薫風
五月に入ったある日の朝、HRの時間。教室の黒板の前で、担任がくじ引きの箱を振る。中身がカサカサと音を立てるたびに、期待を含んだざわめきが教室中に広がっていく。
「じゃあ次、東雲〜」
担任に名前を呼ばれ、飛鳥が前に出て箱の中へ手を入れる。
朝、担任が教室に入るなり「そろそろお前らもクラスに慣れてきただろうし、一回シャッフルするか!」と軽い調子で告げ、唐突に席替えが始まったのだ。教室内はどこか浮き足立っていたが、その喧騒のなか早々にくじを引き終えた影浦はつまらなそうな顔で引き当てた席に腰を下ろした。
日直の仕事が終わってから、飛鳥と関わる機会が減った。朝の挨拶や廊下ですれ違うときには彼女から声をかけてくれるが、それだけではどこか物足りない。
そんなことを考えながら、影浦は窓際の一番後ろ――新しく自分の場所になった席で頬杖をつき、黒板の前にいる飛鳥の姿をぼんやりと眺めていた。
影浦の視線の先で飛鳥がくじを開く。中身を確認した途端、彼女の表情がぱっと華やいだ。
「あ、影浦くんの隣だ!」
嬉しそうに弾んだ飛鳥の声に、影浦の胸もふいに跳ねる。
しかし、その直後。教室の空気が一気に騒がしくなった。影浦の隣――それは、誰もが密かに敬遠しているハズレ席。
「うわっ、東雲ドンマイ」
「残念だったな〜」
「飛鳥には申し訳ないけど、私じゃなくてラッキー!」
「……でも、あの二人ってたまに話してるよね? 初めて見たとき、『どんな組み合わせだよ』ってビビったもん」
「ちょっと前まで一緒に日直してたからじゃね?」
耳障りなクラスメイトの声が聞こえ、それと一緒に不快な感情が針のように影浦に刺さってくる。飛鳥に聞こえないようにコソコソと喋っているのが余計に腹が立つ。
彼女は、影浦を侮蔑した英語の教科担任に言い返したことがある。影浦が教室を出て行った後の出来事だったため、飛鳥がどんなことを言ったのかは知らない。しかし、彼女の友人が『ヒヤヒヤした』と言っていたことから、相当はっきりと言い返したのだろう。それを、クラスメイトが知らないはずがない。
だからこそ、飛鳥の耳に入らぬよう声を潜め、そして影浦から睨まれないように陰口をたたく。
影浦に厭わしい感情を刺しているとも知らない臆病者たちの会話に、苛立ちが爆発しそうになった。睨みつけて黙らせようとした、その時――。
「影浦くん」
周りの雑音とは裏腹に、飛鳥が屈託なく笑って影浦の名を呼んだ。
その柔らかい声が耳に届いた瞬間、不快感がすうっと薄れていく。荷物を持って隣の席に座る彼女の笑顔が、影浦の瞳に映る。それだけで苛立ちが収まっていった。
飛鳥と関わるようになってから、まだ半月くらいしか経っていない。
それなのに、随分と絆されたと影浦自身も自覚していた。だが、裏表がなければ刺してもこない。あれだけまっすぐに心を揺さぶるような言葉をぶつけられれば、そうなるのも仕方のないことだ――誰に話すわけでもないのに、影浦は自らにそう言い訳をした。
「隣、よろしくね」
「……おー」
「窓際の一番後ろなんて特等席だね」
飛鳥は、影浦の席を見ながら羨ましそうに言った。
この席が特等席だなんて、影浦はそこまでは考えていなかった。でも飛鳥が隣になったことで、急に特別な席のように思えてくる。そんなこと、とてもじゃないが口が裂けても言えないが。
「……そーかよ」
「えー? 絶対そうだよ」
ぶっきらぼうに返した影浦の言葉には、彼女の言葉を否定できないがゆえの微かな照れが混じっていた。
そんな影浦の内心には気づいていない様子の飛鳥は、顔をほころばせながら言葉を続けた。
「ふふ、でも私も特等席だ。だって――隣が影浦くんだから」
影浦が言えなかった言葉を、彼女はあっさりと口にした。
本当にそう思っているようで、飛鳥から向けられるひだまりのような温もりが影浦の内側へ一気に広がる。
「影浦くんの隣の席がいいな〜って思ってたら、叶っちゃった」
