春雷
四月。校舎の廊下は春の陽光と、新しい学年への期待に満ちていた。それは数週間が過ぎてもまだ落ち着きを知らず、教室には騒がしい雰囲気が漂っている。影浦雅人はこの春、中学三年生を迎えた。
バサバサの黒髪にギザギザの歯。猛獣のような鋭い眼光。見た目に違わず気が短く、粗暴な振る舞いは学校中に知れ渡っているといっても過言ではない。
彼にとって、新学期の騒がしさは不快なものだ。恐れや軽蔑、影浦と同じクラスになってしまったことへの不安――そんな他人の感情が、無数の針が一斉に降り注ぐように自身の肌に突き刺さってくるからだ。
影浦には
このことを知っているのは家族だけだ。過去に、他の人に伝えたことはある。ただ、言っても信じてもらえなかった。嘘つきや気持ち悪いなどと言われ、自身でも説明のしようのないこの感覚について口を閉ざすようになった。
ある日の五限目、英語の時間。
影浦は机に突っ伏した状態で、教科担任である
しかし、一層不快だったのが伊串だ。影浦の成績が残念で理解できないのをいいことに、英語で馬鹿にしてくるのだ。言っていることはわからないが、正面から遠慮なく重たい鉄釘を打ちつけてくるように刺さるため嫌でも伝わる。
苛立ちが膨らみ、爆発しそうになって席を立った時だった――。
「――先生」
澄んだ声が教室の空気を切り裂いた。
誰かわからないが、クラスの女子が伊串に声をかけたのだ。しかし、あまりにも鬱陶しい感覚に我慢ができなくなっていた影浦は、そのまま教室を出て行く。
驚いたような声で影浦を引き留める伊串。それと、先ほど伊串に声をかけたであろう女子が、立った状態で目を丸くして影浦を見ていた。その女子と目が合ったが、影浦は無視して屋上へと向かった。
屋上の扉を開けると、生ぬるい風が吹き抜けていた。下の校庭では体育の授業らしい掛け声が上がり、春の空気の中に溶けていく。
「……ッチ!」
影浦は舌打ちをしながら屋上の床に腰を落とす。
コンクリートの熱を体に感じながら、時間潰しに眠ることにした。
次に目を開けたとき、空は赤く染まり日が落ちようとしていた。授業はとっくに終わっていたようで、校庭では部活動をしている生徒たちの声が響いている。
影浦は教室に鞄を置きっぱなしにしていることを思い出し、教室へ向かう。教科書はどうでもいいのだが、財布や携帯を鞄に入れたままだ。
気だるげに三年の廊下を歩いていると、影浦の目の前に一枚のプリントがひらひらと落ちてきた。それを反射的に拾い上げて視線を前に向けると、女子二人の背中が見えた。
「おい、プリント落としてっぞ!」
前方に向かって声を飛ばす。
思わず、声をかけてしまった。影浦は自分が他人からどう思われているか理解している。それだけに、自らの失態に舌打ちをしたい気持ちになった。
しかし影浦の気持ちに反し、声に反応した一人の女子は自分の手元にあるファイルを確認した後、影浦の方に近づいてきた。
「ありがとう影浦くん、助かったよ」
プリントを受け取った女子は、影浦に優しく微笑んだ。
ふわふわと綿あめみたいに柔らかい感情が肌をくすぐってくる。今まで他人からは感じたことのない、“刺さらない”感情。その彼女の顔を見て、教室を出て行くときに目が合った女子と同一人物だと気づいた。
――同じクラスのやつかよ……。
彼女の進行方向には二つの教室があり、その一方が自分たちのクラスだ。つまり、彼女と同じ方向に行くしかない。
気まずさを覚えた影浦は、プリントを手渡すと引き返した。彼女たちが帰るまで、どこかでまた時間を潰そうと思ったのだ。
「ねぇ、今の影浦でしょ? よく普通に話せるね。停学したこともあるみたいだし、暴力沙汰の噂知らないの?」
聞こえてきた声に、階段へと向かおうとしていた影浦の足が止まる。
振り返っても先ほどの女子たちはもういない。しかし、教室のドアが開いたままになっており、教室内の会話が放課後の静かな廊下に響いていた。
「でも、それって噂でしょ? 影浦くんって本当にそんな人かなぁ? 噂だけでその人を決めつけるのは嫌だな。それに、もし本当に暴力沙汰起こしてても、なにか理由があるかもしれないよ。正当防衛とか」
「なにそれ、過剰防衛の間違いでしょ」
「私だって例えば、『東雲は食い意地がはってて意地汚い』とか『野良猫に赤ちゃん言葉で話しかけててキモかった』とかさ。『ナンパ男の股間を蹴り上げて撃退して相手は白目剥いてた』とかで噂になっちゃうんだよ。それで『東雲はヤバイ奴』って言われたり、ありもしないことで遠巻きにされるの嫌だけどなぁ」
「飛鳥のは噂じゃなくて事実だっての!」
プリントを落とした女子――東雲飛鳥と、その友人の会話のようだ。
彼女の友人の認識がこの学校では当たり前なのだが、飛鳥は平然と言い返している。
「だってさ、もし噂の原因が大切な人を悪く言われたとかだったらさ……私もそんなことされたら黙ってないよ」
「……まぁ、確かに理由とかは私も知らないけどね」
「私は、影浦くんは優しい人だと思うな。放置したっていいのに、私が落とした数学のプリントをわざわざ拾って渡してくれたんだもん。明日までの宿題だから、すぐに渡した方が良いって思ったのかも」
「さすがにそこまでは考えてないでしょ〜」
「うーん、でも優しい人なのは間違いない。私はそう思ったんだもん」
プリントを渡したときもそうだったが、飛鳥の反応は影浦の予想とは違っていた。どうせ噂を知らなかったからこその、さっきの笑顔なのだろうと思っていたのに、飛鳥の口から出てくる言葉は予想外のものばかりだった。そしてプリントが宿題だったことは本当に気づいていなかったし、そもそも見覚えのないプリントだった。
「あんた影浦のことで伊串先生にも言い返すし、こっちはヒヤヒヤしたんだからね!」
「え〜、さすがにあれはムカつくでしょ?」
「確かに。一方的に言ってきてモヤってたけどね。でも内申に影響出ても知らないよ」
「大丈夫、理不尽に内申下げてくるようなら抗議しに行くから」
「はいはい、アンタは黙ってない女だもんね〜」
友人はケラケラと笑っている。
影浦が授業中に教室を出て行った後、まさかそのようなことがあったとは思いもしなかった。
誰もいない廊下で驚いて固まっていると、飛鳥たちが帰ろうとする音が聞こえて慌てて空き教室に隠れた。
彼女が友人と談笑しながら廊下を歩く。影浦の存在に気づかずに近くを通り過ぎるその姿を、見えなくなるまで瞳に映していた。
――影浦くんは優しい人だと思う。
初めて向けられたその言葉は、春の雷のように影浦の胸を打ち抜いた。