「名前。」

思わず言葉が漏れたのは、いままさに目が合ったヤツの名前だった。

昼休み明け、五時間目。彼女のクラスの授業は、体育だったらしく窓際の席、グラウンドを見ると生意気な一個下の後輩と我らがバスケ部のマネージャー彩子に挟まれるように立っている、ひとりの女子生徒の姿に目がいく。言わずもがなそれはいま目が合ったばかりの俺の彼女だった。

その彼女の名前がぽろっと口から零れてしまった俺だったが、三年三組の教室内で声を張らしている担任にすらそれは聞こえてなかったみたいで、まさかその俺の声がグラウンドに届くはずもないだろうに、名前の口元にはまるで俺の声が聞こえたみたいに、緩やかなカーブが描かれた。


「名字!それお前のジャージじゃないだろ!」

グラウンドにいる体育の教師の声がやたらと響き渡る。何だアイツ、怒られてやんの。俺は頬杖をついてそんな体育教師と自分の彼女のやりとりを眺めていた。自然と俺の頬も緩んでしまう。

ああ、今日はいい天気だな……。

「忘れ物にカウントするからなー」
「待って先生!」
「言い訳は聞かんぞー」
「今日だけケッコンしてるので水戸でーす」


………あ?

彼女の声がここまで聞こえてきたと思った瞬間、二年一組の奴ら全員がドッと沸いた。隣に立っている宮城まで両手を頭の後ろに組んでケラケラと笑っている。

つか、いまアイツ、
なんつった……?








「水戸くん! ジャージありがとー!」
「お、どうやら何とか乗り切ったみたいだな」

いつもの放課後の部活中。体育館の入り口にいる野郎軍団と赤木の妹ら。それに、俺の彼女。その名前は畳んだジャージを水戸に差し出している。そんな二人のやり取りを、人を殺す目で見ていた俺に宮城が声を掛けて来る。

「あ、そーそ。今日名前ちゃん体育着忘れたんだってさ。そーいうとこ抜けてて可愛いよねー」
「……」
「んで、昼休み購買で偶然会った水戸から借りたらしーよ」
「……」
「案の定、センコーから怒られてたけどねっ」
「……へえ。」

こんなに視線を送っているのにまったくこっちを見やしねえ俺の彼女。宮城は伝えたいことを言い終えたのか、桜木の元へと走って行った。


「今日の私は名字じゃなくて水戸名前でしたっ」

「あン?」

聞き捨てならない台詞が聞こえてきて、思わず、その場でドスの効いた声を漏らしてしまう。側にいた安田や二年の奴らが小さく「ひぃ、」と身を引いていた。

それでも肝心のあいつは、俺の不機嫌さには一切気づきもしないで野郎軍団らと楽し気に笑っている。……ふざけんな、やりすぎだバカヤロウが。








その日の帰り道、寿の様子がおかしかった。いつだって素直。自分に上手く嘘がつけない、それが彼だった。

自分が何かしたんだろうかと、今日一日の自分の生活を頭に思い浮かべてみる。私は、さっきからずっと隣で口を閉ざしたままの彼氏の横で、無い頭を一生懸命ひねっていた。

寿は焼餅焼きなので私が少しでも男子と話すだけでいちいち拗ねる人だった。だからいつも男子に話しかけられた日には、さんざん、なだめまくるものだ。「自分だって女子と話すでしょ」って。

しかし今日は違った。二人とも特にお互いが気に触るようなことはしていないはず……。なのに、何故なのか?


