ひまわりとはちみつ
――影浦くんは優しい人だと思う。影浦本人に聞かれているとも知らずにそう言った飛鳥によって、雷のような光を胸に落とされた。
その翌日――。
あのときの余韻がまだ残響のように残っていた影浦は、いつも以上に授業に集中できなかった。ぼーっとした表情で無意識に飛鳥を見ていることに気づいて、慌てて視線を逸らす。それ以降は、意識して飛鳥を見ないようにしていた。そんな、いつもとは違う影浦の様子を気に留める人はおらず、あっという間にすべての授業が終わった。
「影浦〜、残って宿題提出して帰れよー! 提出しなかったらお前だけ宿題を増やすからな、頑張れ!」
帰りのHRが終わり椅子から腰を上げた瞬間、クラス担任であり数学担当の桝に呼び止められた。
思わず「あ゙!?」とガラの悪い声を出してしまったが、桝は意にも介さずに太い眉を大きく跳ね上げると、笑顔で手を振って去って行った。
「……くそったれ」
英語担当の伊串と違って、桝はカラッとした性格だ。それは影浦にとって有り難いのだが、有言実行の桝なら本当に宿題が増やされる。
帰ろうとして上げていた腰をもう一度椅子に預けた。机の中に手を突っ込んでガサガサと漁ると、教科書やノートによって一番奥に追いやられていたプリントが出てくる。しわくちゃになったそれを広げると、昨日、飛鳥に手渡したプリントと一緒のものだった。
昨日は結局、携帯すら持たずに手ぶらで帰宅し母親に呆れられた。もちろん、存在すら知らなかった数学の宿題プリントなんてものは家にあるはずがなく、こうやって学校の机の奥に住み着いていた。
影浦は手元のプリントに視線を落とす。
よくわからない数字の羅列に、開始早々で頭が痛くなり舌打ちをした。その時だった――。
「影浦くん」
昨日聞いた声が、また影浦の名を呼んだ。
視線を向けると、今日一日見ないようにしていたはずの飛鳥と真正面から目が合った。
「残って宿題やるんだよね? 私も手伝うよ」
「……あァ? 馬鹿にしてんのか?」
伝わってくる感情で、飛鳥が馬鹿にしているわけではないのだとわかっている。わかってはいるが、他人からの好意を素直に受け取れなかった。
影浦の猛獣のような鋭い眼光で睨まれているのに、飛鳥は昨日のように優しく微笑んだ。
「そんなことしないよ。昨日影浦くんがプリントを拾ってくれたおかげで、私は宿題を増やされなかったんだよ。これは、そのお礼。
「…………チッ」
影浦は仕方なく机の上を整理して飛鳥のスペースを作る。彼女はにこにこしながら隣の机を拝借し、机同士をくっつけた。
「じゃあ、スパルタでいくね!」
「はぁ? ふざけんなよ、俺がわかるように教えやがれ」
「っふふ。はーい、一緒に頑張ろうね」
影浦のふてぶてしい態度を気にもしないのか、飛鳥はプリントを覗き込むと一つ一つ丁寧に問題を教えていく。説明がわかりやすいこともあり、影浦は特に躓くことなく答えの欄を埋める。
「あ? なんだよこれ。変な家みたいな記号がついてるやつ」
影浦はプリントの√5と書かれてある部分を指さした。授業で習っているはずなのに、残念ながら記憶にない。
「あ、それはルートだね。平方根の記号で2乗すると5になる数、って意味だよ」
「2乗して5になる数? そんなんできねえだろうが」
「できないからこのルート記号を使うの。で、問題はこれ。√18を簡単にしろ、ってやつだね」
「そのままでいいだろ。なんで簡単にする必要があんだよ」
「あははは! うん、そうだよね」
「……なに笑ってんだよ」
柔らかそうな笑顔で笑う飛鳥。
彼女からは純粋に“楽しい”という感情しか伝わってこない。
「簡単にすると計算が楽になるんだけど、私も『なんで?』って思ってた頃の自分を思い出しちゃって」
「……わけわかんねえ」
自分と一緒にいて、なにが“楽しい”のか――数学の問題も飛鳥のことも、影浦にはどっちのこともわからなかった。
主語のない影浦の言葉。その言葉に自分が含まれているなんて思ってもいないのか、飛鳥はくすっと笑ってから目線をプリントに戻した。
