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 汝の名を告げよ。そう厳かに口を開いたのは闇の鏡と呼ばれた不思議な大鏡。何故鏡がひとりでに話すのか、何故見ず知らずの鏡に名前を教えなければならないのか。懐疑心は拭えないが、ここで下手な行動を取って訝しがられるのも本意ではないため、仕方なく小さく自分の名を紡いだ。暫くこちらを探るような視線———と呼べるのかは不明だが———を向けた鏡は、汝の魂はサバナクロー!と声高に再度告げた。サバナクローとは。しかしその疑問は即座に隣に立つ男の言葉によって解決した。どうやらここに集まる者達を七つのグループに分けているようだ。
 案内された列の最後尾に並び立ちながら、思考を巡らせる。昨日は久しぶりの非番で、同僚(向こうの方が上司であるが)のたしぎちゃんと共にブラっと近くの街へ出かけ、たまたま見かけたいい感じのバルで夕飯を共にしてから分かれた。その後は真っすぐに帰宅し、アルコールを摂取していたとは言え、泥酔するような飲み方はしていなかったので、普通にシャワーを浴びて就寝したはずだ。そこまではハッキリと覚えている。しかしそこからの記憶が全くなく今この場で意識を取り戻したとなると、就寝中、あるいは自身の意識が無い時にここへ連れ去られたという事になる。いずれにせよ、自宅への侵入を易々と赦した事実は残るため、不甲斐なさを覚えつつ、周囲の状況をつぶさに観察する。此処が何所で、何の目的で自分が拉致されたのかは不明だが、一刻も早く帰還せねば我が上司こと白猟のスモーカーが黙っていないだろう。腑抜けてんじゃねぇぞ、と喝を入れられる未来がありありと分かりすぎて嫌になってきた。
 思えば、給料が安定しており、余程の事をやらかさない限りは一生定職に就く事が出来るという点のみで就職を決めた自分にとって、昇進だの野心だのは全く蚊帳の外、そこそこ平和な島で平和な書類整理と近隣住民との軽い交流を兼ねた警邏くらいで事足りるポジションに収まるつもりだったのだ。しかし初めて配属され、漸く地盤もしっかりし始めたタイミングで、あの男が責任者として赴任してきてからすべての計画が狂ってしまった。何がそんなに面白いのか、やたらと構われ、偶に紛れ込んでくる海賊の捕縛には、必ず最前線へと共に駆り出され、そこで初めて逃した麦わら海賊団の後を追ってズルズルと気付けば新世界入り。
 奴の後を追うと宣言した上司をローグタウンにて見送りする予定だったのに、五百人は殺しているだろうという形相で睨まれたかと思えば、首根っこを掴まれて強制連行された。何故。その後、准将になった上司に一兵卒の私がずっと傍に侍るのは、おかしいという内部の声が大きくなり、確かにその通りだな、と離れようとしたら、何故か私の昇進試験を勝手に申請した上司の手回しによって、軍曹へと昇格してしまった。何故。そしてそして、今や歴史の一ページに大きく残る事となった頂上決戦後、上司が新世界入りすること、海軍の爪弾き、窓際部署と名高いG5支部に所属希望を出している事を知り、今度こそ大手を振ってお見送りするぞ、と意気込んだのに、気付けばG5支部へ向かう船の中。何故。あの部署はその性質上、少佐以上でなければ基本的に移動申請は通らないと聞いていたのに。スペースキャットになっていたそんな私に突き付けられたのは、私が中佐に昇格した事を証明する辞令。何故。
 そんな納得のいかない紆余曲折を経ての今。これ私何も悪くなくない。というか、このままどんずら噛ましても赦されるのでは?そこまで辿り着いた虚無の思考を遮ったのは、男の甲高い悲鳴。咄嗟に視線を上げれば、何故か例の大鏡付近を中心に周辺が火の海と化していた。何故??


