いつかなくなる不幸せ


 大きな口でモグモグと咀嚼を繰り返す男の子は、何度見ても、どう考えても肥前忠広だった。
 私の阿呆な提案に対し、胡乱な視線を向けてくる事も無く、素直に頷いた彼へ、取り合えず言葉通り、お昼か明日以降にまた食べようと思っていたパンの残りを提供したところ、キラキラと眼を輝かせ、小さく食前の挨拶をしてからガツガツと胃に収める作業に没頭してしまった。ゲームに出てくるアイテムとかから、和食メインでパンとか馴染みが無いかと思ったが、意外にそうでもないらしい。でも焼き立てパンの経験は無かったらしく、外側がサクッと、中がふんわりの食感には驚いていた。
 我が家に招くのも何となく気が引けて、出来上がった朝食をトレーに乗せて、今は隣の部屋の和室にポツンと置いてあった横長の座卓へ並んで座っている。畳にこの木の質感が強い座卓、高級旅館を彷彿とさせてくる。私も朝食の途中であったが、流石に自分の分まで此方に持ってきて食べる勇気は無かったので、気まずさ回避用のちょっと温くなった珈琲マグだけ持ってきて、先程からチビチビとそれを飲んでいる。並んで座る際、人一人分くらい空けて座った筈なのに、何故か彼が此方に寄ってきてしまったので、彼との距離は拳一つ分くらいになってしまった。とても近い。
 座卓に頬杖を突きながら、此処はどこなのだろうか、とぼんやりと綺麗な木目の天井を見上げていれば、横から視線を感じて何となくそちらへ視線を戻す。食べ終えたらしく、指についた食べかすを舐め取りながら此方をジッと見つめてくる姿は、お代わりを所望するネコチャンのようだが、生憎と本日のパンはそれですべて終了である。公式設定か記憶は定かではないが、肥前と言えば食べる専門、つまり大食いというイメージの下、足らなかったら可哀想だと作ったパンをすべて持ってきたのだが、それでも足らなかったらしい。

 「…残念だけど、もうパンは無いよ。」
 「…それ、何飲んでんだ。」
 「うん?珈琲…飲む?」
 「ん。」

 微妙に会話のキャッチボールが出来ていないような気がするが、気にせず次に興味を示したらしいマグを手渡せば、少し匂いを嗅いだ後、ゆっくりと一口飲み込んだ彼は、苦そうな、何とも言えない渋い顔をして早々にマグを突き返してきた。どうやら珈琲はお気に召さなかったらしい。砂糖も少し入っているからブラックではないんだけど、まだまだ彼の下には苦かったようだ。
 何となく気まずい空気が流れ、ソワソワとし出した肥前に、気を遣わせるのも申し訳ない気がして、よいしょと腰を上げる。すぐに彼からの視線が此方に向いたが、帰るね、と一言伝えた途端、ギュッと寄った眉根に、もしかして寂しがってくれているのだろうか、と都合のいい捉え方をしてしまった。黙って後をついてこようとする彼を止め、またね、と先程と少し違う意味合いの言葉を重ねれば、ん、とまた小さい頷きが返ってきた。
 綺麗に空になったプレートとサラダボウルの乗るトレーを持って、襖を開けばあら不思議。今度は何故か私の家の廊下に繋がった。そこはリビングじゃないのかよ、と振り返るも、当然背後にも何処にも襖は無く。恐る恐るリビングへ続くドアを開いたら、普通にリビングに続いていた。
 一体全体何だったのか。もしかして寝ぼけて白昼夢でもみたのか?しかし一斤あった自家製パンは無く、手元には使用済みのプレートとサラダボウルがあるのみ。夢や妄想の類だったらパンが無くなる理由も、今手に持っている食器類の説明もつかないはずだ。まさか私が自分で別にお皿を用意して自分でパンをすべて食べつくしたとは考え難い。流石に朝からあんな量のパンを胃に収める事など不可能だ。