「っ! おめーはほんと…………」
「……?」
恥ずかしい言葉を事もなげに言う飛鳥に、影浦は参ってしまう。
彼女のこういうところが、影浦の心を刺激してやまないのだ。しかも本心だから、なおたちが悪い。
「……なんでもねーよ」
お手上げとでもいうように、影浦は窓の外に視線を逃がした。今は、飛鳥を直視できそうにない。
それでも気になって、隣の席にいる彼女をこっそりと見る。柔らかい笑みを浮かべた横顔。窓から差し込む光を受けて髪が透け、きらきらと反射している。騒がしい教室の中で、周りの誰よりも飛鳥だけが鮮やかに輝いているように見えた。
全員の席替えが終わると、そのまま一限目の授業が始まった。
影浦は授業を聞かず、窓の外を眺める。少しだけ開いた窓から爽やかで心地のいい風が入り込み、髪を揺らす。目的もなく、ぼーっとしていると違和感に気づいた。隣から、淡く触れてくるようなくすぐったい感覚が流れ込んでくる。
――なんだ、この感じ……。
頭のあたりがふわふわして、妙に落ち着かない。
ちらっと視線を隣に向けると、飛鳥がこちらを見ていて目が合った。
「わっ! 影浦くんすごい!」
「――は?」
「今ちょうど、『こっち向いてくれないかな〜』って思ってたところなの」
無邪気に笑う飛鳥。
楽しそうな理由も視線を送ってきた理由もわからずに「……なんだよ、それ」と影浦が聞き返すと、彼女はふわりと目元をほころばせた。
「影浦くんの髪の毛が風で揺れて、それで柔らかそうだなって。そう思ったら触ってみたくなったの」
飛鳥のその一言で、意識が一気に自分の髪へ引き寄せられた気がした。
風に揺れているだけなのに、そこに彼女の視線が重なった途端、落ち着かなくなる。
飛鳥が、ほんの少しだけ身を乗り出した。
彼女の白くて細い指先が、ためらいがちにゆっくりと伸ばされる。影浦の様子を窺うように上目遣いで見つめる飛鳥と、瞳が絡み合った。熱に浮かされたような眼差しには、もうお互いの姿しか映っていない。
教室のざわめきも窓から入る風の音も、どこか遠い。まるで世界に二人しかいないような、そんな感覚に包まれる。
そして、柔らかそうな指先が影浦の髪をかすめた。その瞬間――。
「――ここ、大事だからなー」
ふいに、担任の声が教室に響いた。
びくっと、飛鳥の肩が大袈裟なほど揺れる。
彼女は今になって初めて自分の行動に気づいたかのように、目を丸くして固まった。それは影浦も同じで、なにをされそうだったのか遅れて理解すると、はっと我に返ったように二人はほぼ同時に顔を逸らした。
影浦は、自分の頬が熱を帯びているのをはっきりと感じた。心臓の音も、やけに大きくて早い。
火照った顔を風で冷やすために窓へと視線を逃がした影浦の目に、ある光景が映り込む。
――なんつー顔してんだよ……。
窓ガラスに映る飛鳥の横顔は、反射越しでもわかるほど耳まで真っ赤に染まっていた。
そんな彼女の姿に、影浦の胸の奥がぎゅっと締めつけられたように苦しくなる。
普段は、影浦ばかりが飛鳥の言葉や表情に振り回されている。だから、こんなふうに彼女が動揺しているのを初めて見た。
それが、どうしようもなく嬉しい。
もしあのとき担任の声がしなければ、なにが起こっていたのか――そんなことを考えてしまった自分に驚く。
影浦はそのまま、こっそりと窓に映る姿を眺め続ける。
飛鳥は顔の前で両手をパタパタと小さく振り、熱を冷まそうとしている。その姿が、素直に可愛いと思った。
それ以降の授業の時間も、真面目にノートを取っている姿や小さく欠伸を噛み殺している姿。昼休み明けの授業で器用に居眠りをしている姿。優等生そうに見えて、意外とそういうところもあるのが面白い。その全てが、影浦の目には新鮮に映った。
窓に映る飛鳥を眺めることが、影浦にとって今後の密かな楽しみになるなんて、このときはまだわかっていなかった。