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 サバナクロー寮にこれ以上この鏡を置いておくのは良くない、と判断した教員三名により、件の鏡は闇の鏡が座す、鏡の間の一角に移動される事になった。あそこならば、そもそも学生の室内への入室に教員一名上の立ち合いが必要となるため、おいそれと盗難やら破損やらにならないだろう、という判断である。逆に言えば、ある程度慎重に保管せねば、盗難されたり、破壊されたりする危険性があるという事。相変わらず治安が最底辺に近い悪い学園である。
 あれからポツポツと、暇を見つけてはユウちゃんと共に例の鏡へと赴いている。ユウちゃんはご両親とも話が出来て、状況の共有も出来たようで、今まで以上に憑き物が取れたような溌剌とした様子を見せていた。そういう事異世界迷子に理解のある家庭とは言え、全く連絡が取れない状況というのは、少なからずまだ十六歳の彼女の精神負担になっていた証だ。
 私も私で、スモーカーさんを中心に文通を続けている。彼の性格上、誰かに吹聴する事は無いと思っていたが、まさか同じ境遇と言っても差支えの無いたしぎちゃんにまで伝えていなかったとは思わず、ずっと心配していた、スモーカーさんを問いただして漸くこの手紙を知った、と涙を滲ませながら書いたのだろう、雫の跡がポツポツと残る手紙を寄越された時は、流石にこの上司ちょっといかんのでは?と思ったし、三日ほど彼からの交流をシカトしてやった。余程堪えたようで、今ではたしぎちゃんと情報共有を欠かしていないらしい。

 『そう言えば私の扱いってどうなっていますか。』
 『元帥は退役扱いにするよう言っていたが、下の奴らが何人か嘆願書を出した事で、籍はそのままある。』
 『意外です。嘆願書とか出してくれる人いるんですね。』
 『テメェはいい加減、周りからの認識を自覚しろ。』

 実力主義で、所属の隊で行動する事が常の海軍に置いて、横の繋がりは希薄気味である。隊の中での結束はあっても、他所の所属部署ともなれば顔も名前も知らないなんてザラにあるのだ。そんな環境かだから、私に対しての嘆願書が提出された事に、純粋な驚きを見せただけだというのに、明らかに呆れを滲ませたのだろう言葉が返ってきた。
 ほんの興味心で、嘆願書の署名者は誰が居たのか伺ったところ、直属の上司であるスモーカーさんを筆頭に、たしぎちゃん、ヒナさん、そして何故かモモンガ中将とツル中将、ガープ中将に、全く理解不能だが、黄猿大将や藤虎大将、センゴク大目付役の名もあると聞いて、白目を剝きかけた。ヒナさんまでは、まあスモーカーさんを通じて何度か交流もあったから、理解出来るが、何故中将三名と大将二名、大目付役も署名しているんだ。殆ど交流無いじゃん?という私の疑問には、また呆れ切った事が丸わかりの、自覚しろ馬鹿野郎、というお返事だけだった。

 「りっちゃん海軍からめっちゃ愛されてる!愛されてるっていうか、重宝されてる?」
 「訳が分からない…古参の黄猿大将は何度か挨拶した事はあるけど、藤虎大将に至っては、片手で十分足りる程の挨拶しかないのに何故…?」
 「単純にお前の実力を買ってくれているって事じゃねぇのか?」
 「あと何か知らないけど、藤虎大将が私にって大福差し入れしてくれたから、みんなにシェアハピするね…?」
 「愛されてんじゃん!」

 お腹を抱えてキャラキャラと笑うユウちゃんに、此方としては訳が分からない一心なので、此処はもうお決まりのスルースキルで乗り切ろうと割り切った。深く考えたら絶対良い事が無い。余談だがシェアハピした豆大福は、藤虎大将お気入りの老舗和菓子店のロングベストセラーというだけあり、滅茶苦茶に美味しかった。マブ達も目を輝かせていたので概ね満足であるが、また何処からともなく嗅ぎ付けた自称普通の男に一個略奪された事で、同じくどこからともなく嗅ぎ付けてきた我等が王様が怒り狂い、あわや食堂が大爆発し兼ねない騒ぎとなった。


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 何の前触れもなく、忽然と姿を消した気に入りの部下が、また何の前触れもなく突然その存在を見せた。
 和ノ国出身の同期に、久し振りに帰省した際、婆さんに持っていけと言われたからやる、と半ば押し付けられた古い鏡。そんなモン使わねぇぞ、と一度は断ったが、良いから持っておけ、と押し切られて、何となく捨てる気にもなれず執務室に放置していたそれが、突然光り出したのは数週間前のこと。
 何が起こっても対応出来るように警戒しつつ鏡を確認すれば、薄っすらと見えた後姿にそれまでの懐疑心だの警戒心だのはぶっ飛んでいた。後先考えず鏡の中に触れれば、柔い粘土のようにズブズブと埋まっていく自身の両腕を見送りつつ、スモーカーは差し迫った敵の拳を難なく受け止めた。獣の耳を生やした、一見してミンク族の様にもみえる男の顔が、一気に蒼白になるのを見遣りながら、確かに感じた覚えのある温もりに、不覚にも涙腺が僅かばかり弛みそうになった。

