春の余熱
席替えをした日の、夜のはじめ頃。影浦は自室のベッドに寝転がって漫画を読んでいた。しかし、キャラクターの動きもセリフも、目で追っているはずなのに内容がまるで頭に入らない。さっきから同じページを何度も読んでいる気がする。
集中できない苛立ちから影浦は小さく舌打ちをし、漫画を放り出して天井を仰ぐ。
「……くそ」
目を閉じるたびに、教室での情景が勝手に浮かんでくる。
少しだけ開いた窓。
風に揺れる自分の髪。
そこへ、ためらいがちに近づいてきた細い指先。
視線が絡んで、世界が狭くなった感覚。
思い出しただけで、喉が鳴る。
ほんの一瞬、指先がかすめただけなのに、触れられたみたいに熱い感覚が残っている。そして、窓ガラスに映る耳まで赤くなった彼女の横顔。
あれ以上、近づいてたら――そう考えかけて、思考を止めた。
自分でも驚くほど速く心臓が脈を打っている。
「……マジで、なに考えてんだ俺は」
片腕で目元を覆い、低く唸る。
そんな悶々としている影浦の部屋のドアの向こうから、母親の声が飛んできた。
「ねえ雅人、ちょっとスーパー行ってきて〜。醤油ね」
「…………今?」
「今!」
***
商店街の街灯が、点々と夜道を照らしている。
店じまいの準備をする店もちらほら見え始めるなか、影浦はスーパーの袋をぶら下げながら歩いていた。
「……ったく、ババアのやつ。醤油くらい自分で買えよ」
母親に頼まれたお使いの帰り道。
いつもならもっと反抗していたかもしれないが、今日だけは夜風で頭を冷やしたかった。
ふと顔を上げれば、そこには雲ひとつない夜空が広がっている。風は心地よく吹き抜けていくのに、胸の奥の熱だけはさらってくれない。
影浦はポケットに手を突っ込み、足を速めかけた。その時、視界に見慣れた後ろ姿が映る。
ふわりと揺れる髪、朗らかな笑い声――それは、ずっと影浦の中から離れてくれない飛鳥だった。
彼女の隣には、茶色の髪に青っぽい服を着た見知らぬ男がいる。自分たちとそれほど歳が変わらなさそうに見えるその人物は、首に変わった形のサングラスを掛けていた。
飛鳥がなにかを指さし、相手の男は指された方を見ながら返事をしている。二人は並んで歩き、楽しそうに会話を続ける。
――誰だ、あいつ……。
親密な様子に、影浦の胸がざらつく。
今日、あれだけ近くに飛鳥の存在を感じたというのに、今は彼女のことを遠くに感じる。
自分に向けられていた笑顔が、違う誰かに向けられている。そう考えただけでどうしようもなく苛立ち、胸の奥に鈍い不快感が滲んだ。スーパーの袋を握る手に自然と力がこもる。
――別に……俺には、関係ねえだろ。
そう言い聞かせながらも、視線を外すことができない。
影浦は立ち尽くしたまま、二人の背中が見えなくなるまで見送っていた。
翌朝、影浦が教室に入るとすでに飛鳥が席に着いていた。
彼女はいつも通り「おはよう、影浦くん」と笑いかけてくるが、返事をする気になれなかった。それでも無視をするのは憚られて軽く手を挙げて応えると、着席してすぐに顔を窓の外に逃がした。
眠そうに頬杖をつき、外を眺める。
だが、実際には眠くなんてなかった。昨日の夜のことが頭から離れない。
飛鳥と一緒に歩いていた男。あの楽しそうな笑顔。それが胸に引っかかっていた。
「影浦くん、大丈夫? 体調悪いの?」
普段とは違う影浦に、飛鳥が心配そうに声をかけてくる。
影浦は窓の方を向いたまま「……なんでもねー」とだけ答えた。窓ガラスに映る飛鳥の表情をそれとなく窺うと、彼女は眉尻を下げてこちらを見ていた。だが、話す気のない影浦に、そっとしておいた方がいいとでも思ったのか前を向き直した。
――なにやってんだ、俺は……。
影浦は目を伏せながら、気づかれないように小さく舌打ちをした。
冷たい態度をとった自覚はある。隣の席からは、今もなお心配しているような感情が伝わってくる。それがわかっているのに、もやもやしたものが胸の中で燻り続けて素直になれなかった。
