愛してよ完膚なきまでに

 この度家無しから職なしにグレードアップした。グリーンくんに伝えたら、きっと問答無用で彼のお家にご厄介になる事になってしまうから、バレないように就活もしないと。色々な事が重なったストレスの所為か、最近不眠気味になってしまい、メイクする度にくっきりと浮き始めたクマを必死にコンシーラーで叩き込む。その度に可愛い手持ちたちからジトっとした視線を向けられることになるのだが、気付かないフリ。お利口さんな彼等は、私が無理をすることをいっとう嫌う。しかし今は、無理をしないといけない時期なのだ。そうしなければ、この子達を養っていく事さえも出来なくなってしまう。
 駆け出しなのだろう若いトレーナー達がトキワの森へと走っていく後姿を見送り、今日も今日とて私はハローワークへ。都心のタマムシシティに比べ、規模は小さいけれど贅沢は言っていられない。しかし次いつまた此処が奴等実家にバレるかもわからないから、出来たら勤務地は問わない在宅ワークが良い。その条件の所為で、中々次の就職先が見つからないのも事実なんだけど。
 せめて転勤ありの出勤や、住み込みでは駄目か、と尋ねてくるエージェントさんの顔は割と厳しい。在宅ワークオンリーにこだわっていては、職探しなんて出来るわけもねぇぞ、と言いたいのだろうが、今回職場がバレた経験から、住み込みも危うい事が判明してしまったのだ。

 「我儘は、重々承知しているんです。」
 「…引き続き此方も探してみますが、ご希望に完全にお応えできるわけでは無い事をご了承ください。」

 その後も何点かエージェントさんと話をして、ハローワークを後にする。条件がかなり厳しい以上、プロと言えど彼等に託してばかりではいられない。自分でも何とか求職情報を集めようと、フリーペーパーの求職欄を眺めていれば、フッと頭上に大きな影が差した気がして、顔を上げる。見慣れたオレンジ色の大きな身体と逞しい両翼。バサッと羽搏く音が聞こえ、その子はその体躯に見合わない速度で急降下していた。
 着地点が自分の直ぐ傍だと気付き、うっかり巻き込まれないためにも慌てて建物の蔭へと身を滑らせれば、ドシンと重量のある着地音と共に、周囲に僅かばかりの砂塵が舞う。このカントー地方に生息しているとはいえ、あまり人里などには姿を見せない筈のポケモン———カイリューを用心深く観察していれば、その大きな身体に隠れて見えなかった人影が姿を現した。

 「やあ。久しぶりだな。」
 「…、」
 「まさかとは思うが、俺を忘れた、とでも言うつもりかい?」
 「ワ、タル…。」

 思ってもみなかった人物の登場に、思考が数秒停止してしまったが、朗らかで爽やかな声音と表情とは対照的の、ダークグレーの双眸の鋭さに息を呑む。どうしてか、なんて聞くまでも無い。きっと彼は、今でもあの時の事を根に持っているのだ。そういう性格だと分かっているから、彼が世界的にも名が知られるほどの有名人になってからも、一度も連絡やアポイントメントを取ろうとは思わなかった。それなのに。
 どうしてここに、という問いかけは、まるで水分を失ってしまったかのようにカラカラに掠れてしまったけれど、きちんと聞き取ったらしい彼は、偶然知り合いに聞いたんだ、とあっけらかんとした様子で返してきた。そこで思い至る共通の知人と言えば一人。レジェンドと名高いグリーンくんだ。

 「此処に来るまでの、君の来歴はざっと調べさせてもらったよ。」
 「は、そんなの、」
 「俺は、それが出来る立場であるからな。」
 「…、」

 職権乱用も甚だしいじゃないか、というツッコミは、今の彼の前では愚問なのだろう。最近引っ越ししてきた———正確には逃げてきた、事は知り合いからも聞いたが、まさか職も失っていたとは思わなかった、と此方の事を一切気にせず話を進めるワタルに、言葉を詰まらせる。まあ、このカントー地方のチャンピオンにして、セキエイリーグの最高責任者である彼からすれば、一市民の個人情報を辿る事など容易い事なのだろうけれど。だからと言って、プライバシーに関わるところまで、土足で踏み込んでくるのは如何なものなのか。
 ちょうど、働き手を探していたところなんだ。いったいどんな脅しでもかけてくるのかと身構えていたが、更に続けられた彼の言葉に毒気を抜かれる。聞き間違いでなければ、働き手を探していると、そう聞こえたが。

 「求人出せば、ケンタロスの群れよりも早く集ってきそうだけれど。」
 「誰でも良い訳じゃない。リーグで働くという事は、それなりの能力も求められる。」
 「…私には、その能力があるとでも?」
 「ああ。今も君のホルダーに、カイリューを始め、多くのドラゴンタイプが居る事が、何よりも証拠だ。」

