「だーーーから酔ってねえって言ってんだろーがっ」
がつん、と音を立ててグラスを置くロウさんは完全に管を巻いていて、思わず驚いて手で口を覆った。珍しいこともあるものだ。一緒にいさせてもらうようになって早数年だが、こんなのは一度たりとも見たことがない。そもそも外に飲みに行く姿すらそう見たことがないので、確率はかなり低い。お酒だけなら一人で飲んでいるのも見かけるが、それだって本人が自認する通りにかなり強い方だ。そっと隣で宥める伊波さんに目線をやると「ロウ、ほら、ニルちゃんきたよ」と笑いながら背中を押している。ゆったりと顔を上げた髪の毛先は少しだけいつもの癖が戻っていてくるくると跳ねている。持ち上がった瞳はすっかり座り切ったまま、ぼんやりと私をとらえた。
「あ?にる」
「言えてないです、ロウさん」
「……よんだ?いなみが」
「はい」
急にロウさんから電話がかかってきたと思えば、伊波さんの声だったので何事かと思ってくればこれだ。正直、少し、いやかなり、伊波さんには感謝をしている。だってこんな姿、珍しいどころではない。ロウさん風に言うならSSRどころかURで───ちょっと、可愛い。多分言ったら怒られるから言わないけれど、そういうところの隙はあまり私に見せたがらないひとなので、なんとなしに堪らなくなる。帰りますよ、と肩を貸すとおとなしくもたれかかるので、性懲りも無くこのひとに好きだと言いたくなって留まった。細身だが、ごつごつとした腕が肩にかかる。やんわり嗅ぎ慣れた彼の匂いが、脳の裏側をくすぐった。
「表タクシー呼んであるから乗ってってね」
ごめんねー、と続けた伊波さんが苦笑して、置きっぱなしにされたままのロウさんの眼鏡を差し出した。それにお礼を言いながら受け取って、隣で完全に寝かけているロウの小刻みな呼吸を感じながら腕を背負い直す。
「なんで今日こんなことになっちゃったんですか?」
する、と彼の髪を耳にかけると僅かにロウさんがうめいた。嫌ではなかったのか、無言でもう一回首を振って髪を落とすと、要求される。黙ってもう一回耳にかけてやると、今度は満足そうにしてまた首を下げた。その様子を呆れ笑いながら見ていた伊波さんが、ちょっと困った顔をして眉を下げる。
「珍しく誘ったら行くっていうから、何事かと思ったらこれ。こいつ店の酒全部飲む気かと思った」
「うわあ」
「俺は残りの二人どうにかしなきゃだから先そいつ連れて帰ってあげて。今日はロウが一番やばいわ」
気をつけてね、と続けて伊波さんがひらひらと手を振った。何があったんですか、ともたれる頭に問いかけるも、返事は返ってこなさそうだった。ぎりぎり歩けそうな身体を引きずって、タクシーにロウさんを押し込む。ちょっと呻いて、「にる、いたい」と呟くのがなんとなしに可愛いやら憎らしいやらで奥に押しやった。近寄る手のひらが、珍しくぬくかった。
*
「頭痛え………」
家に着くなりソファに倒れ込んで、仰向けのまま髪をぐしゃぐしゃとかき回しながら項垂れている額に軽く絞った濡れタオルを覆いかける。「水飲めます?」と声をかけるとうっすら筋の浮いた手のひらが弱々しく伸ばされた。
「今日なんかあったんですかあ」
コンロの火が小刻みに震えて、音を立てる。お湯を沸かしながらおもむろにそう聞くと、ロウさんが低く唸った。
「……今何時?」
「今?もうすぐ24時ですねえ」
壁にかけた時計を見やると彼が気だるそうにスマホを眺めて、それから目を閉じた。
「日付変わったらいう」
「ええ?」
「つか、明日言わなきゃ、意味ねえし」
鼻で笑って、ロウさんがそのままタオルに手をかける。ふらふらと起き上がって、部屋に戻っていく背中を見つめながら、ぼんやりとカレンダーを眺めた。ロウさんが別にそれほど好きでもないのにお酒に手を出す時は、大体何かある時だ。それはめげないウェンさんに誘われた時かもしれないし、任務で何かしらやるせない顔をして帰ってくる時かもしれないし、よっぽど楽しくて、機嫌の良さそうに開ける時かもしれない。
あるいは、何か、どうしても、この比較的客観的に己を評価する白狼でさえも、何かの力を借りたいほどに、何かを覚悟している時。基本的に何にも頼らないひとなので、それなりに覚悟を決めているし、己を見定めるのが上手いので、飲みすぎるような真似なんて───したとしても、まして私の前でそれを見せるようなんてことは、滅多にしない。それはきっと、彼の美学に反するからだ。
