宮城が残業を終えて家に着いたとき時計の針は午後の十一時を回っていた。
「だだいま」
居間に入って行くとカオルがひとりでポツンとテーブルに肘を乗せたまま、ぼんやりとテレビの画面を眺めていた。
「あっ、おかえり……名前さんは一緒じゃないの?」
「え? 帰ってきてねーの?」
カオルの表情から察するにどうやら彼女はまだ帰ってきていないらしかった。そうしてカオルが時計を見ながらつぶやく。
「こんな時間なのに……」
「まだ、仕事なんでしょ」
「ねえ、なにしてる子?」
「……」
宮城が無言のまま冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぐ。
「もしかして、気が変わっちゃったんじゃ……」
「だいじょーぶだって」
カオルの言葉をさえぎるように宮城が少し強い口調で言う。そのまま麦茶を飲み干してコップを流し台に置くと宮城は自分の部屋へと入っていった。宮城は少し考えてから彼女が鳴らしてくれた電話番号を呼び出して着信をかけてみる。電源を切ってあるのかそれとも電波が通じないところにいるのか定かではないが、呼び出し音は鳴らずにいきなり留守番電話の案内が流れだした。
宮城は留守電にメッセージを入れることは避けとりあえずその日は詮索することをやめて眠りについたのだった。
——翌日。仕事の休憩時間に、携帯電話の画面と海を交互に見やる宮城の元に三井がやってくる。
「宮城!」
「あ……三井サン。」
三井は宮城の元に辿り付くと両手を膝に当ててすこし前かがみになりながら言った。
「あのよ。きのう偶然、桜木と会ったんだわ」
「へえ、花道?」
「おう。今日俺んちですき焼きやっからおめェも来いよ」
「え……」
「じゃー、七時なー!」
そう言ったきり右手を翳しながら館内へと駆け足で戻って行った三井を見ながら宮城は、小さくため息を吐いた。
そうしてその晩、宮城は三井の待つ三井のマンションへと足を運んだ。不用心にも玄関のドアの鍵は開いていた。
「こんばんわー」
宮城はそのまま中に入ると玄関先に座り、靴の紐をほどく。
「おー! リョーちんこ!」
奥の部屋から顔をのぞかせた桜木の甲高い声に宮城の口元が、ふいに和らいだ。宮城はその声に背を向けたまま返事を返す意思表示として片手を軽く上げて応えた。
「彩子も来てんぞー」
部屋から聞こえてきた三井のその声に玄関先で靴を脱いでいた宮城の手がぴたりと止まる。小さく深呼吸をした宮城は出来るだけ平常心を装った面持ちで、三井たちがいるであろうダイニングへ向かった。たどり着くとそこには、三井に桜木。彩子と木暮が既にテーブルを囲んで宮城を待っていた。そして一番最初に声をかけてきたのは木暮だった。
「宮城、久しぶりだな。」
「……そー、スね……。」
「いちいち、おまえ通すのめんどくせーと思って俺から彩子に連絡したんだよ」
三井の言葉に小さく頷いて、宮城も席に座る。宮城と彩子が気まずそう視線を逸らすと、木暮が宮城と彩子のコップにビールを注いだ。
だが、桜木がいてくれたおかげで意外と会話は弾み、違和感なく二人もその場をそれとなくやり過ごしていた。しかしそのとき酒の力で気を良くした三井が突然「そー言えば」と大学時代の話を持ち出した。
「お前ら大学のときパラオのジェリーフィッシュレイクに行ったんだろ?」
「なんだあミッチー、それ?」
「あ? うーん、なんつーか、刺さないクラゲと泳げる場所だ」
「ほーん」
そんな三井と桜木のやり取りには触れることもなく、適当に流そうと思っていた宮城だったが、すぐに三井から突っ込まれる。
「新婚旅行、そこ行くんだろー?」
「えっ? あ、いや……その……」
「へえ〜、そうなのかぁ、パラオに行くのかー。
いいな宮城、彩子も。」
そう言って、優し気な目で宮城と彩子を見やる木暮から、さっと目を逸らした二人。
「ミッチー、俺らも着いてくか!そのシンコンリョコーってやつに!」
「ああん?なーんで野郎と行かなきゃなんねーんだよ」
「湘北バスケ部OBで着いて行こうツアーってのを計画するのはどうだ?」
