「誰だったか忘れてしまいましたが、こんな言葉がありました。
悩みのない人間なんて、人間として実に薄っぺらの、中身のない人間だと。実につまらない人生をおくっている、と。
人間、悩みがあってその悩みを克服するために成長するもんですから。
その悩みが解けなくて、人生つまづいたり悩んだりするものですよ。成長のない、喜びの感じない人生はとってもつまらないものです。

ここ、昼は喫茶店。
夜はバーになるんですけど、夜はそういう悩みを持ったお客様でいっぱいになるんです。そのお話をじっくり耳を傾けるのも、バーテンの仕事ですから…。人の話を聞くのが好きな私にとって、この仕事は天職なのですよ」

マスターは、そういって、片目を閉じウィンクをしてみせた。

「で、でもかっこわるくないですか?そんなグダグダと悩み続けるのって。男のくせに…」
「男でも悩みますよ。大人でも、ね。
誰だって同じように生きていて、感情がありますから。

自分でもどうしようもない壁にぶち当たって、ぐるぐる悩んで…。途方に暮れて。
でも、それって、それだけ自分が真剣に生きている証だから、悩んでしまうんだと、私は思うんですよね。
真剣に生きていなければ、悩むこともなく、諦めてしまいますから。
そんな悩んでいる方が、ついつい羽根を伸ばし日ごろの悩みを口にする…。
そんな場所がこういったバーや、銀座のスナックなんじゃないかな…なんて。


といっても、私はただのバーテンダー。
銀座のママのように上手く人の悩みを聞けているのかわかりませんが…」

マスターは冗談めかしてそういうと、

「夜にまたお店にきてくださればわかりますよ。同じように悩みを持っている人は沢山いること。みんな真剣に悩んでいることが…」
と続けた。


「夜…?」
「あ、でも…マスター。夜はちょっと…一見さんにはきつい日もあるかもしれませんよ…」

マスターの言葉に、店員である黒沢君が鋭く付け加える。

「…きつい?なにかあるんですか?この店」
疑問を口にすれば、マスターはうーん…と顎もとに手をあてて、逡巡する。


「ああ、そうですね…。黙っていてもあれですし。

えっとですね、このお店には色々と悩みを持つ方がくるとお話しましたよね?」
「はい」
「その悩みというのは…その、小さなものから大きなものまで幅広くてですね。

主に、恋愛の…趣向のものが多いんです。
ドラマなんかの影響でしょうか。
お酒の力のせいでしょうか。
カウンター席に座るお客様はよく私に、ぽろっと悩みを打ち明けてくださるのですが…」
「趣向?」
「はい。
具体的には、男の方が同じ性を方を好きになった…とか、好きになってはいけない相手を好きになった…とかそういう方が、よく集まるわけで…その…」

「もう、マスター!はっきり言っちゃってくださいよ!ここは夜はゲイのお悩みどころみたいになってるって…!マスターはゲイの人の相談室みたいになってるって…!」
「ゲ、ゲイの…?」

ぎょっと黒沢君の言葉に反応する菜月に、
「あ、別にハッテンバとかそういうんじゃありませんよ」

慌ててマスターは、訂正をした。

「ただ何度か男同士のカップルの痴話喧嘩を仲直りさせたり、独り身同士をくっつけたりしていたら、噂がどんどん広まって…って感じで、よくそういう趣向の方が集まるようになったようです…。
人は誰かしらに悩みを聞いてほしいものですから。

でも、なにもやましいことはありませんし、けしてハッテンバみたいなことはなっていませんから…!
ちゃんとしたバーですから…!私も、お客様も、なにも悪いことはなにひとつ致しておりません…!」

マスターは必死に、ここがやましい店ではないと否定した後、
「お客さんは男同士って嫌悪しちゃうタイプですか?」と怖々と尋ねた。


「嫌悪…は、しないと思います…」
男同士、ときいて最初は驚きはしたものの、菜月に嫌悪感はなかった。


「ただ、わからないだけで…」
「わからない?」
「はい。
どうしたら、そんなに好きだと思えるのかな…って。俺、あまり感受性がないのか、好きだ…と思うことも、今までそんなになくて。
異性の女の子にも、どきっとしたことないんです。
なんだろう…。怖いのかな。
失うことを知っているから、誰かを好きでいるのが、怖くて。
だから、誰を好きになることってそんないいもんなのかな…って。

どうして、わざわざ後ろ指刺されるの承知で男の人を好きになるリスクを負っちゃうのかな…って。
悩んだり傷つくだけだったら好きにならなければいいのに…って、そう思ってしまいます。」
「そうですか…」
「俺の両親も、別に愛し合って結婚したわけじゃないみたいです。
だから、余計、自分の中で愛なんて…なんて、醒めているっていうか。

