火に閉じ籠めて 前編 の続き
彼は異例の抜擢を受け入れ、ハンター協会審査部部長の席に就いたのだ。その栄進は同時に、この家から飛行船で二日半かかる都市に所在するハンター協会本部ビルへ週六日出勤することを意味していた。
彼はわたしたちがこの国へ渡ったときと同じように素早く全ての手続きを済ませ、旅行に出るような気軽さで家を出て、協会本部の近くに新居を構えた。説明らしい説明は一切されなかった。
わたしはあまりにも手際よくこの家と剥製ごと自分を棄てたパリストンを恨まなかった。そうするには混乱しすぎていた。自業自得ながら、わたしはこの外国で文字通り独りきりだった。
頭も体もまだ彼に陶酔していたけれど、こうなった以上は徹底的に客観的にならなければいけないと感じ、パリストンにまつわるニュースや協会報のインタビュー、メールの履歴、記憶を辿って彼の行動と人物像を組み立て直した。それは言うまでもなく苦しみを伴う作業だった。そして自分がどれだけ愚かで、どれだけ彼を知らなかったかを痛いほど感じることになった。
パリストンは舌鋒、人を弄ぶ悪癖、強い野心、偽物の笑顔、そういうもので出来ているような人だった。協会の権力と無縁だったわたしは彼の人物評を聞いたことがなかったし、親しいひとたちからの警告を重く捉えていなかった。
わたしは一度も彼の本性、彼がわたしに見せたがったところよりも深くにあった欠陥に向き合おうとしなかった。多分そんなものは見たくなかったのだと思う。今でも時々、この孤独は彼を本当に知ろうとしなかった罰なのかもしれないと感じる。
わたしの目から見た恋人としてのパリストンは、現実よりも誠実だった。欠点といえばわたしのことになると凄まじい妄執を発揮することくらい。人間らしい人間、恋人らしい恋人に見えた。
思い出の中には、いつも切らさない紅茶の銘柄だとか、目立つ装いは人の覚えをよくするためで特に派手好きではないことや、愛撫の仕方、休日の全てをわたしに捧げていて、気に入っている喫茶店、たまに少し意地悪になることや、ボードゲームをする時に長く考え込む癖、わたしが気まぐれに買う雑誌に載っている星占いの欄を好んで読むことだとか、そういう、とりとめのない情景だけがあった。
それらは彼の欠陥と矛盾せず、彼の持つ多面のうち一つか二つの面、それも最も美しい面だったように思う。そして他でもないそれらの記憶がプリズムのように光り続けて、いつまでもわたしをここに留まらせた。
黒い鳥の剥製と一緒に灰になった嫉妬の燃えさしをぼんやり眺めていた。
彼から贈られた剥製を燃やしたあとは嫉妬と孤独が一時的に薄まる。ひとつ燃やせばしばらくの間わたしはなににも苦しめられることなく暮らせた。彼からの電話がなくても気にならない。誰を妬むこともないし、不安でもない。束の間の安息が始まっていた。
日が高くなる前に喪服を脱いで、いつものルーティーンに戻らなければいけなかった。……オークションの出品リストをチェックして、決めた通りのペースで読書して、コレクションの手入れをして、掃除をして、料理をして、洗濯をして、買い物に行く。彼からの電話を待ちながら。剥製を燃やしたのだから、きっといい日になる。早く行こう。
自分にそう言い聞かせて立ち上がろうとしたそのとき、門の方から「ただいま」という声がした。
一瞬、それはあまりにも烈しく求めているために生まれた幻聴だと思った。けれどそれは現実だった。もう一度、ただいまと声がした。パリストンは門扉が開いた途端、そのすきまからわたしの額と唇にキスをした。そして懐かしい笑い方をしながらわたしの喪服を褒めた。
「新しく買ったんですね。よく似合ってる。三ヶ月ぶりだね。煙が見えましたよ。今朝やったんでしょう?鳥の死体を燃やすのにいちいち喪服を着るなんて本当にキミは律儀だ」
わたしは笑ってみせたけれど答えなかった。ただお互いが再会を喜んでいるのだからそれだけで良いと思った。彼は歩きながら私の腰に腕を回し、手のひらで撫ぜてから少し痩せたねと呟いた。
そして玄関につながる道から庭に薄い煙が立ちのぼっているのを見たとき、パリストンは心の底から面白がっているような声で言った。
「もしかして、ホウセキフラシを燃しちゃったんですか?」
「ええ」
「あれ、本当に苦労して手に入れたんだけどなァ」
彼は子どものように肩をすくめてみせた。湿った風が煙のにおいを吹きかけてきた。わたしが熾した火によって失われたW彼Wの美しい佇まいが思い出された。同時に、それが持っていた価値も。それでも惜しいとは思えなかった。
