「おかえりなさい、黒沢くん」

店のカウンターから、少年と同じ黒いバーテンダー服を身につけた人間が、菜月たちに声をかけた。
黒い髪をひとつに束ねた、どこかミステリアスちっくな美人さんである。
染めたことのなさそうな漆黒の髪に、薄暗い店内でも目立つ白肌は、日本人にしては白すぎて、作り物のような整った顔立ちは生気を感じさせない。精巧にできた人形のようでもある。

中性的なその容姿は、薄暗い店内では女にも男にも見え、すぐにどちらの性別か判断するのは難しかった。
胸もない。でも、喉仏もなさそうである。

女の色気もあれば、男のセクシーさもある。
そのどちらともつかない性別不明の容姿と、時間を止めたような店の雰囲気が、よりミステリアスな空気を漂わせた。


「あ、マスター。今戻りました。
あ、あとお客さんも確保しちゃいました」
「お客様…?黒沢君、まだお店は…」
「ああ、僕が直々に料理作りますから!
マスターはのんびりしていてくださいよ!」
「そんなこといって、またフライパン焦がして物体X作ってしまうんじゃないですか?
いいです、私が作りますから」
「やった…!マスター大好き!」

少年はカウンターごしに、マスターと呼ぶ人に甘えるように笑いかける。
カウンターにいるのは、この店のマスターらしい。

とてもきれいな容姿で物腰柔らかではあるが、中性的で声も少しハスキーではあるが、男とは断言できない。ユニセックスでミステリアスな色気を纏った人であった。

菜月を店に招いた少年はまるで子犬のように元気で活発であったが、この店のマスターは年のわりに随分と落ち着いた喋りもしていた。


「急いでなにか作りますね。黒沢君、お客様に席を…」
「ん〜、カウンターでいいんじゃないですか?まだお客さんいないし。あ、お客様、こっちの席、どうです?」

そういい、少年…マスターによると、黒沢君というらしい。
黒沢君は、菜月にカウンター席をすすめた。
菜月は言われるがまま、その席に座る。
店のマスターは、菜月が席についたことを確認すると、すまなそうな顔で、口を開いた。


「今日は黒沢君が無理にお客様を誘ったんじゃないですか?
彼、よく開店前なのにお客様を呼び込む癖があって…」

どうやら、彼が菜月のように店に呼び込むのはこれが初めてではないらしい。
よくあることのようだ。
だから、初対面なのに対し、あれだけ堂々とお店に呼び込んできたのだろう。


「売り上げに貢献しているんですよ!お昼はこの店、閑古鳥ないてますし〜!
それに具合悪そうだったし…」
「具合?え、ごきぶんでも悪いんですか?」
明るい口調で返した黒沢君を無視し、マスターは心配そうな顔で菜月の顔を覗く。
菜月は大丈夫です、とへらりと笑った。

「えっと…久しぶりに長く歩いたので、ちょっと具合悪くなっちゃったみたいで…。
服を着込みすぎだったのもいけなかったのかもしれません。酸欠みたいになってました…」
「そうですか。久しぶりに歩くと体力使いますもんね」

菜月の言葉に、マスターは穏やかな口調で返しながら、菜月の前にメニューを差し出す。
菜月はメニューを見ながら、何気ない会話を続ける。


「実は今日は、昔のバイト先に挨拶にいく予定だったんです。
ここから少し先の、【エネオリガソリンスタンド】なんですけど…」
「ああ。あそこですか。
あそこ、春は綺麗な桜並木になりますよね…。公園にいく傍ら、私もよく通りますよ」
「あ、じゃあ一度お見かけしてるかもしれませんね…!俺あそこの花、見るの大好きで」
「見事ですよね、あそこの花。
桜だけでなく、あそこに咲く花が大好きなんです…。花は癒されますからね」
「貴方もですか…!俺もです」
「今は冬で殺風景ですけど、冬が楽しみですよね」
「ええ…!」

マスターのその穏やかで柔らかな空気と、洒落た室内の空気に、自然と口が軽くなっていた。
他愛ない会話を続けても、マスターはきちんと聞いてくれて、反応してくれる。
その反応が心地よくて、ついつい会話が長引いていく。

マスターが出してくれた珈琲も、インスタントのものと比べて数倍滑らかで味もよかった。

 少年黒沢君は、店の味を一度でも味わったら虜になるから…、といっていたが、それが過剰評価ではないくらい、上手い珈琲であった。
普段は喫茶店ではなく、豆にはそんなにこだわっていないから…と美味しいと言い続ける菜月にマスターは謙遜していたが。

気づけば、時間を忘れてマスターと黒沢君とお喋りを続け…ようやく席をたつころには時計は5時を回っていた。

古いアンティーク調の時計は沢山店内にあったというのに、ついついお喋りに夢中になり、時がたつのを忘れてしまったらしい。


「ごめんなさい…長居してしまって…」
「いえ…こちらこそ、とても楽しいお喋りをありがとうございました。とても楽しかったですよ。君みたいな若い子、なかなかお店にはきてくれませんから…」

そんな言葉を呟くマスターも十分、若そうな容姿であった。
見た目は20代にしか見えないのだが、実際はもっと年がいっているのだろうか。
そんな風に思い、菜月がじっとみやれば、
「私の顔になにかついてます?」

マスターは、きょとんとした顔で返す。

「いや、綺麗だなあ…って」
「ふふ。お世辞も上手いんですね。ありがとうございます」
「いえ…、お世辞ではなくほんとに。本当に綺麗ですから…!」

そう菜月が強く言い返せば、マスターは照れたように、頭をかきながら、もう一度菜月に礼を言う。

「それに、お世辞が上手いのはマスターですよ。
俺の話が楽しかった、なんて。
俺の話なんて、ほとんどマイナス思考の自分の愚痴ばかりで…全然面白くもなく、退屈だったでしょ?」
「いえいえ。そんなことはないですよ」
「だって、俺の話なんて悩みだらけで…。
内容もなかったし…。
楽しませる内容でも…。
いらっとしませんでしたか?」
話し下手を自覚しているからこその、菜月の言葉に

「ふふ…。大丈夫ですよ。
貴方はとても繊細な人なんだなぁ…、他人のことをちゃんと思いやっているんだなぁ…って、そう思っただけですから」

マスターはカウンターから少し身を乗り出し、カウンターに肘をつきながら、にこりとほほえんだ。



  
百万回の愛してるを君に