その日の夕方——浜辺でひとりたたずむ、彼女の姿があった。ふと真横に人の気配を感じた彼女は相手を確認しないままで真っ直ぐに大海原を眺めながら言う。

「なんで……来たの」
「え?」
「お店、来たでしょ……」
「……あ、うん」
「人違いだと……思った」
「三井サンが、見つけてくれて……あと、」

 そう言ってポケットを漁っている宮城を彼女がチラリと見やる。

「……これ、返すよ。」
「え……?」

 そう言った宮城の手には彼女名義の通帳が持たれていた。

「ポストに、入れたっしょ?」

 すぐに宮城から通帳を奪い取った彼女が中身を見るとまさかの一円も使われていないことを確認して、小さく舌を打ち鳴らす。

「……クソ兄貴。よけいなことしないでよ……」
「あー……、なるほどネ。そっか。」

 すぐにすべてを把握した宮城は、ふっと笑みをこぼして言った。

「おにーさんが入れたんだね、ポストに」
「私……幸せになれ、って……言われたの。」
「うん」
「ショーホク高校、ってとこに———殴り込みに、行ったとき。」
「……うん、」
「アンタもなってよって、言えなかった……」
「……」

 すこしの沈黙のあと、彼女が「いらないよ」と言ってその通帳を宮城の胸へと乱暴に押しやる。

「いや、いーよ」
「私こそいいって」

 サーフパンツのポケットに両手を突っ込んだままで受け取ろうとしない宮城にそう言って彼女が強引に、宮城のパンツの後ろポケットへと通帳を押し込んだ。そのまま砂浜を、スタスタと歩いて行く彼女を宮城が追いかけて行き彼女の着ていた薄手のパーカーのポケットへとそれを無理やりに押し入れる。その反動で振り返り、立ち止まった彼女と宮城の視線がかち合った。すぐさま気まずそうに目を逸らした彼女に宮城が言う。

「いーからさ、持っときなって」
「……」
「てか、すげえじゃん。インストラクターの資格取ったの?」
「うん……」
「あーあ。先、越されちゃったかなあ〜」

 波の音が心地よく響いている。宮城は青い海を眺めながら、ひとり言のように話し出した。

「俺さあ、昔っから弱っちいの。」
「……」
「いっつも肝心なとこでミスって逃げる。怖くてさぁ。心臓バクバクしてさ……」
「……」
「だから、めいっぱい平気なフリをする。」
「……弱く、ないでしょ」
「え?」
「弱くないよ。弱かったら……線路に飛び込んで他人のこと、助けたりしないでしょ」
「……。」

 刹那、彼女も海のほうに身体を向けていつもの調子で言う。

「アンタの家のクラゲ、元気?」
「ん?……もう、いねーよ。」
「え……」

 彼女は思わず宮城を見やった。彼女の少し後ろに立っていた宮城が、彼女の横に来て並んで立つ。そうして海を眺めながら言った。

「水族館に、ぜんぶ引っ越した」
「そうなんだ……」
「うん」
「ははっ。いまごろ寂しいーって、泣いてんじゃないの」
「クラゲには悩がないからねー、寂しいとか悲しいとかそーいう感情は——」
「それ、まえに聞いた」

 宮城の言葉をさえぎって言った彼女がぷいっと宮城に背を向ける。

「……名前ちゃん」
「……」
「会いたかったよ、ずっと」
「……、」
「ソーちゃんが……兄貴がさ、引き会わせてくれたんだ」
「え?」

 彼女はそう聞き返すとゆっくりと身体を宮城のほうに向けて宮城を見やった。そこには、慈しむように自分を見つめている宮城の姿があった。

「……一緒に、帰ろ?」
「……」
「……」
「それも……まえに、聞いた……」

 そう小さくつぶやいて、宮城にまた背を向けた彼女。すこしの沈黙のなか、波の音だけが二人のあいだを通り抜けていく。
 次の瞬間、彼女は背後から宮城の腕の中に抱きすくめられた。そうして宮城が、耳元でささやくように繰り返した。

「……帰ろ?」
「……ッ」

 あの日——水族館の外で、力強く抱きしめられたときとは違い、優しく包み込むように彼女を抱きしめた宮城。

「帰ろう……。」
「……うんっ。」

 彼女の頬を、透明な二粒の水滴が瞬きと一緒にはじき出された。
 そのまま彼女を正面に向かせた宮城が今度は、息が止まるほどに強く彼女を抱きしめる。彼女も遠慮がちにその背中に腕を回した。そうして体をゆっくりと離した二人の重ねられた唇は、過ぎていくときを塞ぐように離れなかった。


 *


「——クリオネっつーよりも……クラゲ、か。」

 三井は手に持っていた一枚の葉書を眺めながらぽつりとつぶやいた。
 水族館の外、コンクリートに腰を下ろして海を眺めている三井を見つけた木暮がゆっくりとした足取りで三井のほうへと向かって歩いて行く。

「やっぱり、ここか。」

 そう言って隣りに腰を下ろした木暮を見ることなく三井は未だ、海を眺めたままだった。木暮はいつも通り柔らかい口調で言葉を紡ぐ。

「湘北行ったら、今日は来ないって連絡が入ったって聞いたから」
「……」
「毎週木曜には絶対顔を出してたのに、いったい今日はどうしたんだ?」

 そう問いかけた木暮が三井の手に持たれているままの葉書を見て、ふっと顔を綻ばせて言った。

「俺のところにも届いたよ。」
「……」
「結婚、したんだな。」

 その葉書には二人だけで式を挙げたとの報告と共にタキシード姿の宮城と真っ白なウエディングドレスを着たクリオネもとい、あの彼女が写っていた。

「俺も、見合いでもすっかなー」

 両手をうしろについて、空を仰ぎ見ながら言う三井に木暮が呆れたように言う。

「彼女さんは?長いんだろう、付き合って」
「はあ? いっつの話してんだ、おまえ」
「いや、あれ?長かっただろ?」
「あー、別れた。」
「どうせまたフラれたんだろう?」
「うっせ、ほっとけ」
「ははは」

 三井は笑っている木暮を横目で流し見たあと、右手の人差し指と中指に挟んでいたままの葉書をもう一度ふと見やる。そうして、その葉書の中ではにかんで笑うタキシード姿の男に目を細めた。

「——お前のこの、ゆがんだ眉毛が好きじゃねえーんだよ」

 左の口の端を吊り上げてつぶやいた三井は再度海に視線を移すと、ふっと鼻で笑ったのだった。





 最終章 完


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