学校が夏休みに入った土曜日の昼下がり。バスケ部の練習は、本日午後からの予定だ。
昨晩の電話で一緒に練習に行こうと約束した私は(私は野次馬係だけど)先ほどからずっと、幼なじみ兼、彼氏(付き合って約三ヶ月目)の家の前で待っているのだが、なかなか姿を見せないその相手に、私はやれやれと肩を落とした。
彼の部屋がある二階の窓をそっと見上げて「きっとまだ寝てるんだろうなあー」なんて呟きながら仕方ないと溜め息を吐いた私は、三井宅のインターホンを鳴らした。
—— ピーンポーン。
いつも、だいたいは彼本人のぶっきら棒な返事が中から聞こえてくるのに今日は彼の母親の「あら名前ちゃん」という、よそ行きの声がした。
「ひさし、まだ寝てるのかも。部屋行って起こしてやって」
なんてお使いを頼まれたがとりあえず二階にあがらせてもらいその扉の前でひとつ深呼吸をした。
—— コン、コン、…… コン。
せっかちに荒々しくドンドンと叩きがちな私に「静かにノックしろよ」と以前、部屋の主に怒られ、それ以来実行しているこの行為。暫く待ってみたがやはり中から返事は聞こえてこない。私はそのままドアノブに手をかける。ガチャ……と開いたドアの先には、案の定予想通りの光景が目に入ってきた。
「……やっぱりね。まだ夢の中ですか。」
私はくすっと、小さく微笑して彼が寝ているベッドのほうへと近付いていく。彼が横になっているベッド脇に座り、ベッドの縁に頬杖を突いてその寝顔を眺めていると私の顔は自然と優しく微笑んでしまう。相当疲れているのだろう。全く起きる気配を見せない彼氏、三井寿の無防備な姿。
「試合続きだったからなあ……」
しばらくそうして寝顔を眺めていたがふと時計を見るともうお昼を過ぎるころ。もうすぐバスケ部の練習開始の時間だ。可哀想だけれどこの疲れ果てた戦士を起こさなければならない。
「おーい、ひさしくーん。そろそろ起きないと、練習に遅刻しますよー?」
最初は少し遠慮気味に声を掛けてみた。当然この程度で起きるはずもなくそりゃそうだよなと苦笑すると、今度は肩を揺すってみた。
「ねぇ寿。ほんとにもう起きて。起きないとマジで遅刻する」
「……スー、スー」
「…… ねぇ、」
「……ん、……っ」
くぐもった声を発しただけで、その目はまだ堅く閉じられていた。もうっと思わず頬を膨らまし、私は少し寝癖の付いた彼の短い前髪を、つんっと引っ張ってみる。それでもさっきのような曖昧な声を発するだけで全く起きようとしなかった。
「……このまま起きないつもりなら、悪戯しちゃうよ?いいのか?」
茶化すように声を掛けるけれど、やっぱりその目は閉じられたままだった。私は片肘で頬杖を突きながらもう片方の手で彼の鼻をむぎゅっと抓む。
すると彼は苦しそうに顔を歪めるもののそれでもまだ眠りの世界から目覚めようとはしなかった。その後も頬を突付いたり、むぎゅっと抓ってみたり……。結局どんなことをしても起きそうにない彼に対し、私はどうしたもんかと頭を悩ませる。
「ここまでしても起きないなんて……、そんなに疲れてたの?」
寝ている相手にそう問い掛けたのと同時に、私の指は無意識に彼の左顎にある傷跡を撫でていた。
「よく見るとこの傷跡……なんか色っぽいなあ」
そこまで口を衝いて、ハッとした。なっ、なにを口走ってるんだ私は……っ!急激に上昇してくる自身の頬の熱。恥ずかしさに顔を真っ赤にしながら彼を見下ろしてみると、先ほどまで普通に見れていた彼の顔がやけに色気が増しているように見えてきた。どくんっどくんっと高鳴る鼓動と共に私はある衝動に駆られてしまった。
(キス、したい……なあ。)
恥ずかしいと思いながらも、私の視線は彼の唇に釘付けになった。
「ね……ねぇ、ひさし……」
「………」
「今すぐ起きないと……」
「………」
「……、キス、しちゃうよ?」
小さく言って私はゆっくりと彼の顔面に近付いていった。
頭と身体がふわふわする。ここは……、どこだ?しばらくぼーっとしていたらどこからか優しい声が聴こえてきた。
『ねぇ寿。ほんとにもう起きて。』
(……ん、名前、か……?)