 リーグ職員として求められる能力。それはポケモンに対してタイプ問わず接する事ができ、かつ高レベルのポケモンであっても制御できるだけのトレーナーとしての素質があること。提示された就職条件に、そんなまさか、と耳を疑う。そんな限られた門では、それこそあの大きな組織を維持する事なんて不可能じゃないか。私のそんな疑問を読み取ったのだろう、ワタルは、勿論全員がそういう訳ではないけれどね、と肩を竦めた。
 人手不足なのは、その限られた門に身を置く部署だよ。当然、限られた門であるから分母数に対し該当する人間は少ない。そしてそういった優れた人材を欲しがるのは、何もリーグだけでは無いのだ。ポケモンレンジャーしかり、医療従事者や政治、研究者など、そういったエッセンシャルワーカーからも需要が高い。

 「だからこそ、能力のある人材は見過ごせないし、それが俺の知り合いともなれば、絶対に逃せないから、こうして直々に交渉に来た次第ってわけさ。」
 「…理由は、理解出来た。けど、」
 「君の事情は理解している。だからこそ考えてみてくれ。リーグ本部あそこなら、そもそも並みの人間では辿り着く事も出来ないし、機密情報も多く扱う事からセキュリティも万全だ。むしろ、今の君にはうってつけの職場だと思うぞ。」
 「…。」

 正直な話、めちゃくちゃ心が揺すぶられている。彼との過去の悔恨を持ってしても、有り余る好条件なのだ。一例で提示された給料は前職の三倍近いし、ワタルの口から謂われた通り、実家奴等への対策もバッチリなのだ。職員専用寮に住めば、自宅がバレる心配もないぞ、という追加攻撃に、とうとう天秤が傾いた。
 ぜひとも、前向きに検討させていただきたく存じます。両手で覆った口から零れ落ちた言葉に、ずっと笑っていなかった彼の眼の奥が、ゆるりと弧を描いたような気がした。


******


 それからは早かった。善は急げと言わんばかりに、了承したその場で回れ右をしてハローワークには職が決まったと報告させられたし(後ろに控えるチャンピオンワタルの姿にエージェントさんは文字通りひっくり返っていた)、ポケモンセンターに一時的に置かせてもらっていた荷物は、ワタルが手配したリーグ専属の業者の手で、新しい住まいへと移されていった。
 そうして私もカイリューの背に乗って———は、何故か許されず、彼のカイリューの背に、彼と共にライドさせられることになって、現在トキワシティからセキエイリーグへと短い空の旅の真っ只中である。

 「どうしてぇ…?」
 「はは。慣れない空路は危ないだろう?この辺はシロガネ山にも近いからな。気候や風向きも安定しないんだ。」
 「カイリューがめちゃくちゃ怒ってる…何ならリザードンも怒ってる…。」
 「後でちゃんとお詫びはするさ。」

 自分の背中に乗ってくれなかったことに対しての抗議なのか、先程からガタガタと揺れるボールを宥めつつ、グッと腰に回った逞しい腕には必死に意識を背ける。ライドするにしても、普通彼が前で私が後ろなのでは??何故彼の前に座って後ろから抱きかかえられているの??なんでぇ??
 これ以上考えたら、要らん深淵を覗きかねないと判断し、そっと眼を閉じて思考からおさらばした。そんな事よりもこれからの生活について考えよう。もう若者とは呼べない年の頃になりつつあるけれど、恐らく膨大そうな業務を全部覚えられるだろうか。

 「…ざっくりで良いんだけれど、私の業務ってどんな感じになるの?」
 「まあ、色々あるが、メインは事務処理だな。それからリーグ内のポケモンのケアや、保護したポケモン達のケアなんかも、状況に応じて頼むことになるかもしれない。」
 「なるほど。あとずっというべきか迷っていたんだけれど。」
 「ん?」
 「なんか、 リーグから逸れて行っていない?」
 「…はは。」

 セキエイリーグがあるセキエイロードが先程眼下に見えたはずなのに、何故かその道沿いではない山の上を飛行し始めているカイリューに、嫌な汗が流れ始める。このまま飛行を続ければ、辿り着く先はフスベシティ。
 もしかして彼は、リーグの求人を詐称して、実家へと連行するつもりだったのだろうか。考えついた嫌な予想に、ヒュッと息が詰まる。もしこの予想が正しかったら、私は間違いなく当初から打診されていた見合い相手と強制的に結婚させられることになる。もう二度と、何処へも行けない。地獄が、待っているのだ。
 そんなところへ連れていかれるくらいならば、いっそ死んでしまった方がマシだ。腰に回った腕を振りほどくように暴れて、ホルダーに収まっているボールを取り出そうと手を伸ばした———が、その前に大きな手に掴まれて妨害される。拘束も解けず、何とか逃げ出そうと身を捩るも、男女差による力だけではない、鍛えぬいた者とそうでない者の力量差など比べるまでもなく。ビクともしない彼の身体に、堪え切れなかった涙が、強い向かい風に流されていった。

