指先だけで、そっと(3/3)

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     翌日。桜木くんにも、そろそろ疲れが顔を出す頃だろうと気を揉んだ晴子ちゃんが、練習のあと縁日に行かないかと声をかけたらしい。らしい、というのは、私は、その場にいなかったからだ。あとで聞いた話によると桜木くんは水戸くんたちに対して「絶対に来るな」と念を押したそうで、その結果、彼らは「じゃあ隠れて行くしかねーな」と、揃って、偵察部隊に転じたのだという。まったく、どこまでも騒がしい人たちだ。
     私も、晴子ちゃんから誘われはした。けれど、あの場に私がいたらどう考えても余計な存在だ。桜木くんの視界に入るだけで空気が揺れそうで、丁寧に、心からの応援だけを添えてお断りした。そのやりとりを見ていた大楠くんたちが俺たちと行かないかと声をかけてくれたのは、その、直後だった。少し迷った。正直に言えば、桜木くんと晴子ちゃんの行方を見届けたい気持ちが胸の奥で小さくうずいていたのも事実だ。けれど変な形で割り込むのも違う。最終的には、向こうと合流しなければ、それでいい。そう自分に言い聞かせて私は、桜木軍団の末席に加わることにした。

     練習後はいったん解散し、夜に、神社の近くで再集合、という流れになった。せっかくなので、浴衣も頭をよぎったけれど、ひとりで着る自信はないし、さすがに寿のお母さんに頼む勇気もない。結局、少しだけ気合を入れた私服を選び待ち合わせ場所へ向かった。境内の灯りが見えてくる頃には、もう桜木軍団は集まっていて、私の姿を見つけるなりやけに朗らかな顔で迎えてくれる。その輪の中に入った瞬間、ふと思い出した。寿にちゃんと連絡しておいたほうがいい。
     内容に悩んで立ち止まっていると、水戸くんが覗き込んできて、軽く肩をすくめる。

    「花道と晴子ちゃんの偵察に行くって素直に言いな?」

     あまりに自然な提案に思わず納得してしまった私は、そのまま指を動かした。


     ――――――――――――――――

      🕑 7/27 20:41
      FROM 名字 名前
      件名
      本文

      今日、近くで縁日があって
      晴子ちゃんが桜木くんを誘う
      という事件が発生したため
      桜木軍団と偵察に行ってきます。

      返信不要だよー。(寿の真似)
      ゆっくり休んでね!  

     ――――――――――――――――


     最後に「返信不要」と付け足したのは、ほんの小さな保険だった。どんな内容でも、寿が素直に面白がるとは思えない。だからあらかじめ距離を引いておく。私なりの、ささやかな配慮。
     ちょうど、その頃。軍団の面々はタコ焼きやら綿あめやらを手にしていて頭上では祭りの始まりを告げるように、花火が夜空を割った。どん、と腹の奥に響く音。続けて、色とりどりの光が広がる。みんなが見上げて、歓声をあげる中、私はというと、花火を眺めているふりをしながら、水戸くんのイチゴ飴をちゃっかり拝借していた。

    「名前さん、自分でリンゴ飴買ってただろー?」
    「だってー、水戸くんのイチゴ飴のほうが美味しそうだったんだもん」
    「そういう問題?」

     ハハハと呆れたように笑って、水戸くんがまた空を見上げた、そのとき。ポケットの中で携帯が震えた。イチゴ飴を持ったまま画面を開いて息が止まる。寿だ。返信不要、なんて書いたくせに。胸の奥が花火とは別の音を立ててひどく騒がしくなった。

    「はーい、もしもし?」
    『おいおい、桜木と赤木の妹って、どういうことだよ』

     耳元に届いた寿の声は思ったほど荒れてはいなかった。怒っているというよりどこか声を潜めた調子で、ひそひそとした緊張が混じっている。
     ——ああ、なるほど。リョータくんに何か言われて、状況確認に走らされたか、あるいは近くに赤木先輩がいるか。そのどちらかだろう。私は、少しだけ声のトーンを落として、練習中に起きた桜木くんと晴子ちゃんのやり取りを、思い出せる限り順を追って説明した。けれど背後では花火が遠慮なく鳴り響いていて、話すそばから音が被さる。

    『うっせーな……花火かよ。聞こえねえ』
    「ごめん、ごめん。えっとね——」

     文句を言われつつも、私は構わず話を続ける。どうせ切られるなら、伝えたいことだけは伝えておこう、そんな半ば意地みたいな気持ちで。

    「なあ、名前さん。もう……離してよ」

     不意に背後から低い声。振り向くと水戸くんが花火を見上げたまま後ろ手に私のほうへ手を伸ばしていた。どうやら私が持ちっぱなしのイチゴ飴を返してほしいらしい。電話中だということにはまったく気付いていない。

