6年前、妹のスピネルは誘拐された。母さんとボクが目を離した瞬きの間に、スピネルは忽然と姿を消した。当時のスピネルはまだ2歳で、とてもじゃないけれど一瞬でどこか遠くに移動したりなんてするはずがなかった。爪先から体が冷えた瞬間を、母さんがくず折れる姿を、今でも昨日のように思い出せる。
 白昼堂々と行われた──しかもスピネルだけではなくもう一人5歳の女の子もだ──誘拐に、マサラタウンは大きく動揺した。やがて警察がやってきて、犯人が何か空を飛べるポケモンに指示をして二人を攫ったことが判明した。けれど、それで終わりだった。少女二人の痕跡を辿れるような証拠はなく、被害者家族の訴えも虚しく緩やかに二人の捜索は打ち切られたのだった。
 その後、ボクの父さんはマサラタウンを離れることを決めた。あの町と家はどこもかしこもスピネルとの思い出で溢れていた。母さんがそれに耐えきれないと判断したのだ。
 そうしてタマムシシティに引っ越して数年、ボクは父さんと二人で必死に頑張った。すっかり塞ぎ込んでしまった母さんに元気を出してもらおうと、ボクも父さんも自分に出来ることを精一杯やった。家のことも、勉強も、なんだって。けれど母さんは笑わない。ボク達を見ない。ずっと自分を責めてばかりでボクが体調を崩したり、父さんの仕事が忙しくなったりすると、たちまち家は汚くなった。
 やがて、段々と父さんからも余裕がなくなっていったのが分かった。父さんは自分が動けない代わりにネットやらなにやらを駆使してスピネルの捜索を続けていたみたいだけれど、その成果はいつまで経っても出ない。母さんを元気づけようとしても駄目。世界は確実に父さんを追い詰め、そして、とうとう父さんはボクと母さんを投げ捨てた。スピネルを探してくるからな、と。その一言と共に父さんは家を去った。
 ボクの地獄は、そうして完成した。
 ボクとスピネルは兄妹だから、それはもう良く似ていた。髪の色と目の色なんかはそっくり一緒だった。だからだろうか。母さんはボクをパープルであり、スピネルでもあると定義したのだ。母さんはボクのことをパープルときちんと呼ぶ日もあれば、暗い瞳でスピネルと呼ぶ日もある──そんな風に、壊れてしまった。ボクではなおせない歪みだった。最近なんかは瞳はずっと真っ暗で「スピネル」と呼ばれたときにスピネルがしていたような恰好をしていないと声を荒げはしないものの、静かに怒りながらボクを教育した。髪は綺麗に伸ばして、スカートを履いて。そして何より女の子らしく、家の中で本を読んだりして遊びなさい、と。そう言うのだ。
 あんなに優しかった母さんが、ボクを愛してくれていた母さんが、ボクを痛めつける。──違う。母さんはボクじゃなくて、スピネルを教育しているつもりなんだ。二度と遠くにいかないように。目を離さないように。攫われないように。母さんはとうとう現実すら歪めたのだ。
 怖かった。恐ろしかった。惨めだった。泣きたかった。母さんのために頑張ったけれど、それはもう一度手を繋いでほしかったからだ。スピネルの帰ってくる場所を守りたかったからだ。それなのに、母さんはボクの手を離した。ボクはスピネルが帰ってくるはずの場所に押し込められてしまった。何もかもが可笑しかった。
 ボクを必死に庇ってくれるポケモン達だけが救いだった。蹲って泣くボクに寄り添ってくれるサンサンとディディ。しかし、母さんはボクだけではなく二匹にも厳しく接するようになった。エリカちゃんと彼女のポケモンも味方をしてくれたけれど、当然彼女達はいつでもボクを助けてくれるわけではなかった。結局のところ、ボクをいつでも助けてくれるのはサンサンとディディだけで、ならばサンサンとディディをいつでも助けられるのはボクだけなのだ。ようやくその結論に辿り着いたボクは、11歳になるのをひたすら待った。
 バッグに必要最低限のものを詰め込んで、ボクは飛び出す。押し込められた場所から。スピネルを見つける──それを目的に。