 「…何だったのかなぁ。」

 狐につままれたような気分、とはこのことだろうか。うーん、と頭を悩ませかけたところで、テーブルに置いてあるデジタル時計が視界に入り、指し示す時刻に慌てて洗い物を開始した。今朝はリッチな朝食気分を味わうため少し早く起床したが、普通に平日。つまり仕事があるのだ。始業時間に差し迫る時刻に、結局洗濯は夜まとめてする羽目になった。


******

 主と呼べる女が消えていった襖を見遣りながら、肥前は呆然とその場に立ち尽くしていた。彼女から感じた心地良い霊力は、紛うことなく自身の中にも巡るそれと同じだった。つまりあの女こそこの本丸の主人にして審神者であり———肥前を始めとした刀剣男士達の主というわけだ。
 鼻腔を擽った芳しい香りの正体は、彼女が手にしていたパンだと気付き、苛まれていた空腹感が限界に達しようとしたところで、彼女の口から提案された言葉に、肥前は碌に思考も働かない頭で頷いていた。その事に気付いたのは提供された食事を食べ尽くした後のこと。あの時は我に返ってまた驚愕に固まる羽目になったから碌に考えつかなかったが、今思えば提供された食事にも彼女の霊力が多分に含まれていたのだと思う。お蔭で、今の肥前は手入れを受けたばかりのように活力に満ちていた。
 またね、と彼女は言った。最初は、帰るね、と言われたが、それが何だかもう此方にはもう来ないというような意味合いに聞こえて、肥前は思わず睨み付けてしまったのだが、彼女はそんな肥前を見ても柔らかく小さな笑みを溢すだけで、怯える事も無く、またね、と言い換えたのだ。また。それはつまり、彼女がまた此処に来てくれるということ。それはいつになるのだろうか。その時、また自分は彼女の傍にある事が出来るだろうか。グルグルと駆けまわる焦燥感に耐え切れず、恐る恐る手を伸ばした襖をそっと横に引いてみたが、肥前の視界に入り込んだのは、真っ暗な和室の空間だけ。家具も何もない、がらんどうな空間。雨戸は常に閉められ、日差しも何も差し込まない物悲しい一室だった。

 「…またって、いつだよ…」

 思わず口から零れてしまった愚痴の言葉は、肥前が思う以上に寂寥に満ちていた。


******

 慌ただしかったが何とか定刻通り始業して、いつも通りに業務をこなして定時で業務を終了した現在。日中は仕事に没頭していたためすっかり忘れていたが、トイレなどでリビングのドアを開けた時は、普通に自宅の廊下へと続いていた。いや、普通にっていうか、それ以外本来あり得ないのだけれども。
 昔懐かしい日本家屋の廊下に繋がったのは、今朝のあの一回限りだったが、どういう条件で繋がったのだろう。今朝の状況を思い出してみるも、特に不審なところは無かったはずだ。片手にスマホ、片手にパンを持ち、洗面所へ向かうために開いたドア。もしかして食べ物を持っている事が条件なのか、と思い、テーブルに置いてある小さな籠からお菓子を一つ取り出して手に持った状態でドアを開けてみるも、見慣れた廊下が続くのみ。スマホも持ってみたが結果は変わらず。

