第二章 契約からはじまる愛
宮城は彩子と公園で別れたあと母親の待つ家に真っ直ぐ帰る気になれず通りがかりにあった一軒の居酒屋に寄って酒を飲んだ。ふと先日言われた三井からの「相談に乗るぜ? 俺、結構いいこと言うぞ?」という言葉が脳裏を過ぎったが「言ったことねー」と無意識にひとりごちて鼻で笑って酒を呷る。
居酒屋を出て腕時計を見るとまだ午後の八時前だった。混んでいるバスや電車には乗る気分じゃない。ここからならゆっくり歩いても一時間ほどで家まで帰れるだろう。そうして歩いている内に酒が回ってきたらしく頭と身体がフラフラした。
「これじゃあまるで、クラゲだっつーの……」
思わず呟いたら、それが妙におかしくて宮城はひとりで笑っていた。
自宅までの道のりの四分の三ほど来たところに小さな踏切がある。宮城が、ちょうどそこに差し掛かったとき警報音が鳴り出した。走れば渡れるだろうが、宮城はそうしなかった。いまはもう、走る理由がなかったからだ。
目のまえの遮断器が下りて来るのをぼんやりと眺めていた宮城は踏切の反対側からその遮断器をくぐるようにしてひとりの女性が中に入ってくるのに気が付いた。よっぽど急いでんだなあ……、せっかちな人。そう思って見ていたがその足取りはやけにゆっくりとしていた。なにかおかしいと思っていたら、こともあろうにその女性は踏切の真ん中で立ち止まってしまったのだ。
死ぬ気だ——。
そう思ったと同時に気付いたときにはもう足が地面を蹴り出していた。
無我夢中でその女性の腕をつかみ線路の上から引きずりおろそうとしたが女性は驚くほどの力で宮城の手を振りほどいた。その瞬間、女性と目が合った。
——クラゲになりたい。
そう言ったあの子だった。ハッと見開いた彼女の目に電車のライトが映った。もう時間がない。宮城はしがみつくようにして彼女を抱きかかえると線路脇の地面に向かって身を躍らせた。一瞬前二人が立っていたその場所を、八両編成の電車が轟音と共に長い警笛を鳴らしながら通過していった。やがて警報音が鳴り止みあたりは静寂を取り戻す。
「……痛いんだけど」
その声で宮城は自分がまだ彼女にしがみついたままだったことに気付いた。
「あっ、……ごめん」
二人の真横をクラクションを鳴らした車が一台通りすぎていく。ゆるゆると立ち上がり、洋服のほこりを払いながらその彼女は吐き捨てるように言った。
「余計なこと、しないでよね……」
宮城の顔を見ようともせずそのまま立ち去っていく彼女の背中に宮城が慌てて声をかける。
「——借金!」
自分でも、思いがけない言葉だった。
「借金、……いくらあんの?」
足を止め「は?」と振り返った彼女に宮城は、つづけざまに言う。
「俺が払うよ」
彼女は一瞬目を見開いたが、すぐにフンと鼻で笑って言った。
「意味わかんない」
「その代わり、家族になってよ」
「……家族?」
「俺と、結婚してほしい」
「……は? なに言ってんの?」
「妹を……助けたいんだ」
「……」
「君の肝臓を、分けて欲しい。」
彼女は困惑して首を傾げると宮城に背を向けて再び歩き出した。思わず宮城は駆け寄り、彼女の腕をつかんだ。必死だった。
「!!……離してよっ!」
「妹は、アンナは……! 肝臓を移植しねーと、助からないんだっ!」
彼女は無言で宮城の手を振り払いそのまま歩き続けた。そこに立ち尽くしたままの宮城が、再度彼女の背中に向かって叫ぶように言う。
「家族しか、助けらんねーんだって!」
そこで彼女の足が、ぴたりと止まった。
「………、三百万。」
彼女はそう言うと、宮城のほうを振り返った。
「……借金、ほんとに払ってくれるの?」
「あ……う、うん」
「……じゃあ、いいよ」
自分で勢いついて頼んだものの予想外の返答に「えっ」と聞き返した宮城に対して彼女はまるで食べ物の話でもしているような口振りで言った。
「私の肝臓、わけてあげる」
「……」
「とりあえず、今晩はお兄さんち泊めて?」
「え……、」
「ちょうど、行くとこなかったし」
「……。」
*
「ここ?」
宮城の家が見えてくると、不意に彼女が小さく指をさしてたずねた。
「あ、うん。」
「妹は? いるの?」
「や、いまは入院してる。母親と俺だけ。」
宮城がそう言うと彼女は言葉を返さず頷いた。先に宮城が玄関のドアを開け放つ。
「ただいま」
「おかえ……」
玄関まで出迎えに来たカオルは言い切るまえに見知らぬ女性を見て目を見開く。
「彼女、きょう泊まってくから」
「え……」
「……あがって。」
宮城が促すと「おじゃましまーす」と遠慮なく靴を脱いで客人は家内に入って行った。困惑したままその場に佇むカオルに宮城が「あとで話すから」と小さくつぶやいて宮城も中に入っていく。
なんの前触れもなくとつぜん息子が連れて来た見知らぬ女性に、最初は強い戸惑いを見せていたカオルだったが、息子本人からそれまでの経緯を聞き終える頃にはその表情に、かすかな微笑さえ浮かべるようになっていた。
たとえ結果的に、息子が婚約者と別れることになったとしても、息子が偽装結婚までして他人の肝臓をお金で買うことになろうとも母親にとってなによりも大切なのは娘、アンナのいのちを救うことなのだ——。
*
部屋の隅に置かれた水槽のクラゲに餌をやっていた宮城の背中にお風呂からあがってきた彼女が声をかける。
「……ほんと好きだねー、クラゲ。」
「あ……お風呂あがった?向こうの部屋に布団、敷いといたから」
「ありがと」と言って宮城の横から水槽の中をのぞき込んできた彼女が、小さな歓声をあげた。
「うわー、ちっちゃー。これ赤ちゃん?」
「え、あ……うん」
一緒に水槽のクラゲを眺めていた宮城に彼女がボソリと言う。
「——で、どうすんの?……これから」
「……婚姻届出したら、三百万渡すよ」
「で……?」
「そっから医者と面談して君が適合するかどうか検査させてもらいたい」
「もしその適合ってやつが合わなかったら、お金どうすんの?……ダメでも、もらうよ?」
「うん。」
「へえ。ギャンブラーだね、お兄さん」
「もう、君しかいないんだ」
「……。」
すこしの沈黙のあと、彼女がたずねる。
「で……、手術が成功したら?」
「離婚する」
「……、わかった。」
「あの、そんなむずしー手術じゃないらしくて」
「べつに……死ぬわけじゃないんでしょ?じゃあうまくいったら成功報酬として、もう百万ね」
「え」と聞き返した宮城に彼女は「百万♪」と言って、ニッと白い歯を見せた。
「わかった、……なんとかするよ」
「……案外お金持ちなんだねえー」
「妹のために、ずっと貯めてたからね」
「ふーん……」
「そっちの、家族は?」
「いないよ」
「え、いないって……、」
「いないの。」
宮城の言葉をさえぎるように彼女は強い口調で言い切った。
「……あっ、名前は?」
「名前。……名字名前。お兄さんは?」
「……みやぎ。……宮城、リョータ。」
「……じゃ、商談成立!」
そう言うと彼女は宮城に右手を出した。躊躇いがちに握り返した彼女の手は、思っていたよりもふっくらとしていて、とても柔らかかった。