お言葉に甘えて全部許して

 とにかく、何もかもが嫌だった。昔ながらの慣習をそのまま惰性的に継続する実家も、親戚も、それを見て見ぬふりで通すこの地域一帯も全部。だから飛び出した。それだけ。
 あちこちを旅してまわり、ようやく腰を落ち着かせたのは、タマムシシティに聳え立つ集合住宅の一角。女の一人暮らしということで、セキュリティ面に力を入れているワンルーム賃貸は、少々手狭ではあるがそれなりに気に入っていた。今日もいつも通り、在宅ワークを終えて買い物に出かけた。食材を中心に消耗品のストックなんかも補充した帰り、すっかり見慣れた建物のエントランスに設置されている集合ポストを開ければ、必要のないDMに混じり、見たくも無い差出人名が書かれていた封筒が一通。
 その場で破り捨てたくなる衝動を何とか堪え、肩に食い込むバッグを背負い直して早々にエントランスを潜る。エレベーターで3階まで上がった一番奥の部屋。そこがもう数年前から私だけの城である。手早く開錠し、室内へと身を滑らせれば、良い子でお留守番をしていてくれていたミニリュウとキバゴがお出迎えしてくれた。
 ただいま、と二匹の頭をそれぞれ撫でて、重たいバッグをテーブルへと置き、DMはざっと目を通してそのままゴミ箱へ。封筒もゴミ箱行きにしたかったが、確認しなかったらしなかったで後々面倒な事になるのも嫌だったので、致し方なく雑に封を切って中を確認する。どうせ碌な事なんて書いていないだろうけど、という予想は見事に当たっていた。

 「りゅ、?」
 「…ああ、大丈夫だよ。」

 明らかに気分が低下したことを察したらしいミニリュウが、どうした?と言わんばかりに顔を覗き込んでくる。慰めてくれているようなその様子に、再度彼の頭を撫でつつ、予想通りの文面に堪え切れなかった溜息が零れ落ちた。
 昔から、実家が大嫌いだった。特にこのご時世で未だ家父長制を徹底し、女は世継ぎを生むくらいにしか価値が無いと平気で思っている男衆が嫌悪の象徴だった。代々その考えを受け継いだ父も、そんな父と母の関係を幼い頃から見ていた弟も。二人だけでなく親族の男衆はみんな大嫌いだ。反吐が出そうなくらいに。
 そうしてこの手紙の差出人は、母親。いい加減実家に戻り、両親が決めた相手と見合いをし、結婚をし、世継ぎを産め。要約すればこんな感じの内容。何で私の人生を両親に決められなければならないのか。あった事も無い、十五も年上のおっさんと結婚しなければならないのか。そんなこと、今更尋ねるまでもなく判り切っている。すべては、一族の繁栄のため。見合い相手の十五年上の男も、あの街ではそれなりの名家で知られている御曹司だ。早くに結婚したが、確かダブル不倫かなんかで破局したとか何とか。そんな噂が一時期立っていた気がする。
 そんなクソ男との結婚を両親が是が非でも進めたいのは、偏に男の家の財力と血筋を狙ってのこと。財産と世継ぎさえ手にしてしまえば、そこに愛情だの、ましてや私の感情などどうだっていいのだ。だってあの家からしたら、私は子を産むしか価値のない存在だから。
 これ以上精神的に宜しくない文面を見ていたくなくて、早々にゴミ箱へとびりびりに破り捨てた。とうとうこの家も両親にバレてしまった。手紙をシカトすれば、次は両親や弟を始め、親族が挙って押しかけてくる事になるだろう。そうなる前に、早々に荷物を纏めて新たな居住場所を探さねば。これで4回目。両親を始めとしたあの一族に居場所がバレる度に、また新たな場所へと身を隠すように逃げている。

 「結構気に入っていたんだけどな…。」
 「りゅーりゅ、」
 「ごめんね。君たちにも環境の変化は負担が大きいのに。」
 「うりゅ!」
 「…うん、ありがとう。」

 まるで気にするな、と言わんばかりに頭を摺り寄せてくるミニリュウをそっと抱きしめて、まずは空腹を訴えてくるお腹を満たすために夕飯にしようと、買ってきたばかりの食材を仕分ける事にした。