 「…とりあえず、夕飯にしようかな。」

 在宅だったとはいえ、今日も一日良く働いたからお腹が空いた。キッチンに戻りがてら手に持ったお菓子を食べ、冷蔵庫から目当ての食材を出していく。キャベツともやしが安くてつい多めに買ってしまったから、今日の夕飯は野菜炒め。多めに作って冷蔵保存すれば、あまり時間を割けない昼食でも食べられるし、悪くなってしまう前に野菜類も使い切ってしまった方が良いだろう。
 袖を捲って手を洗い、慣れた手つきで野菜を一口大に切り分けていく。一緒に入れるお肉は安売りの日に大パックを買って小分けに冷凍していた薄切りの豚バラ肉。ついつい酒やご飯に合う味付けにしてしまいがちで、今日もニンニク味噌ベースでとてもお酒とご飯が進む味付けだ。フライパン一つでちゃちゃっと作ったそれを、食べる分だけをお皿に盛り、残りは保存用のタッパーに移し変える。付け合わせは作り置きしているサーモンとアボカドをポキ風に合わせたもの、鶏がらスープの素で作った卵スープ。土鍋で炊いた白米を茶碗によそって、調理時に出た洗い物を済ませてからようやく一息ついて腰を降ろした。仕事終わり、一日の終わりに欠かせない缶ビール。プシュッと炭酸の抜ける音と共に栓を開けて、グラスに移し替えることなく間のままグビッと一口。咽喉を抜けていく清涼感が堪らない。
 冷めないうちにご飯も食べてしまおうと箸を持ち、日課であるアプリゲームも進めようとログインしたところで、ふと思い出す。そう言えば今朝も、このゲームにログインした状態のスマホを持っていなかっただろうか、と。続いた先の見慣れぬ廊下に立っていた彼は、このゲームに登場する一人———正確には一口である。先程、食べ物やスマホを持っただけでは向こうには繋がらなかった。それはもしかして、繋がるキーとなるゲームを起動していなかったからでは?そんな何の根拠もない漠然とした推論を立てて、本丸画面の状態のスマホを片手に、恐る恐るリビングのドアに近づいて、ゆっくりと開ける。
 リビングの灯りが差し込んで、薄っすらと明るくなった廊下を見て、それが今朝見たあの廊下だと察し、またゆっくりとドアを閉めようとしたタイミングで、ガッと抑えつけるように差し込まれた手と足に、ものすごく情けない悲鳴が短く上がった。

 「遅ぇんだよ…っ!」

 聞こえた非難の声は、今朝方聞いたばかりの、あの子の声だった。


******

 彼女の言う『また』が何時なのか。分からない以上、その瞬間を逃すわけにはいかないと、肥前はしきりに二階の様子を伺いながら今日一日を過ごした。元より団体よりも個人で動く性質であるため、擦れ違う他の刀剣男士に不思議そうな眼を向けられても、特に深入りされる事も無く過ごした日中。昼食を終え、八つ時に短刀たちが喜色の声を上げ、夕焼けに染まり出す時刻になっても、二階からあの気配を感じる事は無かった。
 夕飯時になり、酒飲み達が宴会を始めた時間になっても、まだ訪れない気配に、段々と苛立ちを募らせた肥前は、小刻みに揺する足をそのままに、ジッと座卓に並ぶ料理を睨み付ける。今まで何の抵抗もなく食べていたこの料理も、今朝食べたパンに比べたら雲泥の差と思えてしまう。食えりゃ何でもいい、食う専門だと思っていたが、たった一回で肥えてしまった己の口に、思わず舌打ちを溢した。

 「肥前君?苦手なものでもあったかな…?」
 「僕達が作った夕飯に対し、舌打ちをするとは度胸がおありだね?」
 「…別に、そんなんじゃねぇ。」

 本日の夕飯を担当したのだろう、心配そうに肥前の様子を伺う太刀と、腹立たしそうに腕を組む打刀の視線から逃れるように、空気が籠らぬよう僅かに開いた障子から、すっかり夜の帳が降りてしまった庭へと視線を逸らす。言いたいことがあるならば正直に言ったらどうだい、という打刀からの追撃に、どう躱そうかと思考を巡らせた瞬間、ふわりとまた外から漂ってきた香りに、肥前は弾かれるように廊下へ飛び出して二階へと駆けあがった。背後から同郷の刀たちからの呼びかけが聞こえるが、それどころではない。今日一日待ち望んだあの香り。今朝のそれとは少し違ったが、それでも間違えようがない。
 真っ暗な廊下に僅かに差し込んでいた微かな灯りが、段々と細くなっていくのが見え、襖の向こう側が閉じられようとしている事に気付いた肥前は、勢いを殺さないまま手をかけ、足を突っ込み閉まりきるのを妨害する。襖の向こうから聞こえる、ひぇっ、という短い悲鳴を耳にした途端、湧き上がった不満がそのまま声に出てしまった。