    「えぇ……やだ」
    「もう……ダメ」
    「だって、水戸くんの、これ……おいしい」
    「……はは」

     私がイチゴ飴と一緒に持っていたリンゴ飴を、その手に押し付けると水戸くんは一瞬だけ手元を見て、それから、諦めたように受け取った。まだ誰も口をつけていないリンゴ飴を、どこか納得のいかない顔で舐めながらまた夜空へ視線を戻す。その横顔が、花火の光で、ゆっくりと色を変えていく。

    「あ、ごめんね、寿。えっと……どこまで話したっけ?」

     返事がない。嫌な予感がして、耳元の携帯に、意識を戻す。

    「あれ? もしもーし?」
    『……おまえ、いま、どこにいるんだよ』

     声の温度が、さっきとは違っていた。低くて、静かで、妙に重たい。

    「え? だから、お祭り。縁日来てて」
    『信じらんね……なんの嫌がらせだよ』
    「え? なに? ちょっと、聞こえない——」
    『もういい。話すことねえ。……切る』

     言い終わるより早く、通話は一方的に遮断された。耳に残ったのは、花火の音と、無機質な通話終了音だけ。

    「え!? もしもしっ?」

     反射的に声を出してみたものの、当然、返事はない。画面を見つめたまま、私は小さく首を傾げた。最後の寿の言葉は花火にかき消されて、はっきりとは聞き取れなかった。
     ——なんだったんだろう。怒っていたような、そうでもないような。けれど、胸の奥に残るのは針でつつかれたみたいな、ちいさな違和感。そのうち落ち着いたら、かけ直せばいい。そう自分に言い聞かせて、私は携帯をポケットにしまった。夜空では、次の花火が、何事もなかったみたいにまた大きく咲いていた。


     *


     呆然としたまま、宿泊部屋の廊下の壁に背中を預けて立ち尽くしていた俺のところへ、やたらと軽い足取りで宮城がやって来た。

    「三井サン、どう?聞いた?花道と晴子ちゃんの真相〜♪」
    「……」
    「三井サン? おーい、生きてるー?」
    「……それどころじゃ、ねえんだよ」
    「へっ?」

     力が抜けたみたいにずるずると壁沿いに滑って床へ座り込むと宮城がさすがに様子がおかしいと思ったのか少し慌てた顔で同じ目線までしゃがみ込んできた。

    「え、なに? どしたの? なんかあった?」
    「宮城……」
    「はいっ?」

     ゆっくり顔を上げる。目が合った瞬間、なぜか宮城が反射的に半歩引いた。

    「水戸くんの��おいしい�≠チて……なんだよ」
    「はあぁ?」

     宮城の口から素っ頓狂な、間の抜けた声が飛び出す。

    「離して、ヤダ、ダメ、おいしい……からよ?」
    「う、うん……?」
    「……連想、すンだろ」
    「……あ、ああ……まあ……フェ——」

     そこまで言って、宮城は言葉を濁しつつ、俺の顔色を窺う。それが逆に腹立たしくて、俺は頭を抱えた。

    「やめろ、続きを想像させんな!!」
    「自分で聞いたくせに!」

     宮城が膨れた声を出す。俺は「信じらんねえ」だの「ありえねえ」だの、意味のない言葉を吐き散らしながら、両手で頭をぐしゃぐしゃとかきむしった。

    「ちょ、待って? どんな状況だったの、それ」
    「……花火の音がしてた」
    「えっ……まさか……青姦、」
    「だから違ぇっての!お前、想像が一直線すぎんだよ!」

     思わず顔を上げて睨むと宮城は「だってさ」と困ったように口をつぐむ。俺はまた視線を落とした。胸の奥が、じわじわと重くなる。宮城は黙り込みつつも、何かを整理しようとするみたいに、ひとりで、ぶつぶつ考え込んでいる。

    「水戸くん……え!? その呼び方すんのって」
    「ああ。名前だ……」
    「ええーーーーーーーー!!!!!」
    「うっせー!!」

     反射的に耳を塞いで顔をしかめると宮城が肩をすくめた。

    「待って待って!わっかんねえって……え、どーいうこと? てか、どーいうシチュ?」
    「待て待て、俺だって混乱してんだよ。普通に、桜木の話してただけなんだぜ?」
    「……まあ、そういうテクの人もいるからねえ。ほら、普通に電話しながらエッチしたりさ?」
    「お前、その知識、どっから仕入れてんだよ……妙に生々しいんだよ、童貞のくせして」
    「なにそれ、最後の一言いらなくない? 地味に傷つくんだけど」
    「はぁぁ……」