*****


 ポケモンセンターで宿泊するようになって早数日。そろそろ新たな家を見つけなければ、と思うが、中々条件に見合う部屋が見つからないでいた。
 あれから、早々に荷物を纏め、ほぼ夜逃げ同然にタマムシシティを飛び出した。更新前で退去費は財布に痛かったが、それよりも実家連中に見つかる方が余程辛い。天秤にかけるまでもなく、不動産屋へお金を払ってカイリューの背に飛び乗ったのだ。現在、トキワシティのポケモンセンターへと仮宿として身を置いている。こういう時、トレーナーカードを持っていて良かったなと思う。トレーナーであれば、基本的にポケモンセンターは無料で宿泊する事が可能だから。
 タマムシシティに滞在し続ければ、迎えに来た実家連中とばったり落ち合ってしまうかもしれない。そんな不安から離れたトキワシティにやって来たわけだが、都会と呼べるタマムシシティに比べ、此処は随分と時の流れがゆったりするように感じた。
 幸い、現在の職はリモートワークがメインのため、ネット環境さえ整っていればどこだって仕事は出来る。安月給ではあるが、いつこうしてまた別の場所へと移動するやもしれない立場からすると、代えがたい貴重な仕事なのだ。

 「あれ、リツ姉?」
 「、びっくりした…グリーンくんか。」
 「何でここに?」
 「あー…引っ越してきた、というか。」

 背後からかけられた声に肩が震えたが、その声が聞き馴染みのあるもので、跳ね上がった心臓を宥めつつ振り返れば、案の定レジェンドと名高いグリーンくんの姿。そう言えば、彼はこのトキワシティのジムリーダーに就任したんだった。
 以前までタマムシシティに居を構えていたことを知っている彼は、突然の引っ越し発言に驚いたように眼を丸くさせていたが、少なからず私と実家の軋轢を知っているので、そちら関連が原因なのだろうと察してくれたらしく、そっか、と深く掘り下げる事はしないでいてくれた。こういう気遣いが出来るところが、この子の良いところだと思う。

 「もう部屋は決まったのか?」
 「それがまだ。早いところ見つけないとなんだけどね。」
 「ふうん…。もし見つからねぇなら、ウチに来るか?」
 「いや、それは流石に申し訳ないが過ぎるから遠慮しておくよ。」

 姉ちゃんなら別に良いのに、と笑うグリーンくんの言葉に嘘は無いのだろう。恐らく、私が本当にお願いをすれば、優しい子だから快く家へと招いてくれることだろう。でもそれは避けたい。彼が嫌だとかそんな理由ではなく、単純に本当に申し訳ないから。私の———言ってしまえば他人の家のいざこざに巻き込んでしまうのは、とても忍びない。というか、私が耐えられない。自責でどうにかなってしまう。
 無理はすんなよ、とどちらが年上だか分からない、労りの言葉にお礼を伝えてから、グリーンくんとはそのまま別れる。彼にこれ以上心配を掛けないためにも、早いところ腰を落ち着かせねば。


******


 嫌な事というのは、立て続けに起こるもので。部屋が見つかるよりも前に、とうとう両親に職場がバレた。幸い、リモートワークがメインのため会社でぶつかる事は無かったが、それでもかなりの剣幕で押しかけたらしい両親の対応をしてくれた上司が、随分と引き攣った声で事の次第を教えてくれた。そうして遠回しの契約打ち切りを仄めかす空気も出されてしまった。
 こんなことは言いたくないけれど。そう枕詞に置いた上司の言い分も分かる。個人情報の取り扱いには会社としても十分に注意を払わなければならないのに、身内という免罪符を掲げて脅迫紛いの圧力を両親からかけられたというのだから。そりゃそんな面倒な問題を抱えた派遣社員など、さっさと切り捨ててしまいたいに違いない。私が上司の立場だった同じことを考える。
 今抱えている仕事については、キリの良いところで引継ぎするように依頼してきた上司に再度謝罪を述べてから通話を切る。これで職も失った。本当に何でこんな目に合わなければならないのだろう。どうして私はいつも、こうしてあの一族から搾取されてばかりなのだろう。嫌な事が立て続いたことで、大分メンタルがやられたらしい。心配そうに様子を伺うキバゴたちにすら、笑みを返してやることが出来なかった。