「懐かしい、のかなあ……」

 母さんに無断で旅に出て、数日。ボクの眼前に広がるのはマサラタウン。この町には幸せだったあの頃が詰まっているけれど、6年の年月はその景色を朧気にするには十分だった。ボクが住んでいたあの頃と変わらないのか、変わってしまったのか。ボクにはさっぱり分からない。かつてどのあたりにボクの家が建っていたのか、ボクはそれすらも思い出せなかった。

「うーん、どうしよう……」
「ねえキミ、どうかしたの?」
「ん?」

 オーキド博士に話を聞くために訪れたのだけれど、研究所が後ろから人が寄ってくる気配がして、振り向く。そこに立っていたのは同い年ぐらいで、真っ赤な瞳が印象的な男の子だった。人の良さそうな笑みを浮かべたまま、男の子はボクに話しかけてくる。

「ああ、うん……オーキド博士に会いに来たんだけど、研究所がどこか分からなくて……」
「なんだ!オレも丁度オーキド研究所に用事があるんだ。一緒に行こうよ」
「え、いいの?」
「勿論!オレはマサラタウンのレッド。キミは?」
「ボクはタマムシシティのパープル。よろしくね、レッド」

 こっち、と先導するレッドの後ろを追う。道すがら聞いた話によると、レッドは今以上に強くなる方法を聞きにオーキド博士を尋ねるらしい。ボールの中でややぐったりしているニョロゾを見せてもらうと、確かにレッドは子どもとは思えない実力を持つトレーナーのようだった。

「パープルは?何の用事なんだ?」
「ボクは人探し中。オーキド博士なら何か知ってるかもって思って……」
「ふーん。なんだか大変なんだな」
「それはレッドもでしょ」

 段々と景色にはさらに緑が増えはじめ、反対に建物は一つも見当たらなくなってくる。本当にこっちで会っているのだろうか、とレッドの案内を少し不安に思い始めた頃、周囲から明らかに浮いて見える一つの大きな建物が現れた。そして、レッドはその建物の前で足を止めた。

「……ここ?」
「そうさ。それじゃあ、呼び鈴押してみるな」
「うん、お願い」

 レッドが震える指で呼び鈴を恐る恐る押す。ピンポン、とありふれた音が響き、数分の間。中からの応答を二人でじっと待つが、一向に返答はない。オーキド博士は留守なのだろうかと疑問に思って首を傾げていると、痺れを切らしたのか、突然にレッドがドアノブに手をかけた。

「ありゃ?!カギ開いてたのか!」
「え、ちょ、ちょっと……」

 止める間もなく、開いていることを認識したレッドは扉を開けて中へと足を踏み入れる。どうしようと扉の前で困惑していると、レッドに手を引かれ、結局ボクも中へと入ることになった。
 オーキド博士ごめんなさい、と罪悪感を覚えながら中を見渡せば、そこには所狭しと数多のモンスターボールが並べられていて、自然と目線を奪われる。

「ス、スゲェ……。これ、全部ポケモンだよなあ」
「ボクもこんなにいっぱいモンスターボールが並べられてるところ初めて見たよ。それに、ポケモンってこんなにいるんだね。初めて見る子もいっぱいだ」
「オレも見たことないポケモンばっかりだ。マサラにはいないのかな?」
「どうなんだろう。どこで捕まえたんだろうね?」
「お、なんだろ?」

 ふと目に留まった、他のものからは遠ざけて置かれていた一つのモンスターボールをレッドがおもむろに掴んだ。またかと止めようとしたが、中に入っていたのはボク自身も見たことのないポケモンで、ついつい一緒に覗き込んでしまう。

「”フシギ……ダネ”。アハハ、背中に種があるのか!ヘー!」
「可愛い顔してるね。いい子そうだ」
「ホラ、見てみろよ、ニョロゾ!」
「サンサンとディディも……あ!」