     深く息を吐いて天井を仰ぐ。自分でも情けないくらい胸の内がぐちゃぐちゃだった。嫉妬だってわかってる。勝手な想像だってことも頭では理解してる。それでも、耳に残ったあの言葉が、どうしても離れない。

    「……なあ、宮城」
    「ん?」
    「俺よ……」

     そこから先の言葉が喉の奥で絡まって動かなくなった。吐き出せば少しは楽になる気もするのに形になる前に全部が崩れてしまう。宮城は、何も急かさず、ただ隣にしゃがんだまま、俺の沈黙をそのまま受け取ってくれていた。

    「なんか……もう、ヤダ。俺」
    「三井サン、完全に子犬ちゃんじゃん。しょんぼりしすぎ」
    「笑うなよ……もう勘弁だって、ほんと……」
    「勘違いじゃねえの?……って、言ってやりたいけどさぁ」

     宮城は、少し考える間を置いてから続けた。

    「そこまでリアルな会話聞かされてちゃ慰めにもなんねースね」

     そう言いながら、なぜかずっと俺の背中をさすってくる。普段だったら「やめろ」だの「気持ち悪い」だの言ってるところだが今日はそんな気力すら湧かない。指先の動きが、やけに現実的で、逆に、落ち着いてしまう自分が情けなかった。

    「おいしいって……なんなんだよ……」
    「え、まだそこ引きずってんの?」
    「俺、一回も言われたことねえぞ……」
    「あーはいはい、そういうセンパイの自己申告は聞きたくねーっス、オレ」
    「おいしいってよ……」
    「しつこ! どんだけ刺さってんの、それ!」

     宮城がとうとう耐えきれず、ケタケタと、笑い出す。こっちは今にも泣き出しそうな気分だってのに。笑い声が廊下に溶けていくのを聞きながら俺は天井を仰いだ。自分でも驚くくらい胸の奥がぐしゃぐしゃだ。嫉妬だとか、被害妄想だとか、そういう理屈は全部わかってる。それでも、耳に残った言葉一つで、ここまで振り回される自分が情けなくて、腹立たしくて。でも、どうしようもなかった。
     こんなんで、残りの合宿。まともに集中できんのかよ、俺——。そう思いながら、背中をさする宮城の手を、振り払う気にもなれずにいた。


     *


     結局あのあと寿は電話に出なかった。メールも何通か送ったけれど、返信もない。もう一度だけ電話をかけてみたものの、やっぱり、繋がらず、そのうち電源が落ちたという無機質な案内に切り替わった。充電器を忘れたのかもしれない。練習続きで、くたくたで、眠り込んでしまったのかもしれない。そうやって、理由になりそうなものをいくつか並べてから、私はいったん頭の中を区切った。考え続けても、ここで出来ることは、何もない。残りの日数は、桜木くんのサポートに集中しよう——そう、自分に言い聞かせた。
     しかし、それほど不安にならずにいられたのはあの夜、寿とちゃんと「会いたい」と言い合って「好きだ」と確かめ合えたからだと思う。言葉にしてもらえた安心感が、思っていた以上に大きかったのだ。
     結果的に、その判断は、間違っていなかった。一週間、桜木くんの練習に付き合い、間近で彼の成長を見て笑って、時々呆れて。気づけば、驚くほど濃くて、楽しい時間が過ぎていた。本当に、いい経験をさせてもらったと思う。彼は、きっと大物になる。そう確信できるくらいの集中力と、伸び代を、あの背中は、毎日見せてくれた。そのシュート練習を、こんな距離で見守れたことを、私は素直に誇らしく思っている。
     そして今日。二万本への挑戦、最終日。時刻は午後一時五十分。

    「長かったな」

     水戸くんが労わるような落ち着いた声で言う。

    「まる一週間」

     高宮くんはビデオカメラを構えたまま、未来のスターの最後を逃すまいと、目を輝かせている。

    「ああ、長かった」

     大楠くんと野間くんもそれぞれ静かに頷いた。晴子ちゃんは、もう、感極まってしまったのか、目を潤ませたまま、小さく「ほんと……」とだけ零している。

    「はい、桜木くん。ラストワン!」

     晴子ちゃんの声とともに、最後のパスが出される。桜木くんは、しっかりとボールを受け止め、一瞬だけ、それを見つめた。

    「最後のシュート……」

     そう呟いて放たれたボールは迷いのない軌道で高く弧を描き、シュポッ、と、乾いた音を立ててゴールに吸い込まれた。

    「やったー! 二万本だあ〜!!」

     その声を合図にみんなで一斉に歓声を上げる。その瞬間だった。ガラガラガラーッ、と体育館の扉が勢いよく開き、「ちゅーす!」という、聞き慣れた声が、場違いなほど元気に響き渡る。振り向けば予想通り、湘北高校バスケ部のみんなが、並んで立っていた。