 「どうして、わたしばかり…。」

 人生はなんて、不公平なのだろう。


******


 トキワシティのジムリーダーとして腰を落ち着かせた、弟分のように可愛がっている男から連絡を受けて、ワタルは昂りそうになる感情を必死に抑えつけた。
 知り合いの女性が最近トキワシティに引っ越してきたこと。ちょっと実家関係で事情持ちだから、見かけたら気にかけてやって欲しいこと。そんな事を世間話のついでに頼んできたグリーンに、最初こそ特に気にすることもなく肯定の意味で頷いたが、ふと年下の彼がここまで気に掛ける女性という存在が気になり、一緒に話を聞いていたカリンの言葉もあってどういう人なのか訊ねた事が、ワタルの運命を変える事になった。

 「その人も、ワタルさんと一緒でフスベの出身らしいんだけどさ。実家との関係が上手くいっていないみたいで、結構昔に家を飛びして以来、それきりなんだって。」
 「、」
 「あら。じゃあアンタとも顔見知りなんじゃないの?」
 「…どうだろうな。彼女の名前は?」
 「リツ。歳は———多分、ワタルさんとそう変わらないと思う。」

 リツ。その名を聞いた途端、心が奮えた。あれはもう二十年以上も前のこと。ドラゴン遣いを多く輩出する、フスベを代表する一族の跡取りとして、修行に明け暮れた幼少期。たまの休憩で抜け出した先に居た少女は、いつも暗い顔で相棒なのだろうミニリュウの背を撫でながら、ぼんやりと遠くを見つめていた。
 最初こそ、女性関係については、家やワタル自身の肩書目当ての自称許嫁ラッシュに辟易していた身であるため、ワタルから積極的に彼女へ近づく事はしなかった。しかし、彼が毎度休憩と称して街外れの野原へ繰り出す度に、彼女は同じところでぼんやりと遠くを見つめていたのだ。生気も感情も宿っていない、能面のような顔で、しかし相棒だろうミニリュウの背を撫でる手だけは、いっとうに優しさと愛情に溢れているように見えた。

 『いつもここにいるね。』
 『…ほかに、行くところ無いから。』

 何度も彼女のそんな姿を見ていたワタルは、段々と彼女へ興味が湧き始めている事を自覚していた。だからこそ、幾度目かの逢瀬の後、彼は静かに彼女の傍へと歩み寄り、声を掛けたのだ。返ってきた言葉は、その双眸と同じく何の感情も色も無い、淡々とした単語の羅列のようなものだったけれど、唯一、彼女の目許を柔く綻ばせるものがあった。それこそが、彼女がずっと撫で続けているミニリュウについて。
 ワタル自身もドラゴン遣いとして、既に何体かのドラゴンポケモンを所持している。相棒は父親のカイリューの卵から孵ったミニリュウ。今はもうハクリュウにまで進化したが。そんなワタルであるため、ドラゴンタイプと仲良く過ごしているリツに対しては、割かし最初からそこまで悪い印象は持っていなかったのだ。

 『その子、君の相棒かい?』
 『うん。大事な子。何よりも大切で、私にはこの子しかいないから。』

 彼女の言葉に応えるように、甘えた仕草で頬ずりするミニリュウは、本当に幸せそうだった。彼女のパートナーになれたことを心から喜んでいる。そんな風に見て取れた。それと同時、ワタルは彼女の言葉に引っかかりも覚えていた。この子しかいない、とはどういう意味か。そこでふと、彼女の名前さえ知らないままでいた事に気付いたワタルは、相手の名前を尋ねる場合は、まずは自分から名乗るべきだろうと、自己紹介を始めたのだ。
 そうして会話を少しずつ重ねていく内に、彼女の名前がリツであること、ワタルと同い年であること、フスベの中でも昔気質の一族の長女であることを知る。そこまで聞いて、年齢の割に成熟しているワタルの思考は、彼女の言葉の真意を悟った。この子ミニリュウしかいないという言葉に嘘は無いのだろう。彼女の実家は、代々家父長制で男尊女卑の考えが強く、女性の立場が著しく低い。跡取りとして望まれた最初の子が女であったため、両親を始め、親族から大分強く当たられたらしい。特に母親からの、何で男じゃなかったのかと責める言葉は、彼女自身に大きく傷を残したようだ。

 『…今時、男尊女卑なんて考え、流行らないよ。時代逆光も甚だしい。』
 『あの家に、そんな事は関係ないよ。女は子供を産むための道具。それだけ。』
 『…きみは、それでいいのかい。』
 『…、』