「数学には面倒なルールがいっぱいあるんだけど、今回のはルートの中にある数を、2乗できる数とできない数に分けるの。2乗できる数字だけ、お家の外にお出かけできるんだよ。ねぇ、 18ってかけ算だとどう分解できる?」
「あ? ……2×9とか3×6とかだろ」
「うん、そうだね。√2×9と√3×6になるんだけど、ここで大事なのは2乗の数があるかどうか。2乗できる数字はお家の外に出れるから、√9は3になるの。だから3√2って書けば完成」
「……なるほど、だから2×9を選ぶわけか」
「そうそう! 3×6でも18だけど、2乗できる数がないから外に遊びに行けないもんね。こんな感じで残りの問題を解いてみようか。頑張って数字をお外に遊びに行かせてね」
影浦は説明をもとにプリントを解き進めていく。その間の飛鳥は、机に他教科のノートを広げ予習をしていた。
影浦は途中わからなくなったところを質問したりして、なんとか最後まで宿題を解き終えた。
「……おい、できたけどよ」
そう声をかけながら影浦は顔を上げる。
しかし、飛鳥はその声に気づかずノートにシャーペンを走らせていた。その真剣な横顔に、それ以上言葉をかけられない。
窓から差し込む夕陽が飛鳥の頬を撫でて、長いまつ毛がその影を落とす。妙に綺麗で、惹きつけられる。
けれど、ふと彼女のノートを覗き込んだ瞬間――。
「……くくッ!」
影浦は思わず吹き出した。
――真剣な顔してなに描いてんだよ!
ちらりと視線を落としたノートの上には、絶妙にバランスの悪い絵が鎮座していた。
太い眉、妙に四角い顎、そして自信ありげな笑みと棒人間のような不格好な手足。どう見ても担任の桝の似顔絵だが、それは子供の落書きのような酷さだった。
――あんだけ集中してたのに、描いてたのはこれかよ!
ふつふつと可笑しさが込み上げてくる。しかも、特徴は掴んでるくせに下手くそなのがまた笑いを誘う。
「ははッ……なんだよその絵、下手くそじゃねーか!」
堪えきれずに言葉が漏れると、飛鳥がようやく顔を上げた。
彼女は慌ててノートの絵を隠そうとする。
「え、見てたの!? しかも下手って……ひどい、結構似てると思ったのに!」
「いや、似てるっちゃ似てるけど……眉毛太すぎだろ!」
「これくらい太くしないと“桝先生感”が出ないんだって!」
「あほか……ははっ!」
影浦の『下手』発言に、飛鳥は拗ねたような表情をしている。それを見て、影浦はまた腹の底から笑う。
――こんな、くだらないことで笑ったのは久しぶりだ。
肩の力が抜けて、息が軽くなる。
いつもなら誰かの視線を浴びるたびに不快に思うのに、飛鳥は不思議なくらい柔らかい――そんなことを考えていると、急に変な感情が触れてきた。痛くはないが、ムズムズとした気になる。綿毛がそっと肌を撫でるような、くすぐったい感覚だった。
「――あ? んだよ」
飛鳥はなにも言っていないのに、思わずそう聞いてしまった。
しかし彼女は、そのことを疑問にも思わず影浦の顔を見つめながら言った。
「私ね――影浦くんの笑顔、好きだなって思ったの」
「――はぁ?」
言われた言葉に、影浦の頭の中が真っ白になる。
飛鳥は少しだけ身を乗り出して、影浦との距離を詰めた。至近距離で見つめられて、心臓が跳ねる。
「影浦くんの瞳、ひまわりみたいな綺麗な色をしてるの。でもね、笑うとはちみつみたいに柔らかくなって……それがすごく、綺麗」
飛鳥は宝物を見つめるようなキラキラとした瞳でそう言った。
影浦は言葉の意味も彼女の表情にも、頭が追いつかない。けれど、それを理解した瞬間、胸の奥が一気に沸騰したように熱くなるのを感じた。
「なッ……き、キモいこと言ってんじゃねーよ!」
影浦は視線を逸らしたが、顔が熱くなっていることは自覚していた。耳まで赤くなっているため、飛鳥には影浦が照れていることは丸わかりだろう。
「えー、本当のこと言っただけなのに」
そう言って飛鳥はいたずらっぽく目を細め、頬をふわりと緩ませた。
影浦にとっては、彼女の笑顔の方がひまわりみたいに明るく、そしてはちみつのように甘く柔らかいように感じた。