 『…スモーカーさん?』
 「—————リツ。」

 微かに聞こえたような気がする耳馴染みの良い声。嗚呼、嗚呼。何処に行っていやがった。俺に何の報告も無く、誰にも何も告げず、まるでその存在自体が初めから無かったかの様に忽然と。言いたい事は山程あったが、白猟と呼ばれた大男は、何も言えずただ暫くの間、懐かしいその温もりを確かめるように、鏡の先にいるのだろうを掻き抱いた。

 —————今度こそ、首輪でも着けるか。

 薄っすらと笑みを浮かべるその眼は、ほの昏い。此処に古い付き合いのある女部下がいれば、遠い眼をしながら黙って鏡の向こうの彼へ敬礼していただろうし、最近部下になった荒くれ者の男達は生まれたての小鹿の様に身を震わせながら互いに寄り合って縮こまっていただろう。
 スモーカにとって彼/span>は特別だった。大佐として、管轄の責任者として赴任された東の海イースト・ブルーで出逢ったそいつは、ただの一兵卒だった。とてもじゃないがただの一兵卒では済まされない実力をその身に宿しながら、それでもただの一兵卒だったのだ。地域住民と朗らかに世間話を楽しみ、時折はっちゃけるゴロツキに灸を据え、偶に紛れ込んでくる海賊を迅速に捕縛する姿は、他の一兵卒とそう変わらない。しかし、本当に時折見せる、強者足らしめるオーラを確かにスモーカーは感じ取っていた。それが覇気であると気付いたのは、定期報告会の為に本部へと帰還した時のこと。擦れ違った大将から発せられるその覇気を感じ取った瞬間、スモーカーは納得したのだ。ああ、これと同じだ、と。
 それからは早かった。何かと理由を付けて離れようとするの首根っこを掴んで常に傍に置き、とある海賊団を追って偉大なる航路グランド・ライン入りを決意した際、他の一兵卒に交じって残ろうとするソイツの首根っこをまた掴み、自身が昇格した後に、また何かと理由を付けて距離を置こうとするソイツの事も、問答無用で昇格させ、またG5支部へと転属を決意した時も、海軍本部マリンフォードに残ろうとするソイツを担ぎ上げて移送船へと放り込んだ。
 その頃には中佐の地位まで伸し上げたが、本来の彼《・》の実力であれば、自身と同じく中将、下手をすれば大将級であろうことは察していた。しかしあまりに昇格し過ぎれば、ソイツ自身が部下を持ち隊を持ち、自身の傍に置いておけなくなると考えたスモーカーは、現状満足のいく結果に口許を歪めていた、というのに。
 そんなある日に突然の失踪。前日まで行動を共にしていた女部下に事情を聴いても、特に怪しむ点も気になる点も浮上せず。管理人に尤もらしい理由をこじ付けて入った自室も、実に簡素で気になる点は見つからなかった。しかし待てど暮らせど一向に出勤して来ない。

 —————仕事がきつくて逃げ出したんじゃねぇのか。
 —————そういや、何かにつけて元の管轄部署に戻りてぇって言っていたもんな。
 —————腑抜けてやがるぜ。

 純粋に心配をする者が殆どであったが、極一部、彼の本来の実力に気付けない馬鹿共がそんな風に後ろ指を立てて笑っている事を知ったスモーカーの心境は、とてもじゃないが穏やかとは言い難かった。
 誰とも知らない輩が、自身の無能さをひけらかすその態度に興味の欠片も無い。だが、まるでそれが事実であるかのように、いない者に対して周囲に吹聴して回り始めるのは頂けなかった。自身の気に入りを、同僚や上司からは子飼いと呼称される程度には、気に入りだと認識されているを、ありもしない噂で揶揄して回る事は、度し難いものだった。

 「スモーカーくん。とうとう元帥の耳にも報告が入ったらしいわ。このままだとあの子、除隊扱いにされると思う。」
 「ア?」
 「ヒナを睨んでも意味が無いでしょ。ハイこれ。あの子の除隊を取り下げる嘆願書。心配しなくてもあの子の実力と有能性、人柄を評価する上層部は多いわよ。」

 同僚から差し出された一枚の書類に目を落としたスモーカーは、ハッと鼻で笑うのと同時に、メラリと形容し難い激情に襲われた。敢えて名をつけるならば、独占欲、執着心、といった類であろうその焔は、書類に連なる面々に対してか、それとも行方知らずとなった子飼いへ向けてか。
 このまま見つからない方が、あの子の為に良いとは思うけど。ヒナもまだ失いたくないから、諦めて頂戴ね。ポツリと同僚がそんな呟きを溢していた事には、生憎嘆願書の代表欄に署名していたスモーカーが気付く事は無かった。

 —————何時の間にこんなにも大物連中ばかり手懐けたんだか。

 自身もその一人である事は棚に上げながら、スモーカーはその名を関した煙をプカリと一息吐き出した。大将二名に大目付役が署名したともなれば、幾らの元帥も無視できまい。彼の予想は見事、煩わしそうに顔を顰めつつも、承認の判を元帥が押印した事で的中となった。


