くはない


極上のベッドを使っているのに熟睡できずに夜更けに悩んでしまうのは…、この場所が自分でも相応しくないと、思っているからじゃないだろうか。
この場所が、本当の自分の居場所ではない、と脳が理解しているから深い眠りに入ることができないのか。


(相応しくないよな…。
やっぱり、俺にはこんな…場所…)

白と黒でまとめられたシンプルな部屋。
必要最低限の生活用品しかない、まるで、モデルルームのような部屋。
生活感のない、作られたような綺麗な空間。

部屋に引き取られて、目覚めて1番最初にやる事は、自分の居場所を確認する事だった。

辺りをみて、自分の部屋でないことを確認し…、
まだ自分がここへいられる事に安堵する。
その繰り返しである。

毎日毎日、自分の居場所がなくなる不安に見舞われて、その度に居場所を確認する。
同じ動作を毎朝繰り返し行い、そのたびに安堵する自分。
いつくるかわからない未来に、どうしようもなく、怖がっていた。


 バカみたいだと思う。
毎日己の場所を確認して安堵するなんて。

バカみたい。
自分でもそう思うのに、やめられなかった。

こんなにも不安に思うのは、せっかく見つけた自分の‘居場所’がなくなってしまうかも不安のせいかもしれない。

(ずっとこのままなんて、無理なのにな…)
いつかくる未来を思い、菜月は瞼を閉じた。

夜は、まだまだ長くて。
菜月は、夢の中でもダラダラと続く道を、なにかに追われるように走り続けていた。
延々と続く道を、ただひたすら、走り続けた。



  
百万回の愛してるを君に