 「危ないから暴れるなっ、」
 「離して…っ!嘘つき!」
 「落ち着け。何か勘違いしているだろう!?」
 「だってこっちはセキエイリーグじゃないでしょう!?このまま進んだら…っ、」
 「大丈夫だから。信じてくれ。」

 先程までよりもずっと強く、まるで逃がさないと言わんばかりに抱きしめられ、振りほどけない腕に、ただ嗚咽を溢す。終わったんだ。私の人生は、自由は、安寧は。この瞬間に終わったんだと、目の前が真っ暗になった。


******


 突然強い抵抗を見せたかと思えば、力を失ったように崩れ落ちるリツを落とさぬよう、しっかりと抱きかかえたワタルは、ようやく見えた顔に言葉を失った。蒼白の顔で涙を流して気を失う姿は、絶望の色を見せている。崩れ落ちる直前、彼女が絶え絶えに呟いた言葉を思い出し、ワタルは彼女が盛大な勘違いをしている事を察した。
 セキエイリーグから逸れたルートを飛行している事は事実。しかし、その行先は、彼女が予想して必死に抵抗した場所彼女の実家ではない。寧ろ、これからは彼女にとっても安寧の地となる———そうあるべき場所であった。
 心配そうに声を上げるカイリューを宥めつつ、ワタルは速度を上げて目的の場所へと急ぐ。このまま彼女が絶望の底へと堕ちてしまう前に、早く。早く。彼等にとって安らぎのへと。

 「カイリュー、悪かったな。急いでくれてありがとう。」
 「リュー…。」
 「大丈夫だ。」

 未だ眼を覚まさないリツへと、心配そうに、甘えるように擦り寄るカイリューの背を撫で、ワタルは足早に辿り着いた個人所有の邸宅の中へと入る。カントーリーグチャンピオンとして、またセキエイリーグの最高責任者として君臨した際、山一つまるまる買い取って創り上げた彼だけの。幼い頃からずっと決めていた。自分の巣を創った時、必ず彼女をその巣へと迎える事を。大事に囲って、彼女の安寧を護り抜くのだと。
 寝室のベッドへと彼女を寝かせ、涙の跡が残るそこをそっと撫ぜる。長かった。彼女が忽然と姿を消したあの日から、数十年。ようやく、己の巣へと彼女を迎える事が出来た。その事実に、竜王と呼称された男は、恍惚の笑みを口許に浮かべる。

 「———おかえり。俺の唯一の番リツ。」

 そっと瞼に唇を落とし、起こさぬよう慎重にワタルは彼女の隣へと横になった。まるでドラゴンが大切に宝を護るように。


******


 白い光に意識が浮上する。寝起きでぼやける視界の端で、ふわりと白いカーテンが揺れた気がした。段々と意識が覚醒していき、自分が今、ベッドの上で横になっている事に気付く。しかし、ダークグレーのシーツも、視界の端の白いカーテンにも見覚えが無い。此処は何処なのだろうか。
 状況を把握しようと身を起こそうとしたのに、全く動かない身体にまた疑問が生じる。長い時間その体勢であったためか、少し痛む身体に反し、ずっしりとした重量のある温もりに包まれているせいで身動きは取れない。布団の重みとは違う、質量のあるそれを視線で辿れば、最後の記憶と同じ腕だった。つまり、この腕の持ち主は。

 「…っ!」

 そこでハッと意識が完全に覚醒し、重たい腕を跳ねのけるように飛び起きる。先程まで全く動かなかったのが嘘みたいに。慌てて室内を確認するが、想像していた和室ではない、まだ新築に近い真新しさのある洋室だった。ここはいったい、と他の部屋も確認しようとしたところで、背後に迫る気配に、咄嗟に身を捩って躱す。
 私を捕まえようとしていた腕が宙を抱き、その腕の持ち主の不機嫌そうな唸りにも似た吐息が耳元を掠める。なぜ逃げる、と鼓膜を揺らす声音は、怒り混じりのもので、本能的にベッドから逃げようとした身体は、しかし寸のところで再度伸びてきた逞しい両腕に捕らえられてしまった。