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 以前、お世話になった事がありやしてね。そう笑いながら豆大福を袋に詰める盲目の男は、かの頂上決戦を経て新大将となった藤虎である。大将に昇格した事で海軍本部マリンフォードに訪れた際、周囲はみなスルーしていく中で、盲目の彼を介助するように声を掛けた者がいたという。それが、一時嘆願書騒ぎとなったとある中佐であると知り、恩師であるガープと共にお茶のお供をしていたコビーは、へえ、と感嘆した。

 「非番でしたし、街を見て回ろうと私服だった事もあり、最初はあっしだと気付かれなかったようでしてね。盲人の一般市民を介助する感覚だったんでしょう。せっかくなんでお勧めの和菓子屋を伺ったところ、この老舗の店を紹介して下さって。」
 「元はワシがあ奴に教えてやったんじゃ。」
 「あれ、そうでやしたか。まあそこで頂いた豆大福が美味くて、美味くて。今じゃすっかりあっしも気に入りの店です。」

 紙袋いっぱいに詰められた豆大福の袋を小脇に抱え、大将藤虎は、どっこいせ、と腰を上げる。行く先は現在、一時的に|海軍本部《マリンフォード》へと帰還しているG5支部の支部長———白猟スモーカーの執務室である。しかし用があるのは彼ではない。彼の執務室に置かれている、古めかしい鏡だ。
 歩を進める藤虎に連れられ、自然と連れそう形となったガープは、勝手知ったるような馴れ馴れしさで、相変わらず葉巻で煙たい執務室をノックをする事も無く勢いよく開ける。中にいたたしぎ大佐が、わあっ、と驚きから書類をぶちまけてしまったが、彼女のドジっ子は今に始まった事ではない。しかし下っ端でお人好しのコビーは、慌てて大丈夫ですか、と書類集めに回った。

 「…ノックってモンを知らねぇのか。」
 「堅苦しい事を言うな。ホレ、大福食うか?」
 「要らん。」
 「煎餅の方が良かったか?」
 「どっちも要らねぇ!」

 不機嫌な態度を崩す事も無く、執務机に立てた片腕に額を押し当てる体制で書類整理を行うスモーカーへ、気にした様子も無く大福から煎餅に切り替えたガープは、バリバリと咀嚼をしながら、つまらん男じゃわい、とぼやいた。そんな中将二名を他所に、大将藤虎は執務室脇の棚に掛けられている円形の鏡へと手を伸ばす。
 此奴は、どうやったらあの人の下へと繋がるんですかい?スモーカーへと投げ掛けた質問であったが、答える気がないのだろう。聞こえない振りを通す男に、部下のたしぎが慌てて、あと数分もすれば定例時刻なので繋がると思います、と代弁した。異世界とやらに飛ばされてしまったらしいとある程度の連絡が取れるようになってからは、入れ違いにならないよう定例時刻を設けたとは、噂で聞いていたが、まさかその時刻に合わせて態々執務室に籠るとは、と若かりし頃からスモーカーという男を知るガープは愉しそうに顎を擦る。案外律儀で忠犬染みた事をやりおる、と。
 たしぎのいう通り、左程待つ事無く、突然壁に掛けられた鏡が光り出す。突然の変化にコビーは、うわ、と驚きを露にするが、光が分からない藤虎は、おや、時間ですかい、とのんびりとその鏡へと向き直った。

 「、おい…」
 「ん〜…此処に手を入れれば良いんですかい?どれ。」

 スモーカーよりも早く鏡の中へと突っ込んだ藤虎の腕が、見る見る呑み込まれていく光景に、コビーはまたもや驚きの声と同時に心配の声も上げたが、藤虎は臆することなく肩近くまでズブリと呑み込ませた。柔い粘土に両腕を突っ込む感触だと、取り留めも無い感想を抱きながら、不意に触れた温もりに、じんわりと己のもう見えない瞳の奥が滲んだ心地がした。
 豆大福の詰まった紙袋と一緒に突っ込んだ腕に触れる、覚えのある温もり。それはあの日、お手伝いしましょうか、と優しく腕を擦って呼びかけてくれた時と同じ温度。同じ感触。嗚呼、確かにアンタは其処に、其処にいらっしゃるんですねい。

 「豆大福、良かったら召し上がってくだせぇ。」
 「声は届かないんです…」
 「おんや、そうでしたかい。…ん?何か、握らせてくれやしたね。」
 「声が届かない代わりに文通を。何時も送って下さるんですよ。」

 たしぎから説明を受けて、一旦腕を引けば、カサリと指先に触れる確かな紙の感触。しかし盲人である自分には読めない、と藤虎が眉根を下げたところで、たしぎが、失礼します、と代わりに読み上げる。突然の藤虎大将で驚きましたが、豆大福ご馳走様です。短い一言であったが、藤虎はその一言で、今は十分満たされる心地だった。
 喜んで頂けたなら、何よりでごぜぇやす。優しく頬を弛める藤虎に釣られるように、たしぎも、そうですね、と朗らかな笑みを浮かべるのだった。