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 火の海と化した諸悪の根源である、魔獣と呼ばれた猫?狸?が拘束され、汚い悲鳴を上げた張本人である男の手によって外へ放り捨ててくる事となり、落ち着きを次第に取り戻した周囲は、順に各寮へと移動するよう指示が出た。寮、とは。そんな私の疑問など露知らず、キュートなお耳と尻尾を生やした美丈夫の号令によって、よくわからない鏡を潜った先に広がる乾燥地帯にまたもや言葉を失った。姿見ほどの大きさの鏡の中を潜る行為自体も可笑しいし、潜った先にありえないほど広大な、しかも明らかに環境も異なる空間が広がっている事も可笑しい。なんだこれは、誰かの能力によるものか。しかし内心慌てる私を他所に、他の者達は例のキュートなお耳と尻尾の美丈夫の指示に従って、各人に振り分けられた部屋へと移動を始めてしまった。随所で聞こえてくる単語などから、どうやら此処がとある学園で、この乾燥地帯とも呼べる亜空間がサバナクロー寮である事を辛うじて理解する。そういえばあのよく分らん大鏡に汝はサバナクローと宣言されたわ。
 寮長と呼ばれた美丈夫よりもずっと小柄で、お耳が大きく尻尾が短い、どちらかと言えば可愛らしい部類に入る(恐らく)先輩の案内の元、辿り着いた一室は、どうやら二人部屋らしい。まあ、一年生、つまり新入りの時点から個室なんてそうそう無いか。四人とか六人とかの大所帯じゃなかっただけ有難いとしよう。海軍入隊時の研修部屋の十人超えの大所帯に比べればかなりマシな方だ。
 荷解きが済んだら、寮服に着替えて談話室に集合するように。そう言って他の一年生の案内に向かった(恐らく)先輩の背を見送り、自分の部屋と割り当てられた空間を再度見まわす。同室者はまだ来ていないらしいが、既にボストンバッグなどの荷物が、二つあるベッドの片側に置かれている事から、そちらが同室者の個人空間なのだろう。対して自分の方には、当然のことながら荷物は一切なし。ダメ元で開いたクローゼットには、寮服なのだろうと思われる上下セットの服が一着、ポツンとハンガーにかけられていた。深めのVネックのタンクトップシャツに、同じく袖のないジャケット、下はグレーブラックの特に装飾もないシンプルなスラックス、そして腰元の黄色地に黒のライオンのロゴが入ったスカーフ。個人的に袖が全くない事がマイナスポイントなので、寮服というのはどこまでカスタマイズが赦されるものなのか。とりあえず着替えろという指示があったので、大人しく分厚く重たいローブを脱ぎ捨てて用意された寮服へと袖を通す。

 「ん?お前が同室者か…見たところ、獣人じゃねぇみたいだな。」
 「…どうも。」

 スカーフを腰元で結んでいるところでドアが開き、灰白色の大きな耳に、ふさふさの尻尾を生やしたこれまた美丈夫が入室してきた。どうやら彼が同室者らしい。軽い挨拶と自己紹介で、彼がジャック・ハウルという名の狼の獣人であることを知る。狼。言われてみればその耳や尻尾はイヌ科の特徴があるかもしれない。そして彼の話だと、このサバナクロー寮は、代々獣人族が多く所属する傾向にあるらしい。だから純人間である私に、一瞬意外な顔をしたのか、と納得。
 それより、随分と荷物が少なくねぇか、と小首を傾げるハウルくんに、現地調達予定だったから、と当たり障りのない言葉を返す。荷解きをするハウルくんは、私服を始め様々な私物を持ってきているが、こちらは文字通り私物ゼロ。一縷の望みをかけてローブのポケットを漁ったが、当然ながら財布は入っていなかった。つまり無一文。現地調達も何も無い。
 そも、ここに所属されたからと言って、この学園に通うつもりも、今更学生時代を送るつもりもないので、早急に最高責任者を問い詰めて自宅までの交通費を賠償金として出させるとしよう。先に行っている、と尤もらしい言葉を吐いて、おう、と頷いたハウルくんを置いて部屋を後にする。談話室にはチラホラと人が集まり始めていたが、各々自由に過ごし、上級生と思われる者達は何かの準備に集中しているようなので、堂々と通り抜けたところで声をかけて来る者は居なかった。
 どういう原理でそうなるのかは理解不能であるが、向こうからこちらに潜って来る事が出来たという事は、こちらから向こうへ潜ることも可能だろう、と来た道を戻るように姿見を潜れば案の定、七つの姿見が並ぶ部屋へと出ることが出来た。七つのうちの一つがサバナクロー寮に通じているとなれば、残る六つも各寮に続いているのだろう。ならば最高責任者は、あの大鏡があった部屋がある建物のどこかにいるはず。そう予想を立てて恐らくこの学園の本校舎であろう建物へと足早に進んだ。