空に浮かべた花言葉


 遅い、と文句を言いながら息を切らす姿に、そう言えば今朝の別れ際に、またね、と声を掛けた事を思い出す。もしかして律儀にその『また』を待ち続けていたのだろうか。どちらかと言うと気まぐれなネコチャンタイプだと思っていたが、この肥前忠広という脇差は、意外にも忠犬タイプなのかもしれない。知らなかった新たな一面に心を和ませていると、おい、と少し低くなった抗議の声が上がった。無視された事に対して少し怒り気味らしい。

 「ごめん。日中は仕事があるから来れなくて。」
 「…そうかよ。それで?晩飯は?」
 「うん?え、食べるの?」
 「早く出しやがれ。」

 もしや逢えなかった寂しさでの文句ではなく、昼食が食べられなかった事に対しての文句だったのか?しかし食事という行為に対して何の違和感も無かったから、恐らくこの本丸内で食事という行為が無いわけではないはず。そこまで思い至って、普通に用意されているのでは?と疑問を口にすれば、また不貞腐れたような顔で、お前のじゃなきゃ満足できなくなった、と可愛いような我儘なような答えが返ってくる。しかしそこは長年愛した、可愛い我が子のような存在。可愛さが押し勝った私は、また明日以降のおかず用として、タッパーに詰めていた分を提供するために別皿に盛り付けなおすことにした。
 今朝と同じく隣の部屋の座卓に並んで座り、肥前用に取り分けたプレートと、今日は自分の分も一緒に並べる。肥前が食べ終えるのを待って、自宅に戻ってから食べる事も考えたが、食欲をそそる香りに敗けた結果である。だって私もお腹空いているし。ニンニク味噌の芳ばしい香りにそそられたのだろう、ゴクリと生唾を呑み込んで今か今かと待ち構える肥前へ、召し上がれ、と了承の意味の言葉を促せば、今朝と同じく食前の挨拶もそこそこに勢いよく野菜炒めを大口で頬張った。

 「…っ!」
 「ふふ。そんな慌てて食べなくても。」

 言葉にならないと言わんばかりの顔で野菜炒めと私を交互に見遣る彼は、あまり表情の変わらないクールな子だと思っていただけに、ちょっと新鮮味を覚える。意外と表情豊かなんだ、とまた新たな発見に弛みそうになる頬を引き締めて、私も早速一口。噛んだ瞬間、ジュワリと広がる味噌の甘辛さとニンニクの香り。これは確実にご飯が進む。タレを乗せるように白米にワンバウンドさせてから野菜炒めを食べ、タレを少し吸った白米を続けざまに頬張れば、我ながら百点満点の味の完成である。
 私の食べ方を見て、真似るように白米へワンバウンドさせた肥前は、ニンニク味噌タレを吸った白米の美味しさに気付いてしまったらしく、あっという間に茶碗に盛った白米を空にしてしまった。今朝の食べっぷりを見て、大盛にしたつもりだったが足らなかったらしい。心なしかしょんもりした様子で空の茶碗を眺める姿に、可愛さのあまり変な声が出そうになったのをグッと堪えつつ、お代わり持ってくるから貸して、と手を出せば、山盛りで、と要望が返ってきた。
 襖を開けてリビングへと戻り、まだ炊飯器に残したままにしてある白米を、要望通り茶碗へ山盛りによそう。これで明日の朝食用のご飯と冷凍保存用が無くなったな。しかし炊き直す手間と、肥前のあの可愛い姿を天秤にかけた結果、圧倒的後者に傾いたため、気にせずてんこ盛りにする。

 「お待たせ。」
 「ん。」

 律儀なのか、白米が無いからなのか、食べずに待っていた肥前へ山盛りの茶碗を手渡せば、ガツガツと食事を再開する。成長期の男の子ってこんな感じだったな、と学生時代のクラスメイトの姿を思い出しつつ、私も食事を再開させた。


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 てんこ盛りにしたはずのお代わりすら足らず、途中で面倒になって茶碗ではなく丼で提供したが、それすらもペロリと食べ切った肥前は、ようやく満足そうな様子で箸を置いた。野菜炒め山盛り二皿、ご飯山盛り四杯(途中から丼に変更)。見ているだけでお腹いっぱいになりそうな実にいい食べっぷりである。
 先に食事を終えてゆっくりとお茶を啜っていた私は、〆の一杯と言わんばかりに卵スープを一気に流し込んでから、手を合わせて食後の挨拶をする肥前へ、お粗末様でした、と返し、すっかり空になった食器類を貰って立ち上がる。さっさと洗い物を済ませて、明日の朝食用のご飯を炊き直さねば。肥前のお蔭で、数日持つはずだったご飯もおかずもすっからかんなのだ。
 今朝と同じくお見送りをしてくれるのだろう、後ろをついて歩く肥前へ、じゃあまたね、と声を掛けようと振り返ったところで、違う方面からギシッと木の軋む音と、主?という声が聞こえてきた。視線をそちらへ向ければ、驚いた様子で眼を見開いて固まる榛摺色の髪を後ろで一纏めにした青年———陸奥守吉行の姿が。むっちゃん?と私が思わず声を溢したのと、向かいから小さな舌打ちが聞こえたのは同時だった。