『起きないとマジで遅刻する』
遅刻……?……あぁ、午後から練習だっけか。 クソ、身体が重いぜ……そんなことを思ってたら髪やら鼻やら頬やら。あらゆるところに柔らかな感触と共に痛みを感じる。ぅ……ヤメロ……、痛てぇだろーが……その痛みを払いのけようと腕を動かそうとしたけれどなぜか身体が重くて上手く動かせらんねえ。
『ここまでしても起きないなんて……、そんなに疲れてたの?』
疲れてる……?……あぁ、確かにそうかもしれねえ。ここんとこ、立て続けに試合だったからな。まるで遠いところから聴こえてくるみたいな名前の声に、そう頭の中で反応していると、ふと顎が優しく撫でられていることに気付く。
(や、ヤメロって……く、くすぐってぇ……。)
『よく見るとこの傷跡……なんか色っぽいなあ』
……あぁ?名前の奴、いったいどんな面してそんなこと言ってやがんだ?気になった俺は重い瞼を開けようと必死で。名前のいまの顔をどうしても見たいと必死で。
『ね……ねぇ、ひさし……今すぐ起きないと……キス、しちゃうよ?』
小さく聴こえた、そんな誘惑の愛しい声。名前が恥ずかしがっているのが、目を閉じていてもわかった。そしてゆっくりと、俺の視界が影のようなもので覆われると、その瞬間、俺はニッと無意識に口端を上げた。
「……出来るもんならやってみやがれ」
あと数センチで唇同士が触れるというところで、名前の動きはぴたっと止まる。
「(え。い、いまのって……)寝言……?」
ゆっくりと。私は閉じていた自分の目を恐る恐る開けてみた。すると私の目に移った光景は楽しそうに口角を上げた寿が、ゆっくりとその重そうな瞼を開けた瞬間だった。
ビックリしてまるで固まったまま動けずにいる名前。そんな彼女をしばらくぼーっと見つめていた俺だったが、次第にその顔は完全に覚醒したものに変わっていく。今の状況にハッと我に返った名前が、慌てて距離をとろうと身体を離そうとしたとき、俺の左手が素早く名前の腕へと伸びて、その細い腕をガシッとつかんだ。
「どこ行くんだよ」
「え、あ、……その」
「……キス、するんじゃなかったのか?」
「……っ!!やっ……起きて、たの…?」
恥ずかしさに、かぁぁぁっと顔を真っ赤に染めていく名前をこんなに近くで眺めているというのも悪くねーな。そんなふうに思いながら俺は、つかんだままでいた名前の腕をぐいっと引き寄せ、強引に自分の身体の上を跨がせる。その突然の行動と今自分が俺の身体に跨って俺を見下ろしているというこの状況。名前の頭は多分パニック状態でこれ以上にないというくらいに顔はもちろんのこと首までも真っ赤にしていた。
「いや、起きてたっつうか……頭は起きてたんだけど、体が動かせなくてよ」
「……」
俺の言葉に名前は何も返さなかった。顔を真っ赤に染めて、何をどう返していいのか分からずに目に涙を溜めている名前に、俺の胸は柄にもなく、きゅんっと高鳴る。
「……で、いいのか? キスしなくて」
「……っ、ぁ、あれはっ、その……寿がなかなか起きないから……」
「……。」
「……」
「この傷跡が色っぽい……じゃなかったっけ?」
左顎の傷跡を指でなぞってニッと笑みを浮かべる彼の顔は、先ほどよりも、もっともっと色気が増して、私はもう目の前がクラクラしてくる。この色気には勝てない。私は観念する他にどうすることも出来なかった。
