彼女が消息を絶ってから四日が過ぎようとしていた。その間、宮城が何度かけようとも、電話は繋がらなかった。けれど彼女はお金を必要としていた。実は四日前のあの日も、全額受け取るだけ受け取って、そのまま逃げるつもりでいたのだろうか。いや、たしかに彼女は言葉づかいや態度は少々乱暴だが、そんなことをするような人間ではないという確信めいたものが宮城にはあった。
あいにく彼女の住所はわからないが前に貰った名刺があることを思い出した宮城は彼女が勤めているところを訪ねてみることにした。しかし今日は休みだと言われてしまい、宮城はそのまま店をあとにした。
一方そのころ彼女は、近所のスーパーで買って来たばかりの食材を冷蔵庫にしまっていた。その背後でドアがノックされる音がした。どうせ新聞の勧誘かなにかだろうと無視を決め込んでいると「俺が出る」と寝転がってテレビを見ていた竜が立ちあがり、玄関前に立つ。
「あのう……名字さんのお宅でしょーかー」
「……ああ」
「えっと、名前さんはー………」
はじめはドア越しに会話をしていた竜が玄関のドアを開けた。
「おまえ、妹のなんだよ。つか、誰だおまえ?」
「……え、妹?」
「……」
「……あっ、オレ、宮城っていう、物でして。」
宮城は竜の顔を見たときどこかで会ったことがあるようなないような釈然としない気持ちになったがすぐにそれを頭の中で打ち消した。そのときひょこっと顔を出した彼女が宮城を見やり血相を変えて宮城に向かって怒声を浴びせた。
「な、なにしに来たの!!」
「……え。」
と、彼女のあまりの態度の変わりように宮城は思わずギョッとして押し黙る。
「帰って!……帰れ!!」
彼女は宮城の肘のあたりをつかむとものすごい勢いで宮城を外へと引っ張り出し、玄関のドアを強く閉めた。そのまま宮城を引いたまま鉄の階段を降りると、彼女がその手をようやく放した。
「なんでここ知ってんの!?」
「あ、その。さっきスーパーで見かけちゃって」
「お願い、帰って」
「てか家族はいねェって言ってなかったっけ?」
「——いない。いいから早く……」
「でもあれ、お兄さんなんじゃ……」
「だから! いないって言ってんじゃん!」
大声で宮城を怒鳴りつけながら彼女はチラリと二階の方を見た。すると竜が、玄関から出て来て柵に寄っかかりながら、じっとこちらを見ている姿が目に入る。彼女は、小さく舌を打ち鳴らしてから口調を荒くしてわざとらしく大声で続けた。
「あー、もう!人のあとコソコソつけてきてさ!」
「は……? いや、ちょ、」
「これ以上しつこくしたら、警察呼ぶよ!?」
彼女はそう言い捨てると、さっと回れ右をして階段を駆け上がった。
彼女が部屋に戻るなり、竜も追うように部屋に入ってきて尋ねてくる。
「なんだよ、あの男」
「……しつこい客。」
「ストーカーかよ? 店長にヤキ入れさせろよ、あのときの俺みたいに」
「……」
無言で睨んだ彼女に竜が、ヘラヘラして笑う。そうして一人で一通り笑い終えたあとに言った。
「……あいつ、本当に客か?」
「それ以外ないでしょ。なんで」
「いや、どっかで見たことある気ィしたからよ」
「……人違いでしょ」
「だろーな。」
宮城はしばらくの間、彼女のアパートの部屋をぼうっと真下からながめていた。そして溜め息をつくと、重い足取りで帰宅の途についた。彼女はどうしてあんなに人が変わったようになってしまったのだろうか。いくら考えてみても、宮城には理解できなかった。
いずれにせよ最後の望みが絶たされてしまった以上あとは脳死のドナーを待つしかない。宮城はまさに八方さがりの状態に立たされてしまったのだった。
*
翌日。仕事をしていても、昨日のことがまだ頭から離れない宮城は、ハァ〜と重苦しい溜め息を吐いた。
「なんでだよ……」
思わず宮城がそうつぶやいたとき三井のマンションで食事をした日以来、久しぶりに勤務時間が被った三井がそばにやってきた。
「宮城! 大丈夫かよ?」
「へ?……なにが?」
「あ? 彩子とのことに決まってんだろーが」
「ああ……」
「おまえ……やっぱりクリオネと——」
三井がそう言い掛けたときだった。突然「ちょっとお客様!」というスタッフの困惑したような声が聞こえて来た。見るとバックヤードの通用口のところに彼女が来ていた。「入れてよ」「ここからは入れない」などとスタッフと揉めている。
そうこうしているうちにスタッフを押し退けるようにして彼女が館内に入って来た。つかつかと宮城の目の前まで来るとたくさんの荷物を抱えた彼女が宮城を真っ直ぐに見据えて言う。
「——話、あるんだけど。」
宮城は少しだけ躊躇ったあと一緒にいた三井に断りを入れて彼女を連れ、館内を出た。水族館の外は晴れていたが、風がやや強かった。
昨夜、自分が彼女の後をつけて家に行ったことを怒っているのだろうか。それとも、正式にあの��契約�≠フことを、断りにきたのか。どちらでもいいかと、宮城は弱々しく諦めたように言った。
「……嫌んなった?……あのこと。」
そう聞いた宮城を彼女は今にも火がつきそうな目で睨みつけて、答える代わりに、一枚の書類を指し出す。それはまさかの婚姻届で、すでに彼女の署名捺印がしてあるものだった。
「……なんで、言わなかったの?」
「なにを」
「兄さんのこと。」
「そんなの……どーでもいいでしょ、さっさと、サインしてよ」
「家族はいないって、言ってたでしょ?」
「いいから! サインしてって……」
「ちゃんと、兄さんにも話さねーと……」
宮城の言葉を遮るように、彼女が声を荒げる。
「ごちゃごちゃ言ってないで、早くサインしてってば!」
そう言って、持っていたペンを宮城の胸に突きつける。宮城がそれをそっと受け取ると、彼女を見据えて不安げに問う。
「ほんとに、いいの?」
「……いまさら……」
「……」
「いまさら、なに言ってんの……?」
「……」
「いまさら、いいのかなんて聞かないでよ!」
叫ぶように言った彼女の瞼から大粒の涙が溢れ出した。宮城は片方の眉をぴくりと動かした。
「だったら……」
「……」
「だったら、なんで私を助けたの!?」
「……」
「もう、戻れない……」
「……」
「私には……戻るとこがないんだよ」
「……、」
「もう私には……リョータしかいないんだよ!」
「——!」
強い浜風が二人の間を通り抜けていく。宮城は「わかった」と言う代わりに頷くと、ゆっくりと手にしたペンのキャップを外した。
第二章 完