「おっ!木暮、そりゃいいアイディアだな!」
盛り上がる三人をよそに、暗い顔で下を向いた宮城と彩子に気付いた三井が「あ?どーした?」と二人を見やる。それに合わせるようにして桜木と木暮も二人を見た。
「あの……。」
そう声を出し、宮城がとたんにあぐらの姿勢を正座に直してから眉間に皺を刻みながら低い声で続けて言った。
「……行かねーことに、なりました。」
「あ?……ああ、行き先変更すんのか?」
一瞬ポカンを口を開けていた三井が、すかさず宮城にそう問う。
「いや……あの、三井サン、」
「あん?」
「俺たち………別れたンすよ。」
宮城の言葉に三人が絶句しその場の空気がシンと静まり返った。続けて彩子もしっかりと正座に直ると、その沈黙を破るように言った。
「ごめんなさい。なかなか……話せなくて……」
一瞬にして楽しかったはずの食事会がお通夜のような雰囲気に様変わりしたのであった。
*
宮城と彩子と桜木は一足先に三井のマンションを出た。マンションの外で二人は桜木を見送り、残った二人のあいだにしばらく、沈黙が流れた。
「——じゃあ、私……こっちだから。」
「あ……うん。」
宮城の返事に彩子が小さく頷き宮城に背を向け歩き出す。宮城も彩子の姿を一瞥してからマンションの前に停めていた自転車のチェーンを外すためしゃがみ込んだ。
「リョータ!」
その瞬間、彩子の叫ぶ声が聞こえてきて宮城は立ち上がって声のしたほうを見る。
「式場、キャンセルしとくわね」
「……うん。ごめんね……。」
彩子が一つ頷くとまた背を向けて歩き出した。宮城もその姿を見送って、彩子とは逆の方向へと背を向けて帰って行った。それが二人で交わした最後の言葉だった。
「——で?別れた理由はなんなんだよ、三井。」
片づけを手伝うという口実のもと、三井のマンションに残っていた木暮が、キッチンで洗い物をしている三井の背中に投げかける。
「はぁ? 俺が知るわけねーだろーが」
「あいつらに聞いてもごまかすんだろうしなぁ」
「……やっぱ、クリオネのせいかもなあ。」
「クリオネ? なんだよそれ。」
「あ、いや……」
そう言って蛇口の水を止めた三井は木暮の方を振り返り、シンクに腰をあずけると、いままでのことを説明した。『クリオネ』というのは、どうやらあの、彼女のことらしかった。
水族館のクラゲの水槽の前で最初に宮城が彼女と会ったときに、ちょうどそこに居合わせたのが三井で、昨日の昼間に彼女がやってきたときにも三井がその姿を目撃した。そばに一緒にいた他のスタッフからも目撃されたことからいつの間にか彼女は彼らの間で三井が命名した『クリオネ』という異名で呼ばれるようになっていた、という話だった。
「うーん、それはちょっと怪しいかもなあ……」
「クリオネか?」
「ああ。だって、わざわざ仕事の最中に押しかけて来たんだろ?」
「まあ……」
そう言って三井が木暮の座るソファに行き自分も腰を下ろす。
「別れ話のもつれとかかなぁ……」
「いやー、宮城に限ってンなことはねーだろ」
「……子供、できちゃったとか?」
「え、さすがに……。ありえねーって、たぶん」
「ウミガメって普段はぼーっとしてても、繁殖のときのメスを追いかける執念って、すごいらしいからなあー」
「あ?……木暮、なんでンなこと知ってんだよ」
「このあいだ、NHKで見ただけだよ」
そう言った木暮が、目の前に置いたままだったコーヒーカップを手に取り、品よく啜った。その横顔を三井は、ただただじっと見つめていた。
*
自宅に着いた宮城を玄関でカオルが出迎える。宮城はカオルとは目を合わせずに「ただいま」と言った。
「おかえり」
彼女のことを言おうともしない、無言のままの息子に、ため息まじりにカオルが痺れを切らして問いかけた。
「……ひとり?」
「え? あ、……うん。」
「やっぱり、赤の他人のために身体にメス入れるなんて人、いないのよ」
「や、そんなこと……」
そのままカオルは宮城に背を向けて、居間へと戻っていく。宮城は妙な胸騒ぎを感じた。
結局その日も彼女は、朝まで電話をかけてくることもなければ、帰ってくることもなかった。