アンナが入院してから、十日が経ったその日の午後。宮城はアンナが入院している病院の屋上にいた。久しぶりの休暇で、宮城はアンナの病室を見舞ったのだがちょうどアンナが眠っていたのでそのまま病院の屋上に上がったのだ。
こんなときタバコでも吸えればいい暇つぶしになるのに……。そんなことを考えながら、遠くに見える海を眺めていた宮城は自分の名を呼ぶ声でふと我に返った。振り返るとそこには缶ジュースを二本手にした神が立っていた。
「どうぞ」
相変わらず人の良さそうな笑みを浮かべながらそう言って神が差し出したジュースを「どーも」と受け取ると、宮城は溜め息まじりに言った。
「難しいもんだよなー」
「え?」
「アンナを小さい頃から知ってる人でもなかなかね〜……」
神はその言葉に、かすかに頷いただけだった。
「なあ、どーして家族じゃなきゃダメなの?」
「……」
「血が繋がってなくたってかまわねーならさぁ、誰だっていーじゃん」
「……医学的にはともかく、倫理的な問題があるんだよ」
「どんな?」
「他人の臓器を、金で買おうとする人が出てくるだろ。人の体に値段がつくなんて絶対にあってはならない。だからドナーには厳しい——」
「神、おまえならどーする?」
神の言葉をさえぎって、宮城が神を真っ直ぐに見据えて言う。
「ねえ。おまえだったら、どーすんだよ」
え、という顔で宮城を見た神に宮城は言った。
「お前のいちばん大切な人が、アンナと同じ状況だったら……」
「……」
「お願いします。アンナを助けてください!」
深く頭を下げながらこんなことを言ったところでどうなるものでもないことは宮城もよくわかっていたがそれでもそうせざるを得ない状況に追い込まれていたのだった。
*
宮城はその足で彩子の職場に向かった。携帯で『いま近くまで来てる』と送ると、十五分ほどで彩子が出て来た。彩子は顔を合わせるなり、あと十分ほどで仕事に戻らなければならないと前置きしてから、宮城が座っていた公園のベンチに腰を下ろした。
「この前は、ごめんね」
謝る宮城に彩子はううんと、首を横に振った。
「わたし、考えたの。」
「……うん」
「アンナちゃんのこと、本当に妹のように思ってるわ」
「……」
「だから、助けたいと思う。」
しかし彩子はじっと自分のことを見つめている宮城から気まずそうに目を逸らして先を続けた。
「両親に相談したの。そしたら……」
「……」
「反対、された……」
長い沈黙のあと彩子が、か細い声で言った。
「わたし、ほっとしたのよ……。それで、ほっとした自分に、びっくりしたの」
そこまで言って彩子が涙で言葉を詰まらせた。どんな言葉をかければよいのかわからないでいる宮城に彩子が頭を下げる。
「ごめんなさい、リョータ……」
「ううん。彩ちゃんは悪くないよ……こんなこと考えさせちゃって、ごめんね」
「いいえ。リョータもお母さんもアンナちゃんのために、当然のことをしただけよ……」
「……」
「でも……家族には、なれない……。」
「……わかった。」
「本当に、ごめんなさい……」
二人の間に再び長い沈黙が訪れた。その沈黙を破るように公園のスピーカーからは、妙に甲高い『夕焼け小焼け』のメロディが流れはじめた。
*
アパートの前に、見慣れない車が一台停まっていた。真っ赤なスポーツカーだった。嫌な予感がして彼女は足を止めた。その勘は当たっていた。二階にある自分の部屋のドアが開いて、竜が姿を現したのだ。
竜は鉄の階段を勢いよく駆け下りるとその車のトランクから段ボールの箱を取り出して、それを持ってまた階段を上って行く。どうやら兄は本格的に、妹の部屋に転がり込むつもりらしい。だがそれよりも彼女を苛立たせたのは車の方だった。元カレからだまし取った金で買ったに違いない。そう思ったら彼女は無心で、アパートに向かって走り出していた。
壊れるくらいの勢いで玄関のドアを開け自分のことを睨みつける妹に竜は目を大きく見開いて、それでもあっけらかんとして言う。
「なんだよ、驚かすんじゃねーよ」
「なんなの、あの車」
「お、見たか? いいだろ、今度乗せてやるよ」
「……、」
「あ、言っとくが、あの男の金じゃねーからな」
「……っ」
「そーいや、あのあと、仲直りできたのかぁ?」
「ふざけんなっ!」
そう叫ぶなり彼女は、持っていたバッグを竜に投げつけた。竜はさとすように笑いながら言う。
「おーおー、元気だなぁ〜」
「うるさい!」
「おまえよー、ガキの頃、俺がどんだけ面倒見たと思ってんだよ」
「……は? 不良仲間と遊びほうけてたくせに」
「オメーは覚えてねーだろうけどなぁ〜、オシメだって俺が換えてやったんだぜ?」
「……っ」
「熱上げたときもな、医者まで俺がおぶってってやったんだぞ?」
そう言って愉快そうに笑うと竜は、冷蔵庫から缶ビールを二本取り出してその一本を彼女の方へ差し出しながら言った。
「昔みたいによ、兄妹仲良くやってこーぜ?」
「……。」
彼女は無言のまま台所に向かって、包丁を手に取った。
「——もう、………死んでよ。」
そう言って包丁を構えて突進してくる妹を必死に避けながら慌てて竜が言う。
「落ち着け名前!ちょっと落ち着け、な……?」
「だったら……わたしが死ぬ。」
「おいおい!早まんじゃねーよ!」
自ら、自分の胸に包丁を突き立てるようにした妹から竜が包丁を取り上げようとするが、彼女は放さなかった。二人で激しくもみ合っている内に竜が「痛ってッ!」と悲鳴を上げる。
彼女がふと我に返ると竜の手のひらから大量の血がボタボタとしたたり落ちているのが見えた。彼女はその場に包丁を放り捨て部屋を飛び出していった。
いろんな自分をひた隠しにして、その代わりに自分で自分を噛み殺して生きていかなければならなかった。つらくても進みたくなくても、消えてしまいたくなっても。けれど、もうこんなハズレしかない海の底みたいな真っ暗な人生だったら、いっそのこと、放り投げてしまったほうがいい。自分なんかこの世に生まれてこなければよかったんだと、彼女は涙を流しながら無心で夜道を歩き続けた。そして気が付くと彼女は、電車の踏切のまえに立っていた——。
第一章 完