江ノ電は、二人をかたんかたんと揺らしながら、最寄り駅まで走る。私が、ちらりと右にいる寿を見ると、寿は瞬きすらしないで、両手を、制服のズボンのポケットに入れて俯いたたまま、ずっと一点を見据えている。

最寄り駅に着き、自分たちを乗せてくれた江ノ電に別れを告げ、微妙な距離をとりまく空気の中、二人で改札を出る。そして私たちは毎日のように互いの家があるほうへと向かう。通常であれば、寿の家よりも奥にある私の家の前まで寿が送ってくれるのだが、しかし今日はどうなんだろうか。

時間も早いわけではない。ましてや寿は、部活もある。しかし寿は私が家の前まで送ってくれなくてもいいと言うと、必ず怒る。だから、どんなに私が断ったって、向かうさきは必ず寿の家を通り越した先にある私の家なのだ。

でも今日はちょっと違うかも知れない。寿の家の前に辿り着いた途端に、しれっと自分の家に入ってしまいそうだ。そんな雰囲気が満載で、思わず私は苦笑いを浮かべる。


なんの会話もないまま道を歩く。手も繋がない。奇妙なことだろう、はたから見れば。しかし、私たちは正真正銘のカップル、な、はず……。

帰り道には歩道橋があり、酒屋さんがあり、駄菓子屋さんがあり……海があり、踏切がある。ほかにもたくさんあるが、二人でこうして帰るとき、特に特別になるのが上にあげたものだった。

歩道橋を手を繋ぎながら歩き、駄菓子屋さんでアイスを買って踏切で待つ間は照れくさくて何故か照れ笑い。そうやって着くのが、私の家だった。

しかし今日は、そんないつもの光景が嘘のように過ぎていく。いつも会うおじちゃんも駄菓子屋のおばちゃんにも、声を掛けられても寿は見向きもしない。こんな寿は、本当に初めてだった。


「寿……」

私が今日はじめて、彼の名を呼んでみたりする。呼ばれた彼は無言だった。反応もなくただ自分の目の前をいつもみたいに歩くだけだった。両手は未だにポケットの中。どうやら今日の彼は、手を繋ぐ気もないらしい。

「寿、」

もう一回呼んでみた。しかし、反応はない。私はだんだん、わけがわからなくなってきた。第一、らしくない時は大抵なにか壁にぶち当たったときだ。寿はそういう男だ、昔っから。

「……寿、怒ってるの?」

一抹の疑問を、そっと口に出してみる。すると、よくやく寿は、ぴくりと反応を示した。

「怒ってねーよ」

今日はじめて彼の声を聞いた私は嬉しかったし、そしてすこし安堵もした。とりあえず、怒ってはいないらしい。声は低くて冷たいけど。

「じゃあ、なんで黙ってんの?私、何かした?」

私がそう言うと、寿の足はすこし速まった。私はそれに気付くと小走りでついていく。

「待ってよ、やっぱ私がなんかしたんじゃん!」

そこでそうなるということは、と私は確信する。でも寿は、変わらず私の前を歩く。その背中は、私に何かを語っているのかもしれない……しかし私には、それが何なのか、さっぱり見当もつかない。

「ねえ! 寿ってばっ!」

何度名前を呼んでも振り返ってすらもらえない。いつも二人で待つ踏切が今日のこの時間は開いていた。またしても、立ち止まる術はない。何だか神様にも見捨てられた気分だ。

「寿っ」

このまま渡ってしまえば。きっとこんな不可思議な状態なまま、彼の家に着いてしまうであろう。


「寿!」

二人の後ろを、一台の乗用車が通り過ぎた。寿が線路に足を踏み出そうとしたその瞬間、私は咄嗟に、寿の腕を掴んでいた。それ以上、前に進めばきっと、戻れないと思ったから——。

寿の腕を掴んでも寿は私を一瞥もしない。反動で立ち止まってはくれたけれど、寿は私に背を向けたままで、その視線は、ずっと足元に落とし込まれている。

「……寿は、いいの?」

私は寿に詰め寄った。どきどきする。いつもの、寿じゃないから。私には優しいはずの寿が今日はどこにもいないから……。

「何が」

寿はそっと顔を上げて前を見たまま、そう返す。私は泣きだしそうになる気持ちを必死に抑え込む。

「私に……、言いたいことあるんでしょ?」
「……」
「このまま黙ってたら何も変わらないよ?それでもいいの? 寿は、それでいいの?」

ややあった沈黙のあと寿が小さく舌打ちをする。そしてハァと溜め息をついた。心底、めんどくさそうな感じで。

「……ジャージ、」
「え?」
「ジャージ忘れたんなら、何で俺のとこ来ねーんだよ」
「え……」

まさか——、そんなことを言われるとは、夢にも思ってなかったので私は言葉に詰まってしまう。だが、それが悪かった。何も返答してこない私を不快に思ったのか、寿はまたもう一つ、舌を打ち鳴らした。