俺に跨ったまま、身体ごとゆっくりとその距離を縮めてくる恍惚の表情を浮かべる名前に、俺もまた、そんな名前に見惚れていく。ゆっくりと口付けられた唇は熱くて、呼吸するために開けられた名前の口の隙間に俺がすかさず舌を差し込んだ。
「ふっ…… ンッ…」
逃げようとする名前の舌を捕まえて絡めとると次第にそれがぎこちなく応えてくれる。そんな名前の必死な様子が可愛くて愛しくて、俺はくるっとその体勢を逆転させた。
寿から振る口づけに酔っていた私が、今の状況に気付いたのは、彼のキスが首元から鎖骨に移動した瞬間だった。
「や…っ、……ひ、ひさ、し…っ!」
「……ここまできたらもう、我慢できねえ」
言って名前の胸の膨らみに手を添える。その瞬間びくんっと体を揺らした名前は、羞恥に涙を浮かべて俺を見上げた。
「……ンな顔されたら、こっちは余計煽られるだけだっつの」
「そ、そんなこと……っ」
この行為を止める気なんて更々ない彼は、私の着ていたTシャツの裾をたくし上げてその肌に直接触れた。ちょうど、そのときだった。
—— ジリリリリリリッ!!
部屋中に鳴り響いた目覚まし時計の音に二人の体がパッ、と揺れた。ゆっくりと二人の視線が同時に少し離れたところにある目覚まし時計に注がれそしてなんとも言えない複雑な顔をして目の前の人に視線を戻す。そんなお互いの顔を見て、二人は何かが弾けたようにプッと吹き出して笑った。
ひとしきり笑ってから寿はベッドから立ち上がりいまだ鳴り響く目覚まし時計をオフにすると床に置いてあったクッションの上に乱暴にそれを投げ捨てた。
「……ったく、いいとこで邪魔しやがってよ」
「……もう。目覚まし時計に当たんないの。寿がこの時間にセットしたんでしょー?」
そう言った名前は笑いながら乱れた衣服を直していた。そんな名前にドキッとした俺はわざとらしくゴホンッと咳払いをする。その音で名前が不意に俺を見やる。
「なぁ……さっきの続き……」
「ダメ。練習に遅刻してもいいの?」
「ぐっ……」
バスケを盾にされると俺は弱い。うぅぅっと唸り声を上げて諦めるしかないのだ。そんな俺を見てフフッと微笑み、名前はポンポンと俺の腕らへんを軽く叩く。
「ほら。早く用意しないと本当に遅刻しちゃうよ?」
「……あーあー。わーってるよ。」
複雑な表情を浮かべて、後頭部をガシガシと乱暴に掻きながら部屋をあとにした彼の背中を見送って、いまだにベッドに座っている私はしばらくその場から動けずにいた。
「……マズイなぁ。どんどん寿のペースに流されてくよ」
はぁぁっと溜め息混じりに呟かれたそんな言葉はもちろん彼氏の耳に届くことはなかった。
俺は洗面所で顔を洗って、うがいをして……この元気になってしまった息子をどうしようかと頭を捻る。はああああーと大きく溜め息を付きながら二階へと上がる最中に、リビングで誰かと電話していたらしい母親から「若いのに溜め息ついてるわ」と揶揄われる始末。
思わずチッ、と舌を打ち鳴らして、先ほど寸止めを喰らわされた彼女のいる俺の部屋のドアを勢いよく開けた。
キス だけで
足りるかっつーんだよ!!
(……おい、名前)
(うわ!びっくりしたー。急に入ってこないで)
(練習終わったら、また家来るよな?)
(え……、いいよ?来ても。)
(よしっ!早く練習行こうぜ!!)
(盛りのついたサルめ……)
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