 「あるじ…?げに主か?」
 「あーっと…そう、なのかな…?」
 「何で俺に聞くんだよ。」
 「いや、なんか…」

 二次元の存在である子達に三次元で逢う事に未だ慣れたわけではない手前、そうです私こそが貴方達の主です、とは胸を張って言い切る事が出来なかったのだ。しどろもどろになる私を他所に、もう彼の中では私が主という等式が出来上がっているらしく、見開いていた眼を潤ませながら、両手を広げて駆け寄ってくる。待って欲しい。今の私は両手に食器の乗ったトレーを持っていて、背丈の変わらない彼を受け止められる状態ではない。このまま突っ込んで来られて、共倒れになった場合、確実にトレーを引っ繰り返すし、陶器製の食器を落とせば割れる事になる。そこまで珍しく思考が働いたところで咄嗟に、待て、と犬の躾の如く声を張ってしまった。
 ピタリ、と寸前で足を止めて急停止する陸奥守に、トレーと食器の無事が確保された事へ安堵の息を漏らしつつ、片付けがあるからまたね、と軽くはない食器類を早く片づけたい一心で、簡潔に理由を伝えてから、行儀が悪いが足で襖を開ける。肥前もまたね、と成り行きを見守っていた肥前にも改めて声を掛ければ、ん、とお馴染みの短い返事。

 「あ、あるじぃ?待ってにゃぁ…!」
 「ごめん、片付けあるから。また今度ね。」
 「どういて主がここにおるがや!?」
 「それは私にもわからん!」

 自宅と本丸の一室?廊下?が繋がった理由など私が聞きたいくらいだ。しかし本当に食器類を持った両手が限界なのだ。プルプル震えだす筋肉が悲鳴を上げているし、このままだと力尽きて引っ繰り返す。それこそ陸奥守を途中でステイさせた意味が無い。早く何処かに置きたい一心で、未だ焦った様子で質問を重ねようとする陸奥守へ、もう一度、ごめん、と伝えてから手早く戸を閉めた。
 シンクへやや雑にトレーを置いて、じんわり痛み出す腕を軽く振って一息吐く。間に合ってよかった。腕の感覚が戻ってから、ポケットに入れっぱなしのスマホを取り出せば、相変わらず本丸画面のまま、設定した近侍の山鳥毛の立ち絵イラストが映るだけである。そう言えば、何でファーストコンタクトが肥前だったのだろう。近侍に設定している山鳥毛とかじゃないのだろうか。まあ、アニメとかでも本丸は随分と広い様子だったし、ゲームでの本丸画面がすべてでは無い事は、何となく想像つくが。

 「次行ったら、今度こそむっちゃんの質問攻めかなぁ。」

 実際、彼が感じる疑問はもっともであり、私も知りたいところである。肥前の様子もそうだったが、陸奥守の様子からも、あの本丸と刀剣男士は、数年間私がコツコツとゲームプレイで育ててきた、この画面の子達で間違いはないのだろう。そして二回も起こった現象的に、白昼夢や妄想の類とも考え難い。何度も言うが、私一人でこんな大量のご飯を一度に消費できないのだし。
 しかし考えたところで答えが出る訳もなく。デジタル時計が指し示す時刻を確認したところで、さっさと片づけてお風呂に入ろう、と気持ちを切り替えた。楽観主義、能天気な性格と両親からよく言われてきたが、こういう時に切り替えが早くできるから便利な性格である。


******

 あっけなく閉じてしまった襖の前に、陸奥守は呆然と立ち尽くしかなかった。後を追いたくて直ぐに襖を開けたのに、その先に続いた光景は、すっかり見慣れてしまったがらんどうの暗闇。主と呼んだ彼女が消えていった先は、柔らかな光に包まれていたというのに。
 未だ纏まりきらない思考で、それでも自分よりは事情を知っているだろう、同郷の脇差へと視線を向けるが、黒鳶に朱殷が混ざった蓬髪の彼は、何処か寂し気に眼を軽く伏せてから、黙って踵を返してしまった。慌てて陸奥守は引き留めるが、問いかけた言葉に対して、肥前はすべて首を横に振る。それだけで、彼もまたこの現象の意味も条件も分かっていない事を察する。

 「なんべんも二階を気にしちょったんは、これが理由がや。」
 「…あいつが、また、って言ったんだよ。」
 「どういて黙っちょった。」
 「…言ったところで、誰も信じやしねぇよ。」

 ここは主がいない本丸なんだからよ。色の無い声でそう呟いて、肥前はさっさと階段を下りて行った。暗闇に包まれた廊下に一人取り残された陸奥守は、再び襖へと眼を向ける。主のいない本丸。主とは絶対に逢えない本丸。そう周囲から囁かれ続けている事は、陸奥守も痛いほど知っている。実際にそう憐憫の眼を向けられた経験もある。
 そんな本丸に主が突然現れた、と報告しても、仲間たちは悲し気に眉を下げるだけだろう。陸奥守がその立場だったら、少し言葉を詰まらせて、きっと肥前の背を黙って擦る程度に留めていたと思う。簡単に想像がついてしまった。それほど、この本丸の『主』という存在は諦念の象徴だったのだ。
 肥前に続く形で階段を降り、大広間へと戻った陸奥守は、肥前の様子を気にして待機していた同郷の刀や、食事時に急に席を立ったというのに、心配した様子で膳を片付けずにいた心優しい太刀へ、肥前の事は今はそっとしてやって欲しいこと、夕飯は夜食にでも食べるだろうから、置いておいてやってくれ、と頭を下げた。

 「何があったのか、理由は聞かない方が良いんだね。」
 「…今はまだ。」
 「分かったよ。彼の言葉を待つとしようじゃないか。」

 付き合いが長いだけに、肥前の性格をよく知る藍墨茶のウェーブの髪を揺らした同郷の打刀———南海太郎朝尊が、待つ、という選択を下した以上、料理当番の太刀と打刀———燭台切光忠と歌仙兼定は、顔を合わせて一つ溜息を溢してから、それ以上何も言う事無く引き下がる。心優しい同胞たちに、陸奥守は再度、頭を下げた。