 レッドがボールの中のニョロゾにフシギダネを見せたのを真似て、ボクもサンサンとディディに見せようとする。しかし、それよりも先にボクの耳には廊下を歩く音が聞えてきた。

「え?」
「れ、レッド……ボクたち、ヤバイかも……」
「……な、なにが?」

 ボクの耳に聞こえてきたしっかりと床を踏みしめるそれは、確実にこちらに向かってきている。不法侵入どころか結果として研究所内を荒らしまわってしまったことをどうにかこうにか言い訳をしなくてはと考えていると、誰かがドアノブに手をかける音がした。そして、瞬きの間に扉が開く。

「こんの……ドロボーめ!」
「ち、ちが……ボクたちは……!」
「あ、あの……いや、オ、オレは……」

 中に入ってきたのは年配の男性だった。ボクとレッドの不法侵入に、男性──恐らくオーキド博士だろう──は顔を真っ赤にして怒っている。慌てて同時に言い訳しようと口を開いたところで、オーキド博士と思わしき人物に詰め寄られたレッドがよろよろと後ろに後退してしまった。そのとき、カチという軽い音が鳴る。

「あああ!!それは!」
「えええ!?」
「な、なに!?」

 三人の驚愕の声が研究所内に響くのと同時に、プシューという音ともに閉じられていた全てのモンスターボールが開いた。ポケモンたちはボールが開くや否や、元気にボールから飛び出してくる。驚くボクたちを気にも留めずに、ポケモンたちは研究所内で好き勝手暴れはじめたかと思うと、一体のポッポが博士らしき人物に糞を落とした。

「と、とにかく捕まえろー!」
「ハイ!」
「り、了解です!」

 怒鳴り声に急かされながらレッドと二人で研究所内を走り回り、暴れるポケモンたちをボールに納める。途中、サンサンとディディにも手伝ってもらいながらなんとか研究所内に残っていたポケモンたちはみんなボールに戻すことに成功した。ゼエハアと全身から流れる汗を拭いながら息を整えていると、同じように疲れた様子のレッドが割れて壊れた窓から外を覗いている。
 やはり、何匹かは外に出て行ってしまったようだ。外はもう暗くなり始めており、数刻もすれば日が沈むだろうといった時間だ。

「オ、オレさがしてきます!」
「ボクも!」
「逃げようとしても、そうはいかんぞコソドロめ!」

 保護をしに行こうと研究所を飛び出そうとするも、男性に服の裾を掴まれて立ち止まってしまう。

「ち、ちがう……!勝手に部屋に入っちゃったこととポケモンを逃がしちゃったことは謝る……ります。で、でもその前に戻さないと……」
「ボ、ボクも、ごめんなさい。でも、今すぐ追いかけないと……どこで怪我しちゃうか……!」
「ムリじゃよ……。今から始めると、日が落ちてしまうじゃろ」

 男性は窓の向こうに目をやり、大きくため息をつく。けれど、明日からの捜索では遅いに決まっている。ここにいたポケモンたちは、研究所で暮らしていたポケモンだ。野生のポケモンとはわけが違う。直ぐに怪我をするだろうし、最悪の場合どこかに迷い込んでそのまま、なんてことも考えられる話だ。

「ダメだよ、そんなの!と、とにかくオレ、さがしてきます!」
「逃げたりしません!ちゃんと帰ってきますから!」

 二人で男性を振り切って外へと飛び出す。まず、何処に行ったのかディディににおいで追ってもらおうと腰のボールに手をかけるのと同時に後方からベルの音が聞えてきた。振り返ると、自転車に乗った男性が此方を追いかけてきている。どうやら、彼も手伝ってくれるらしい。

「あ、ありがとうございます……!」
「ふん!分かっていると思うが、全部捕まえたあとはお前らを必ず……、警察にひっぱっていくからな!」
「やっぱりっ」
「ですよねっ」