その後も影浦は、飛鳥のもの言いたげな視線に気づかない振りをし続けた。気を遣ったのか、彼女からも話しかけられることはなかった。
それが寂しいなんて――自分から距離を取っておいて、身勝手にもそんなことを思った。
せっかく隣の席になったのに、飛鳥と知り合う前のつまらない毎日に戻ったようだった。
――その夜。
影浦は二階の自室でベッドに寝転がり、ぼんやりと天井を眺めていた。今日は漫画を読む気力さえない。
しんと静まり返った部屋で、どれくらいそうしていたのだろうか。ふいに、下の階から母親のやけに通る声が響き上がってきた。
「雅人ー! ちょっと来てー!」
影浦は気怠そうに眉をしかめ、小さく息を吐く。重たい足を引きずるようにして渋々と階段を降りた。
一階へ降りると、ソースの焼ける匂いと客たちの賑やかな声が耳に入ってくる。いつもと変わらない店の空気。
影浦は、またお使いでも頼まれたら面倒だと思いながらも母親を探して顔を上げた。
その時だった――。
「……こんばんは、影浦くん」
背後から、聞き慣れた声。
影浦は一瞬動きを止め、反射的に声が聞こえた方へと振り返った。そして、母親の隣に立つ人物を見て目を瞬かせる。
「……っ、東雲?」
喉の奥から、絞り出すように声が漏れる。
飛鳥は照れたように笑って、小さく頷いた。
「うん」
飛鳥の声が、ふわりと響く。
店内のざわめきのなか、彼女の声だけがやけにはっきりと耳に届いた。飛鳥と視線が絡み合ったまま、沈黙だけが流れる。
今日一日、あれだけ素っ気ない態度をとったのだ。なんと話しかければいいのか、頭の中に言葉が浮かばない。気まずさと、予想外の再会で口の中がからからに乾いた。
飛鳥の方も、どう声をかけるのか迷っているような様子だ。学校でのことを気にしているのかもしれない。
そんな二人の微妙な雰囲気に気づいたのか、いい意味で空気を読まない影浦の母親が息子の背中を強く叩いた。
「ほら雅人、席案内してあげなさいよ。ついでにアンタも晩ごはんね」
影浦は叩かれた背中をさすりながら、仕方なく鉄板席へ案内する。
母親が厨房へ戻る後ろ姿に、本人には聞こえないほどの小声で「……いてーんだよ、クソババア」と悪態をつけば、すぐ近くで飛鳥がくすくすと笑った。その表情には、先ほどのような迷いはもうない。
向かい合って席に座ったところで、飛鳥の方から話を切り出した。
「今日ね、あんまり影浦くんと話せなかったなーって思って。そしたら、なんかお好み焼き食べたくなっちゃったの」
「……どんな理由だよ」
あまりにも安直な理由に、気づけば影浦の口元が少し緩んでいた。
「影浦くんに会えて嬉しい。それに、また一緒にお好み焼きを食べるのも楽しみだなぁ」
飛鳥の感情が、あまりにもまっすぐ胸に伝わってくる。
影浦は胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じ、自分が情けなく思えて少しだけ俯く。
「……悪かったな。今日、なんか変で」
「ううん。疲れてるのかなって思ってた」
「ちょっと……寝不足だっただけだ」
これ以上なにか言えば、余計なことまで口にしてしまいそうだ。
影浦はそれを誤魔化すように、タイミングよく運ばれてきた材料を受け取って生地を鉄板に流し込む。ジュウっと音を立てて、丸い生地が広がっていく。飛鳥は鉄板の向こうで、楽しそうに焼き上がるのを待っていた。
影浦は焼き上がったお好み焼きをヘラで切り分け、彼女の皿に乗せる。礼を言って嬉しそうに箸を伸ばした飛鳥の口に、熱々のお好み焼きが次々と消えていく。美味しさが伝わってくるような食べっぷりに、影浦はつい笑いをこぼした。
しばらくその姿を眺めていると、視線に気づいたのか飛鳥と目が合った。彼女は目を瞬きさせた後、恥ずかしそうに頬を赤くした。そして、どこかくすぐったそうに小首をかしげ、はにかむように笑った。
今、目の前で飛鳥が笑っている。自分に会いに来てくれた――たったそれだけで、胸の燻りが簡単に溶けていく。