愛し合ったって、時間の無駄だな、って思う自分がいて。
そう思う反面、時々、なんでも話せていつも自分の味方でいてくれるような人が欲しいなんて…我が儘なことも思ってしまうんです」
「なるほどなるほど…」
「今も同居している男の人がいて…、その。凄く感謝しているし、彼がいないと寂しくなるときもあるんです。でも、これが恋かと聞かれるとわからなくて…。
ただの恩でもあるかもしれない。でも、其れ以上かもしれない。
この感情が恋愛感情と同じ好きなのか違うのか、自分でも、よくわからなかったりします…」

自分を保護してくれた利弥が好きだ。
でも、これは恩である。
そう自分に言い聞かせてきた。

けれど、マスターの穏やかな空気に今までもやもやした見ないふりをしていた想いが口から出ていた。


マスターは菜月の言葉にふんふん、と深く頷いた後、
「きっと貴方は物事を深く考え込んでしまうんですね」と呟いて、小脇においてあった銀色のシェイカーを手に取った。


「マスター?」
「踏み込むのが怖いんでしょう、きっと。
誰でもそうです。」
シャカシャカ、と、小気味いい音を立てながら、マスターはシェイカーを振っていく。


「経験したことのないことは怖いもの。経験して初めて慣れていくものですよ…」

マスターは手を止めて、シェイカーの中の液体をグラスに移す。グラスに入った液体は、海の色のような綺麗なエメラルド色をしていた。

「あ、あの…俺、お酒は…だめなんです…。まだ20じゃなくて…」
「ああ、未成年でしたか。すみません。
では、このお酒は貴方が20歳の時にしましょう。あとどれくらいで20歳になります?」
「まだまだですよ。半年はあります…」
「じゃあ、半年後に。
では、お酒は提供できませんが、代わりに言葉を提供しましょう。

貴方がわからないといった、恋の話を。

男同士の…障害があっても好きだと思う感情はね…、私は冷静な頭で考えることのできないくらい、激しい感情だと思っています。
そうですね、相手の顔をみるだけで、思考が吹き飛び、ただ無性にキスしたいとだけ思ってしまう…そんな感情ですよ、きっと。きっと、そんな単純な感情が、好きって感情なのです」
「え…?」

「深く考える必要はありません。
考えても答えのでないことは、あえて考えないほうがいいのです。
なにもかも細かいことを考えないで。
ぱっと頭の中で意中の人を思った瞬間に、出てくる言葉。
それこそが、偽りのない、自分の本心だと思いますよ。
目を瞑って相手を思ってください。
ただ純粋に、自分の思い人を。

一番最初にその人を思い浮かべて、なんて思いましたか?どんな言葉が出てきましたか?

きっと、一番最初に浮かべた言葉や感情が、貴方の思い人に対する、本当の思いだと思いますよ」

そういって、マスターは菜月に笑いかけた。











*****



(男の人が、男の人を好きになる感覚ってどんな感じなんだろう…)
家に帰り、菜月はうさ子さんの隣に腰掛けながら、ぼんやりと物思いに更ける。


(キスしたくなる感じ?キス、したい…?キス…)

自分が、男にキスされる光景を脳裏に過らせ、ありえない…と首をふる。
テレビに出ているような、顔が整った男優でも想像してみたが、どうしても受け入れる気は起きなかった。
自分は男には興味ない人種なのだろう。

(もし、利弥さんだったら…)
それが利弥だったら…そう考えた途端、今までなんとも思わなかったのに、どきりと胸が大きく鼓動した。

「あ、あれ…えっと…利弥さんはそんなんじゃないし…っ。あはは、なに、考えてんの。俺」
あははーなんて、笑ってみたところで、菜月以外いない部屋で笑い声は、虚しく落ちた。
菜月は視線を下へ落としながら、ぎゅっと唇を噛む。

(俺は、もう、好きな人なんて…。かっちゃん以外に好きな人なんて…もう…)

プルルルル。
菜月を考えを遮るかのように、部屋の電話が鳴った。
数コールしたのち、電話は自動的に留守電へと変わった。

「………」
電話口の相手は、留守番メッセージをいれるアナウンスが流れても数秒、口を閉ざしていた。

「あー、利弥、ごめん、俺…」
ようやく、聞こえた言葉は、菜月が利弥の家に居候して初めて聞く声だった。

「小牧だけど…。
なぁ、今度、会えないかな?
お前が今、玩具に夢中になっているのはわかってる。
お前の大好きなあいつを殺した玩具を、壊したくって仕方ないんだろ。お前のことだから。
でも、俺もちょっと苦しくてさ。
な、いいだろ?お互いに。
そろそろたまってくるころだしさ。
これ、聞いたら、連絡欲しいんだ。」



頼むよ、そういって、電話は切れた。

(こまき…。
小牧って…利弥さんの友達で…えっと…)


「玩具って…なんだろう…」
呟いた言葉に、帰ってくる返事はなかった。



  
百万回の愛してるを君に