「水戸から借りて、なんだって?今日の私は名字じゃなくて水戸名前でした、ってか」
「……」
「同じ校舎内にいてよ、見てねぇとでも思ってんのか」
「いや、そんなつもりじゃ——」
「てめぇ、いつも声でけーんだよ」
「……ごめん。」
「……。別に、おまえが誰と結婚しようが、俺の知ったこっちゃねーけどな」

そう吐き捨てて歩き出そうとした彼の腕を、もう一度逃さないようにと思い切り掴み直して自分の方へ引くと不意に風が吹いた。潮の匂いがする。


「そんなこと……本当は思ってないよね?」

警報機が鳴り、遮断機が私たち、二人の目の前を降り始める。

「……」
「説明もさせてくれないの?そうやって投げやりになって、また勘違いしたままやり過ごすの?」
「……」
「ちゃんと向き合わないで、逃げるの——?」

いつまでたっても私の目を見ない背を向けたままのそんな素直じゃない彼に私は声を張り上げて、無人の踏切前で叫んだ。

「そんな寿、だいっきらい!」

叫んだとき私の目に映ったのは横切る快速電車と彼の腕を引いたはずの自分の腕と、それを掴む、寿の腕と、視界に広がる、寿の広い胸——。


「うるせぇよ」

その合間に何かを呟いたのは寿だった。快速電車が通り過ぎると上がる遮断機、渡る車に歩行者。

「……」
「……」

抱きしめられた格好のまま、私は動けなかった。

「——ひ、さし」

そっと名前を呼ぶと私を抱きしめる寿の腕の力が増した気がした。


「……俺よ、」

顔を、寿の胸からゆっくりと離すと——、


「今日、お前のこと……帰せねぇわ」

泣き出しそうなくらいに目を滲ませた、寿の顔が目の前にあった。


——例えば自分が、相手の全てを欲しいと思ってしまったとき。

いくら言葉が自分を好きだと言っても。どんなに身体を重ねても、満たされることのない、不安。

渦巻いた感情の行き場のない不信感。異性と話すだけでなく、ましてやありきたりの日常の中に、同性であるのにそばに居られてしまう、自分じゃないほかの、誰かにすらも——。


「帰せねぇよ……」
「……寿?」
「帰したく、ねぇ」

こっちは好きすぎておかしくなっちまったんだ。


——独占。その文字はまぁよく考えられたもの。漢字は上手く意味を表す。『独』り『占』め。 読めばそう、まるで子供の我儘ような言葉。

しかし、それもまた人間の性。子供であれ大人であれ、結局は同じホモサピエンス。ただの人間。最終的には、そこへ行き着いてしまうのだ。


このまま彼女をさらって、逃げ込んで。そのままずっと、離したくない。

髪も、鼻も、耳も、唇も、頬も、首も、肩も、腕も、手も、脚も、瞳も、指先の最後すらまでも、全部閉じ込めて。自分だけのものにしたい——。


「……」
「……いいよ。」
「……」
「寿がそう、望むなら——。」
「……っ。」

遮断機が遮った、理性と現実の狭間。前に進めばもう戻らない。『独』り『占』めしたい。そんな本能が——。

ごめんな、こんな俺で。

でも、狂ったように名前を、独占したいんだ。










 自己満足の 忠誠 など必要ない。



(あ、三井サンじゃん。何しに来たの)
(あ?名前にジャージ貸しに来たんだよ)
(えっ? 寿、きょう体育ないけど……)
(知らね。ほらよ、ちょっとでけーと思うけど)
(え……。ちょ、いらないってば!)
(うっせ! いーから持っとけ、じゃーな)
(え、えぇ……)
(三井サン、サイコすぎ……怖っ。)

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