 「リツ。逃げるな。」
 「ちょ、っと!なんなの…っ!」
 「逃げるな。もう二度と———逃がすと思うな。」
 「ぅ、」

 このまま絞殺されるのではないかと思う程、ギュウッと強まる腕力に息苦しさに見舞われる。力を緩めて欲しい意味合いで、数回彼の腕を叩けば、僅かに緩めてくれたお蔭で息苦しさからは解放されたものの、寝起きと同じ体勢に戻る羽目になってしまった。
 身を捩れば締め付けがまた強くなるので、逃げないから、と前置きを伝えた上で体勢を反転させる。背後から抱き込まれるような姿勢から、向き合う形に変われば、彼はまだ少し眠たそうにしながらも、その双眸の奥底の焔は一分の隙も無く、私の行動を捕えていた。

 「ここ、どこなの…?」
 「俺の家だ。これから、君の家にもなる。」
 「…フスベに、帰らせようとしたんじゃないの…。」
 「誤解だ。本部の近くにある社員寮に住めると嘯いたのは事実だが、此処に連れて帰るためであって、決してあそこ君の実家に連れて行こうとしたんじゃない。」
 「どうして。私を此処に、連れて来たの。」
 「ここが、君の帰る場所だからだ。」

 ずっとこの時を待ち望んでいた。本当は、あの時。君をあの家から連れ去って、一緒に旅をして、旅が終わったらこうして二人だけの巣を創るつもりだったんだ。眼を閉じて、寝起き特有の掠れ気味の声で、ゆっくりと呟くワタルの言葉に、嘘は見えない。つまり、実家に連行されるかも、という予想は、私の杞憂だったようだ。
 しかしそれが杞憂だったとして、ツッコミを入れざるを得ない気になる点はある。ずっと待ち望んでいたとは何だ。というか、そんな数十年前から自分の人生設計プランに私が組み込まれていたのか。そもそも私の意志は無視なのか。勝手が過ぎる言葉に文句の一つでも言ってやろうと口を開いたが、同時に彼の瞼が持ち上がり、瞳の奥にユラリと揺らめく焔を目の当たりにしたことで、吐き出そうとしていた文句はすべて口内に収まってしまった。眼がヤバい。

 「捕まえた以上、もう二度と此処から出る事は赦さないからな。」
 「眼だけじゃなくて、思考もイッてしまっている…サラッと監禁宣言しないで。」
 「俺の許可した場所なら、好きなだけ外に出ても構わないさ。」
 「どこなら許可してくれるの。」
 「リーグ本部。」
 「……え、そこだけ?」
 「ほかに行きたいところがあるのか?」
 「いや、別の街とか、地方とか、」
 「必要なら、俺が連れて行ってやる。だから単独行動は赦さない。」
 「えぇ…。」

 連れて行ってやるも何も、チャンピオンでリーグ責任者、加えて最近はポケモンGメンなんて役割もこなしている人間に、そうホイホイ他所へ行くだけの時間が与えられるとは思えないのだが。しかしそう反論しようにも、イエスかハイで応えろ肯定以外認めないとでも言わんばかりに眼を細められてしまったから、もう何を言っても無駄な気がする。完全にドラゴンタイプを屈服させるときの動作と同じじゃないか。
 ああそれと、明日からリーグで、俺専属の秘書になる事が決まったから。ついでと言わんばかりに伝えられた結果に白目を剥きそうになる。ならなかっただけ偉い。主な仕事は事務処理、リーグ内のポケモンや保護したポケモンのケアも頼むかもしれない。トキワシティで受けた業務内容を思い出す。それってつまり、ワタルに回ってくる事務処理の手伝いと、ワタルのリーグ用のポケモンのお世話と、リーグ、あるいはポケモンGメンとして保護してきたポケモン達のケアをお願いねって意味だったってこと?

 「何もかもが後出しじゃんけん感が強い…。」
 「はは、失礼な。嘘は言っていないだろう。」
 「どうしてそこまで…っていうのは、もう野暮な質問か。」
 「ああ、そうだな。」


 —————あの日から、は、を手放さないと決めていたからな。

 だから、諦めて俺の腕の中で幸せになってくれ。プロポーズのようにも聞こえる(実際、生涯逃がさないと宣言されているので、プロポーズと相違ない)言葉に、こちらも観念して深く息を吐く。こうなったドラゴンは、梃子でも動かないし、逃げたところで、それこそ地獄の果てまで追いかけ追い詰められるだけだ。
 本当の地獄実家から解放されるのならば、この腕の中に納まってやる事もやぶさかではない。あの時はお互いに幼く、逃げ出す事しか選択出来なかったが、今はもうこの腕は実家など歯牙にもかけないレベルで強くなっている。それこそ、私一人の人生など、どうとでも出来てしまう程に。

 「———やさしく、あいしてね。」
 「ああ。君は俺の唯一なのだから。」

 不公平な人生だと思っていたが、こんな結末なら案外悪くない人生なのかもしれない。