きみの声がまっすぐに届く距離で



松田くんと会ったのは、彼が配属されてから数日経った4日のことだった。

「苗字」

普段聞き慣れない声に振り返ると、サングラスを掛けたスーツの男が立っていた。それが松田くんだというのは分かっているものの、会って話したのはそう多くはない。なんと声を掛けるべきか迷っている私に、ちょうどよかったと何事もなく続ける。

「手、出せ」

突然のことに戸惑いつつも言われた通りに右手を差し出せば、そこに乗せられたのは名刺だった。数年前にもらったものとは部署が違っている。あとは、巡査部長に昇格していることだろうか。

「え、これいる?」
「いるだろ」

何か伝えたいことがあるのかと、裏返したがなにか書いてあるわけでもない。本当に名刺を渡したいだけだったようだ。その時少し離れた廊下の先から美和子ちゃんの声がした。おそらく彼を探しているのだろう。松田くんは彼女の声には応えず、私の肩を掴んで180度反転させた。見つかると面倒くせえと呟いたのをしっかり耳が捉える。

「夜、空けとけよ」
「は?ちょっと」

反論しようとすれば、行った行ったと背中を押される。これ以上ここで何かしようとしても、彼は聞きいれてくれなそうだ。それに、今は職務中でこんなところで時間を取られている暇はない。仕方なく事務所へと足を向けた。
その日、大きな事件はなく当直当番でもないため、そろそろ上がらなければと携帯を確認すれば、新着メールが1件届いていた。


■11/4 18:48
■松田陣平
———————
飯行くぞ


昼間の会話が頭を過る。こちらの予定はお構いなしだなと思いつつ1階に降りれば、呼び出した張本人がいた。

「やっとか」
「私、約束した覚えはないんだけど」
「あ?ちゃんと朝に言っただろ、空けとけって」
「それで約束したと思ってたの?」

当直だったらどうするつもりだったのかと問うと、そのときはそのときだと返される。適当な男だ。抗議したところで私の言葉で彼が変わることはないので、心の中でため息をついた。向かった先は、個室の居酒屋だ。彼と食事をするときはいつもそこだった。表立って事件の話ができない分、こういう喧騒の中でひっそり行うしかないのである。毎年この時期にある情報共有だった。とはいえ、カウントダウンのFAX以外に目ぼしい情報はない。犯人が住んでいた部屋は変わらず残されたままではあるが、戻ってきた形跡は一度もなかった。それに、強行犯係ほどではないにしろ、新しい事件が次から次へと舞い込んでくる。何か新しい動きが無ければそうそう動くことはない。

「今年は例年通りなら、0の年だろ」
「そうだね」
「今年は仕掛けてくる。絶対にな」

妙に確信めいた言い方をするので、こちらも神妙な気持ちになる。特殊犯係でも概ねそうだろうと考えられているのも事実だった。

「萩原のところには行ったか」
「ここ最近は……今度の当直明けにでも行こうかなと」
「そうか」

お前が行きゃあいつも喜ぶだろと言う彼とは一切目が合わない。萩原くんとのことを話すときは、いつもそうだった。なぜかは分からないが、このときばかりは暗い陰がちらつくのだ。今までならそれを見なかったことにするのに、今日ばかりは酷く気になってしまい、空いた手を向かいの松田くんの手に重ねる。そうでもしないとこちらを見てくれないからだ。私の突拍子もない行動に、彼が息を呑んだのが分かる。

「絶対、目覚めるから」

なんの根拠もないのに、先程の彼のような確信めいた言い方になってしまった。そんな私に数回ほど瞬きをした後、ようやく飲み込めたのか「そうだな」と笑っている。もう先程の陰は消え去っていた。


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