それからは、楽しそうに喋る飛鳥と短く口を挟む影浦。二人の会話は、お皿の上が空になるまで続いた。
食べ終えて店を出ると、ひんやりとした夜風が吹き抜けた。街灯のオレンジ色が、二人の姿を静かに照らす。
「……危ねえから送る」
「――え?」
「なんでおめーが驚いてんだよ。そういう約束だったろ」
「……覚えててくれたんだ」
――絶対また近いうちに来るね。だからもし影浦くんの都合がいいなら、そのときはお家まで送って欲しいな。
影浦の部屋で宿題を見てもらった日に、彼女が言った言葉だ。
「ついこの間のことだろーが」
「そうだけど……でも寝不足なら無理には――」
「――俺が、まだおめーと喋りてえんだよ」
影浦は、飛鳥の目を見て言った。
今日は自分の意気地がないせいで、彼女のまっすぐに澄んだ瞳から逃げてしまった。だから、もう逸らしたくない。
言われた飛鳥は目を丸くして、じわりと頬を赤く染めていく。しばらくして、照れたように小さく言葉をこぼした。
「……私も、まだ影浦くんと喋りたい。一緒にいたい、です」
「…………行くぞ」
その言葉を聞いた影浦はゆっくりと歩き出す。けれど、前を向いた横顔は耳の先まで赤くなっていた。
飛鳥が小走りで隣に並び、二人の歩く音だけが夜道に溶けていく。
「……あのね、影浦くん」
ふわりと、柔らかい声が夜風に乗って聞こえてくる。
「日直のときも今日も、急に来ちゃったのに嫌な顔しないでくれてありがとう」
唐突な言葉に、影浦は飛鳥へ視線を落とした。
「それに、こうやって帰りも送ってくれて……やっぱり影浦くんは、すごく優しいね」
「……別に、大したことじゃねえだろ」
「そんなことないよ。私、影浦くんのそういうところ好きだよ」
簡単に“好き”って言って、その言葉ひとつで影浦がどんな想いをしているのか。そんなことを知らずに微笑む彼女に恨めしい目を向ける。
「おめーなぁ……軽々しく、んなこと言うなよ」
「軽々しくなんて、言ってないよ」
飛鳥は、心外だとでもいうように拗ねた表情をしている。そして、影浦の服の裾をぎゅっと握ってきた。彼女のその行動に、思わず足を止めた。
「……もし、軽く聞こえてたならごめん。でも本当に、誰にでも言ってるわけじゃないの」
飛鳥は熱を帯びた少し潤んだ瞳で、まっすぐにこちらを見上げてくる。影浦にも伝播しそうなほど、一途な視線で。
彼女はさらに言葉を重ねる。
「それに、前に言ったよね? 『影浦くんのいいところ、いっぱい言っていくからね』って」
そう言って、飛鳥の顔がほころんだ。
暗い夜道の中で、そこだけ静かに花が咲いたかのようで、影浦は思わず目を奪われる。
こんなふうに笑う顔を自分以外の誰かに向けられるのは嫌なくせに、いざ自分に向けられると、どうすればいいのかわからない。
「……ばーか」
影浦はそれだけ吐き捨てると、先に歩き出した。
夜風に晒しているはずの顔が、じわじわと熱を帯びていく。
「あ、待ってよ影浦くん!」
背後から飛鳥が慌てたように追いかけてきて、再び隣に並んだ。
歩くたびに二人の影が伸びては重なり、離れると淡くほどける。
やがて家が見えてきたのか、「あの家だよ」と飛鳥が指をさした。
彼女の家の前に着くと、灯りはひとつもついていなかった。窓の向こうは真っ暗で、人の気配も感じられない。それが妙に気にかかって、影浦の胸にわずかな不安を落とす。
「今日はありがとね、影浦くん。……ほんとに楽しかった」
飛鳥が目を細め、優し気に微笑んだ。
「……おう」
短い返事しかできなかったが、言葉以上にいろんなものが胸の中で渦巻いていた。
飛鳥が玄関に向かって歩き出し、影浦はその後ろ姿を目で追う。玄関の前で振り返った飛鳥は、小さく手を振ってから中へ消えた。ドアが閉まる小さな音を聞いて、影浦はようやくゆっくりと踵を返す。
帰り道、一人分になった影。
さっきまであった熱が、隣にいない。それでも、自分の中には消えない熱が胸の奥に残り続けている。
――彼女のいない日々には、もう戻れない気がした。