 ワタルの問いかけに、彼女が答える事は無かったが、視線を落として唇を噛み締める姿が、何よりも答えだった。良いわけがない。だが、まだ子供であるワタル自身も、彼女自身も、どうすることも出来ない。歯がゆい感情だけが、じわじわとワタルの中に蝕んでいった。
 それからというもの、ワタルは足繫くあの野原へと通った。何度も彼女と会話を重ね、時にはお互いの相棒同士ポケモンバトルだってした。女がポケモンバトル何てするもんじゃないと親からきつく言われていたリツは、最初こそ首を縦に振らなかったが、ワタルからのしつこいアピールにとうとう折れたのだ。何よりも彼女の相棒であるミニリュウが、ワタルのポケモンとバトルするときの、生き生きとした表情に抗えなかった。
 幼い頃からドラゴン遣いとして修業に励み、ポケモンとも切磋琢磨していたワタルに、リツがバトルで勝てる事など、それこそ片手も余裕で数えられてしまう程度ではあったが、いつしかリツにとっても、ワタルと過ごすひと時は充実したかけがえのないものになっていた。ワタルはリツを拒まない。馬鹿にしない、一方的に見下してくる事も無い。対等に、同じとして、向き合ってくれる。それは、数年経過して、旅に出る事が許される年齢になっても変わる事は無かった。

 『リツ。俺と一緒に行かないか?』
 『…何度も言ったでしょ。私はこの街から———あの家から出る事は許されないの。』
 『俺が直接頼んでみるよ。』
 『いいよ。私の所為で、ワタルやワタルのお家の印象を悪くしたくない。』
 『君の家も名家だけど、俺の家だって、このフスベから見たら名が知られている一族だよ。』

 中々折れないワタルに対し、リツは小さく苦笑を溢しながら、それでも頑なに首を縦に振る事は無かった。それだけ、彼女の根幹にあの家での恐怖や強迫観念が深く刻まれているのだと、察してしまったワタルは、またも歯痒さに噛み締める事となる。彼女を大事にしない家なんかよりも自分を優先して欲しい。自分と一緒に居れば、彼女にそんな恐怖も痛みも与えないのに。自分が、自分こそが。

 ————彼女の番として、相応しいのに。

 興味はいつしか恋慕へと変わり、執着へと色を移させている事を、ワタルはとうに自覚していた。リツが欲しい。自分の巣の中に大事に囲って、痛みも恐怖もすべて忘れさせて、己の腕の中で安寧を抱いて過ごしてほしい。そんな苛烈な劣情を、齢十にして既に抱いていたのだ。
 だから、もう攫ってしまおう。彼女が嫌がる理由は、頑なにワタルを受け入れない理由は、すべてあの実家があるから。だから何もかも自分が奪ってしまえば良い。そう結論付けたワタルは、いよいよ旅立ちとなる前日の夜、こっそりと彼女の家へと忍び込んだ。
 彼女と会話を重ねていく内に知った、彼女の家の見取り図を脳内で展開させながら、物音と気配を殺して慎重に廊下を進んでいく。山奥のド田舎に建つ昔ながらの家屋だ。たとえ夜であろうとも施錠をしっかりとする文化などありはしない。

 「…リツ?」

 彼女の自室であろうその部屋の襖を開いた先。眠っているだろうと思っていた目当ての彼女の姿は、しかしどこにもなかった。夜中だというのに綺麗に畳まれた布団の上。小さな紙切れがそっと置かれており、夜眼の利くワタルは、差し込む月明かりだけでも十分にその文字を読み取る事が出来た。

 ————さがさないでください。

 たった十文字のそれが、ワタルを絶望の底へ堕とすには十分だった。


******


 過去を振り返っている間に、随分と思考を沈ませてしまっていたらしく、グリーンに肩を揺すられたワタルは、ハッと意識を現実へと戻した。心配と怪訝が入り混じった視線に対し、何でもないと首を振る。グリーンの話では、今彼女はトキワシティのポケモンセンターに身を寄せているのだとか。ならば、ワタルの行動はただ一つ。

 ————今度こそ、逃がしはしないさ。

 うっそりと口許に浮かんだ笑みは、誰に気付かれる事はなかった。