今更番なんざと思っていた。
年齢なんて、100を超えた辺りから数えるのをやめた。どうせまだ何十倍も生き続ける。白狼の寿命は人間のそれとは違うので、人間の老衰なんてもういくつも見送ってきた。人間は脆くて儚いから、好きではない。同じ種族でも、あるいは同じ長命な種族でも、同じだ。どうせ死ぬ時は一人である。狼はそもそも孤独であるのが常なのだから、自分には任務とオトモと、あとはまあ、時々流れのように集まる仲間みたいなものだけがあれば、別に良かった。
春笠ニルは、小柳にとっては最初で最後の、よくわからない人間であった。百年余りも生きていれば、好意の一つや二つを向けられたこともある。それ自体は、それほど意に介していなかった。面倒だな、とも、嬉しい、とも思わなかった。数年に一回くる流行病のようなものだ。今回のは少し例を見ないくらいには能天気で喧しかったが――それだけだった。
「ロウってニルちゃんのこと好きだよね」
だから、当たり前、みたいな顔をしてゲームをしながらそう呟いた伊波にも、小柳は思いっきり素っ頓狂な声を上げた。
「……は?俺が?好き?」
どこにもそんな心当たりはなかった。そりゃあよく一人で生きてこれたものだとは思う。よく寝てよく食べよく笑う、人間の鏡のような女だ。人を疑うことを知らない。これと決めたら真っ直ぐで、馬鹿正直でそそっかしい。目くらいはかけてやってもいいだろう。己の周りをちょろちょろとされると、それはそれで気になった。
「え?ああ、なんだ、自覚してなかったんだ」といってゲームに目を戻した伊波の顔の真意が知りたかった。何を持ってお前はそう思う。俺の、何を見てそう思った。問いただしたくなったが、やめた。おそらく伊波はつまびらかに答えるだろうと思ったからだ。そして己がそういう答えが欲しいのではないことも、なんとなく分かっている。
春笠ニルは、ほんの少し阿呆で、馬鹿正直で、道の真ん中でお金を拾ったら当たり前のように交番に届け、交差点を当たり前のように小学生と一緒に手を上げて歩くような(実際にやっているか否かは知らない)そういう女だった。
己を好きだと宣うものだから、会いに行ってやったことだってある。期待をしていたわけではないが、どうせ喧しく声をあげてその丸い目いっぱいに己を閉じ込めてくるのだろうと思って、そう思って顔を上げれば、涼しい顔で「あれ、何しにきたんですか」などと平然と言ってのける。
お前俺のこと好きなんじゃないのかよ!とは言わなかった。こう言うのは先に口に出した方の分が悪い。圧倒的に悪い。そして小柳は、意地でもそれを認めたくはなかった――何を?
「あれ!ロウさん!」
ニルはそう言って、ばらばらと机に転がる書類の山からひょっこりと顔を出した。
「どうしました?なんかたりない薬とかありましたか」
立ち上がると、比較的女にしては上背がある。やや背中の丸まった猫背で立ち上がり、ニルがこちらを仰ぎ見る。
「……いや、別に、近くまできたから寄ってやっただけ」
自惚れんな、と聞いてもいないのに悪態をついた小柳に、ニルが不思議そうな顔をする。ぎゅ、と眉を寄せて、まじまじと見つめる。丸い目、白い肌――は多分、こう見えてニルもインドアであるからだろうことを知っている――女しては上背のある旋毛、見慣れたニルの姿だ。認めれば、あとは容易いことを知っていた。そして認めようが、認めまいが、ずっと報われないことも知っていた。
「ニル」
「はい」
「お前俺より先に死ぬなよ」
ニルが、きゃん、と尾を踏まれた犬に似た声を上げる。
「いやそんな無茶な!」
「うるせ、そういう気概でいてくれなきゃ困るんだよ」
小柳はするりとそのほんの少し度重なる夜更かしで荒れた目の下をなぞった。ニルはそれを拒むこともなく、じっと小柳を見ている。丸い目の奥側に触れたい。脆くて弱いこの人間の、裏側の、もっと奥に触れてみたい。
「……あーーもういいよ……わかった、俺もお前のこと好きでいい」
口にしてしまえば案外あっさりと言葉になった。知らぬふりをしていようが、わからない心算でいようが、どうせ積の山だ。後悔先に立たず。そもそも関わったところからやり直されなければ、どうしたっていずれは向き合わされる。
「まじで、頼むからさっさと死ぬなよ」
「えっ何、なんの話?なんの話してますか今」
「じゃ、そういうことだから。これ以上騒ぐの禁止な」
それだけ言い残して、小柳は乱れた己の髪をぐしゃぐしゃに掻き回す。何を好き好んで、人間なんざと番おうとしている。どうせ死ぬのに、残されるのは己だというのに、なあほんと、俺も馬鹿じゃねえ?と誰かに同意して欲しくて、肩口のオトモを見つめれば、どこ吹く風といった顔でニルに顔を寄せていつものように懐いていた。――ああそうかよ、じゃあもういいよ、それで。