カオルに頼まれていた買い出しを終え、新しく決めた新居に戻って来た宮城は「ただいまー」と言いながら靴を脱ぐ。しかし、応答がなかった。不思議に思いながら中に入ると居間のテーブルの前で呆然と立ち尽くしているカオルがいたので、声をかける。

「頼まれたもん、買ってきたよー」

 声に振り返って「リョーちゃん……」と言ったカオルに宮城が「なに、どしたの?」と返す。

「ポストにこれ、入ってたんだけど……」

 受け取った宮城は「え」と言葉を詰まらせた。カオルから渡された物、それは『名字名前』と名義が印字されている通帳であった。
 急いで中身を開くと一番上に『1,000,000』が預金額として入れられていた。宮城は瞬時にそれが成功報酬として彼女に渡した物だとさとした。

「名前さん、私たちにお金返そうと思って溜めてたのかしら……」
「……」
「ほとんど毎日、貯金してるのよ……」

 たしかに中を見ると1,740円や、ときには423円なんて日もある。それでもカオルの言う通りほぼ毎日貯金していたようだった。
 宮城はその通帳を閉じると印刷されている彼女の名前をそっと指でなぞって、強く目を瞑った。思わず小さく出てしまった舌打ちには真っ直ぐに素直な気持ちだけで彼女を迎えに行けなかった、自分への苛立ちが込められていた。何度も電話をかけようと思った。何度も何度も思った。それでも彼女がもし、自分とはもう関わらないと決めていたのならば、もうこれ以上足かせにはなりたくなかったのだ。
 好きだから、だれよりも大切だと思うからこそ世界で一番、幸せになって欲しい——。けれども、そんなものは表向きの言い訳で、あのときなにも考えずにただ自分の気持ちだけで突っ走ることが出来たなら……。
 できることならば、もう一度会って話したい。いますぐ君を抱きしめたい。だけどきっともう、二度と会えない。それでもずっとほんとうに君が大好きなんだと、宮城は心の中で自問自答した。

 俺は、弱い。いつも逃げ道を探している。逃げたくなるんだ——。
 なあ、ソーちゃん。俺は、いつからこんなにも臆病になったのだろうか。俺は、俺は、どーすればいい?教えてくれよ。ねえ、ソーちゃん……。


 *


 その日の夜———宮城は夢を見た。大人になった今の宮城が見つめる先に、ずっと追いかけ続けていた兄、ソータが立っていた。ソータはあの日、宮城が最後に会った日の姿のままだった。
 享年十二歳。姿は、あのころのままの十二歳のはずなのに、それでもやっぱり兄は、自分よりも大人に見えた。ソータは肩に釣り竿を担いだままずっと遠くの地平線を眺めている。

「今日、釣りに行かないでよ——」

 そう言おうにも、なぜだか言葉が出て来ない。まるで金縛りにあったみたいに唇が震えて、声が出ないのだ。そんな中、ソータが言った。

「リョータぁ、もう……——」

 ……え? なに?
 最後の方は波の音が大きくて、うまく聞き取れなかった。


「なあ、頼むから」


 ……?


「もう……逃げんな」


 ソーちゃん……。


「会いに来い、リョータ。」


 ………え?


『そこに、答えが待ってる——。』


 そうはっきりと言った兄、ソータは宮城の方を振り返った。けれども逆光が眩しくて、その顔がどんな表情だったのか宮城にはわからなかった。目が覚めたら宮城は泣いていた。布団から上半身を起こし、しばらくのあいだ呆然としていた。

 ——決めた。あの海に行く。ソーちゃんに会いに行こう。
 宮城は勢いよく布団から飛び起きて急いで準備をすると兄と最後に会ったあの海へと向かったのだった。


 *


 宮城は強い日差しと潮風を受けながらある船に乗っていた。ダイビングツアーの船だ。船独特の動きに揺られているうちにこの一年半のあいだに起きたことがまるで夢か幻の中での出来事だったかのように思えてくる。
 そんなふうに心のどこかでは罪の意識を感じながらも自分が癒されていくのを感じていたのだ。

 宮城たちを乗せたボートがダイビングスポットに到着した。エンジンが止まるとあたりは船体を波が打つ音が聞こえるだけの静寂に包まれた世界となる——はずだった。
 先に来ていた別のツアーボートのガイドらしき女性が船縁に腰を掛けて拡声器、もとい防滴メガホンを使って、ツアー客たちに向かって説明している声が、ときおり風に乗って聴こえてくる。

『——ええ〜と、スカシテンジクダイというお魚はですね〜』

 楽しそうに説明しているガイドの声に、宮城はふいに目を閉じる。そうして、心地よい風と潮の香りに柄にもなく耳を澄ましていた。

『——こう、下から見上げると、太陽の光が溶けて見えてまるで流れ星みたいに見えるんですよ!』

「……え」

『——ずっと消えない流れ星なんて、お願いし放題ですよね! はいっ、なにか質問ある人〜!』

「……」

『サメ? サメはいないよー?まあ私はいっぺんお腹をガブリとやられましたけどー!」

「……」

『あ、嘘だと思ってる人ー。なんなら傷跡、見せてあげようかー?』

 そう言った彼女は宮城たちの船に背中を向けたままベストタイプのウエットスーツの裾を一気にまくり上げて自分の腹を客に見せた。いっせいに「キャーッ!」だの「すごーい!」という歓声とともに、悲鳴ともつかない声があがった。

『なーんちゃってね。ところでみなさん、魚にはイケメンの魚とそうじゃない魚がいるのを知っていますかあ〜?』

「……、」

『ヒレが大きい魚ほど、メスにモテるんですよ?その辺のとこもよく観察してってくださいね〜』

「……っ、」

『じゃあインストラクターの指示に従ってダイビングを楽しんできてください!今日の夕飯は最高に美味しいかぼちゃの煮付けが待ってますからね〜!』

「………ハハッ」

『んー?なんだぁ、その不服そうな顔は〜。はいでは皆さん!気をつけていってらっしゃーい!』

 そう言って彼女が手を振りながら客を見送るとゆっくりと宮城が乗っているボートの方を見た。宮城を見つけた彼女の目が一瞬大きく見開かれる。次の瞬間くしゃくしゃに歪みかけた顔に無理やり笑みを浮かべた彼女がメガホン越しではない肉声で、大声で怒鳴った。

「あーあ、スカシテンジクダイの効果も、イマイチだねっ!」
「え……なんでっ?」

 思わず、そう言い返した宮城に彼女は、白い歯を見せて笑いながら言った。

「どんだけ��星に願いを�≠竄チたと思ってんの」
「……、」
「いまごろ来やがって!遅っそいんだよっ、リョータぁ!」

 宮城と同じボートに乗っていたツアー客たちが宮城をちらちらと見やってそのあと一斉にドッと笑った。

「すっげえ……マジで会えたよ、ソーちゃん。」

 宮城は罰が悪そうにすると、後頭部に手をあて片眉をぐっと吊り上げて、そうつぶやいた。


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