ほとんど私ばかりが使っているキッチンにもたれてふらふらと戻ってきたロウさんの顔を見つめる。多分、勘は合っている。私の驕りでなければ私は分不相応にも彼の縄張りの真ん中にいるし、あいにくにも骨から一途な狼なので、いっそくるしいほどに愛されている。ゆっくり足元にしゃがみ込んだロウさんが、くしゃりと前髪を潰して、頭を抱えた。
「……………どっから気づいてた?」
「………伊波さんから受け取った時かな、ロウさん不自然に話さなかったし、伊波さんも不自然に早く帰そうとするし」
「分かってんなら言えよ………」
「でも酔ったふりしてるロウさんは、可愛くて好きでしたよ」
うるせ、と言ったロウさんがおんなじようにしてしゃがみ込んだ私の頭を優しく小突く。よく考えれば、すぐ分かった。それほど勘のいい方でない私でもわかるくらいには、彼のことを知っているし、それなりの時間を過ごしてきている。彼からすれば数百年、何千年の何百分の一にも満たない時間かもしれないけれど、人間の私からしたら十分なだけの時間だった。
「ちょうど今日で2年ですもんね」
思わずそう言って肩をすくめると、ロウさんが顔を手で覆う。
「おい、そこまで分かってんのかよ、まじでタチ悪いぞ今日」
「だ、だってそりゃあ私だって覚えてますよう〜……」
「うるせえ、ニルのくせに」
「ひどいっ」
嘆いた私を無視して、冷たい額がぶつかった。見上げる長いまつ毛の隙間から、青い瞳がゆるく揺れている。広い掌が恐る恐る私の頬を包み込んだ。温くて、広くて、傷が多くて、不器用な掌が大好きだった。
「記念日とかまじで興味なかったし、去年お前が騒いでんの見てたかだか一年だろって思ってた」
「あは、知ってます」
「一年なんか俺からすれば大した時間でもねえのに、何言ってんだ、って思ってたし」
「知ってますよう」
「……でも、お前からすれば、80分の1だもんな」
珍しく不安そうな指先が、ざらりとすべって私の耳たぶを撫でる。骨から一途で、仕方がないほど不器用で、続きの言葉なんていらないくらいに何かに急かされるようにして強く腕を回す。思いっきり体重をかけると、「おい、馬鹿、犬かよ」と笑って両腕で受け止められる。この人の、頭の先からつま先までを愛し抜けたらいいのに、と思う。私の寿命が許す限り、可能なら、その寿命が尽きた後だとしても。
「ニル、ちょい離れて」
ポケットから取り出したピアスを弄んで、ロウさんが呟く。なんだろう、と無言で見ていると耳貸して、と指で寄せられる。近寄ると、ひやりとした指先が耳をくすぐった。いつぞやロウさんにあけてほしいと頼み込んだ穴をくすぐって、こそばゆさに身を捩る。
「バカ、じっとしろよ」
「だってえ〜……」
もう片方もおんなじように指先がくすぐって、そうして満足そうに離れていった。本当はお礼を言いたくて開いたはずの口を、そのまま強く塞がれる。「似合うよ」とだけ薄く喉の奥でつぶやいた彼が、やんわりと指を絡めた。
「わ、たしもある」
「はは、ごめん知ってた」
「ええっ!?なんでですか!?」
「お前爪甘いもん、部屋に置いてあんのめっちゃ見えてた」
ええ!?と思わずしなだれた私に眉を垂れて、まるで犬でも宥めるようにわしゃわしゃと髪を撫でられる。「犬じゃないです……」「そうだなー、狼になろうな」「それは無理……」ゆるく撫でられていた掌が少し止まって、私の顔を覗き見た。
「あと何回祝えるかな」
細まった瞼が、重たく下がる。そっと手を伸ばして、軽く唇に触れた。冷たくて、人じゃなくて、でもこんなにも愛おしかった。尖った犬歯を歯でなぞる。人の移ろいやすいことなんて、何度も見てきたであろう瞳で、私がうつろうことをほんの少し恐れているのがたまらなくて、どうにかして形のないものを証明してやりたくなった。
「死んだらお墓の中でめちゃくちゃ祝いますよ、私が」
「……………すげー迷惑な死者じゃん」
「任せてください、ロウさんお墨付きの煩さなので」
それはそう、と喉で笑って、もう一度抱き寄せられる。本当はもう少し何か上手く言えたらいいのに、そんなことしか言えない情けない私なので黙って腕の中に閉じこもった。もっと私も、言葉以外の何かで示せたらいいのに。白狼だとか人間だとか、そんなものが些細になるほど、このひとがすきだと、それ以上のことを何かで、言えたらいいのに。
「でも酔ってるふりしなくてもよかったじゃないですかあ」
恨み言のようにそういうと、ロウさんが、ちょっとだけ得意そうな顔をして、口の端を釣り上げた。
「だってお前俺のこと好きだから、そう言ったら絶対来るじゃん」