わたしはもうコレクターでは無いのかもしれない。少なくともこの瞬間、その肩書きを名乗る資格はないように思えた。子供の頃から自由に空を往く鳥を愛していた。でも彼が好きだった。わたしにキスしながら傷つけ、与えながら奪おうとする性質も含めて。命を奪いながら愛される剥製のように。
「……今まで見た事がないくらい貴重な剥製だった」
「それでも燃やしたんですね?」
わたしは頷いた。
「ねえナマエ。一昨日の夜、電話で女性と会食したって言ったから、嫉妬したんでしょう?わざとだったのに、あれは。キミは今度も贈り物を燃やすかな?でもまさかホウセキフラシに手は出さないだろうって思いながら、言ってみたんです。けどやっぱり燃やしたんだ。ねえ、燃やした理由は嫉妬でしょ?」
「ええ。すごく嫉妬した」
「ボクがいなかったから寂しかった?」
「寂しかったよ」
「帰ってきて嬉しい?」
「嬉しい。もう二度と行かないで欲しい」
わたしは彼からなにかを問われたときいつもそうするように、正直に答えた。ただ喜ばせるためだけに。そして彼は素直に喜んだ。
「ナマエは本当に苛めがいがあるから大好きなんだ。今のボクに必要なのはそういう顔のキミなんです」
パリストンは感極まったような目つきでわたしを見た。懐かしい笑い方をしてみせた。そしていつもの彼らしく、これほど急に帰ってきた理由を捲し立て始めた。
「予定を変えたのは本当に疲れてしまったからなんです。ずっとボクの粗探しばかりしてた人を失脚させることができてね。それが電話で言ってたパテの彼女の上司だったんですが、彼女、横領と協専規則違反というていでその人を告発してくれたんです。まあ本当にしたかどうかは別の話だけど。あはは。それで驚くほど仕事がやりやすくなりました。
けどね、調査委員会の立ち上げだとか帳簿の用意だとかが意外と骨で、まず問題にする帳簿と書類がないと始まりませんから、何から何まできっちり改竄したものを揃えなきゃいけなくて。勿論ひとにも手伝って貰いましたが、ボクにも仕事がない訳じゃないし。くだらないうえに面倒な作業ばかりの日々だったんですよ。
でもだからってあんな男を野放しにしておくわけにいきませんからね。協会の未来のためにもひと肌脱いだんです。そんな思いで働いてるっていうのに、裏切り者、じゃない、告発者が女性だったってだけで、ボクには色魔ってあだ名がつけられてるらしいんですよ。笑っちゃいましたけど。
ねえナマエ、それは幾らなんでも酷いと思わない?それじゃまるでボクが誘惑したみたいじゃないですか。キミはいくら嫉妬したって、事実には何もないことくらいわかってるよね?だから、完全に曲解で、厭味な当てこすりなんですよ。なんて下品な人たちだろう。ただひとりの協会員が正義感に駆られて、汚職に手を染めた上司を告発したってだけの話なのに……それでも、目の上のコブが消えたので、これからはもっと……いや、今はやめときましょう。まぁ、そんな感じです。ここ数日はてんやわんやで、さすがに参りました。疲労困憊で」
彼はわたしの髪を梳いたり首や頬を指でしきりに触ったりしながら話していたけれど、ふと表情を失くして、なにかに気づきでもしたように口ごもってから呟いた。
「とにかくキミに会いたかった」
彼が電話越しではない生の声でそんなことを言うから、わたしは自分がまだ彼にとって意味のある存在なのだということに安心してしまった。飼い主が気まぐれに投じる木の実を貪るさもしい鳥のようだと思いながら。昔大切にしていたものを何もかも放ったまま、この家に自分自身を閉じ籠めて、彼だけを求めている今は惨めだった。けれど同じくらい幸福だった。だからなにも言わなかった。
おかえりなさい、以外には言うべきことはなにも無かった。
パリストンは子どもがぬいぐるみにそうするようなあどけない荒っぽさでわたしを抱き締めた。真新しい匂いのするトレンチコートも脱がないままで。数十秒はそのままだったと思う。彼はわたしの体に腕を回したままゆっくりと顔を上げ、緩やかにカーブした円形の高天井を仰ぎ、しばらくなにかを考えていた。そして瞳に嗜虐を宿し、自分の腕の中にいるわたしとまっすぐ視線を合わせながら、輝く笑顔でこう言った。
「ねえ、ナマエ。この家は鳥籠みたいですよねぇ」
火に閉じ籠めて 後編
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