    「安西先生、ただいま帰りました」

     赤木先輩の報告に安西先生はいつもの穏やかな笑みで「ほう、みんな焼けましたねえ」と嬉しそうに迎える。

    「常誠に一勝一敗、一分けでした、先生」

     木暮先輩の言葉に安西先生は「それはそれは」と感心したように頷いた。桜木軍団の一員として野次担当に徹していた私は、何気なく視線を送った。すると——寿と、目が合った。……と思った瞬間、彼はあからさまに視線を逸らした。あれ?と思って首を傾げ、今度はリョータくんを見る。すると彼もまた、なぜか私と目を合わせる前に、すっと顔を背ける。
     ——え。私、なにかした……?胸の奥に小さな引っかかりが残ったまま体育館のざわめきだけがいつまでも耳に残っていた。

     ダメだ。
     どうしても視線が、彼女の口元か、水戸の腰のあたりに吸い寄せられてしまう。意識すればするほど、余計に。これじゃあ俺がただの変態みてえじゃねえか。宮城も、あからさまに目を逸らしてやがるし。まあ、他人のこと言える立場じゃねえのは百も承知だが。
     気分が悪い。胃のあたりが、じわじわと重くてむかつく。しかもだ。ちゃんと、ふたり並んで、出迎えるわけだ。何事もなかった顔で。
     ああ、そうですか。もう、「なかったこと」にして、堂々としてやろうって腹か。ふうん。なるほど。……上等じゃねえか。
     結局、その日はそのまま解散。明日の二時からインターハイ前の総仕上げだと赤木に告げられて各自家路につく流れになったのだが——なぜか、当たり前みたいな顔で、俺の隣を歩いているのは幼馴染も彼女だった。

    「おい」
    「ん?」
    「約束、忘れたなんて言わねえよな」
    「忘れてないってば。ほんと、しつこいなあ」

     帰り道——彼女は��あの話�≠ノは一切、触れてこない。俺たちの会話は、さっきから、このやり取りばかりで、妙に噛み合わない。

    「……なあ」
    「なに?」
    「単刀直入に聞くけどよ」
    「うん?」
    「……舐めるの、好きなのか?」
    「……!? な、なに、突然……」

     口に出した瞬間、自分でも、最悪だと思った。彼女の声も震える。それでも、止まれなかった。勝手に頭の中で全部を決めつけて、勝手に傷ついて。でも、どうしようもない。もう止まらないのだから。どうせ最後は「実はね」なんて言われるんだろ。遠征中の彼氏を放ったらかして、外で。——ああ、そうだよ。外で。
     人間、悲しすぎると、妙に冷静になるらしい。怒りも混乱も嫉妬も、ぐちゃぐちゃに混ざると、もう笑うしかなくなる。へえ、なるほど。勉強になったぜ。彼氏の遠征中にな。
     ちょうどそのタイミングで、家に着いた。その瞬間、肺の奥から勝手に息が漏れた。

    「俺のこと……嫌いか?」
    「はあ!?」

     予想外だったのだろう。勢いよく俺を見上げてそのまま目が合った。俺がどんな顔をしていたのか、自分じゃわからない。

    「ねえ、どうしたの? 帰ってきてから、ずっと変だよ」
    「……」
    「連絡も途中から取れなくなったし、その説明もないし……」
    「は? 説明だと?」

     眉間に力が入るのを止められなかった。彼女が一瞬だけ、ぎょっとした。

    「説明してほしいのは、こっちだっつーの!」 「は? な、なんなの……なに?」

     一気に血が上った。彼女の手首を掴んで、そのまま玄関を開ける。自分でも驚くくらい乱暴だった。階段を上がりながら、リビングを一瞥する。母親はいない。留守だ。自室のドアを開けて勢いのままベッドに放り投げる。いつもなら、色気の欠片もない声を出すくせに、今日に限って小さく「きゃ」なんて言うのが無性に腹立たしかった。俺はベッドの前に立ち尽くす。彼女は状況を理解しきれないまま、きょろきょろと部屋を見回してから、震える声で言った。

    「あ、あの……わたし、帰るよ」

     その一言は、消えかけていた火種に、わざわざ息を吹きかけるようなもんだった。

    「待てよ。一個、望み叶えるって約束しただろ」
    「した!したけど!今日は……ストップ。ほんとタンマ」
    「うるせえ。ホラ——舐めろよ、」
    「はいっ!!?!」

     考えるより先に体が動いていた。制服のズボンのベルトに指をかけた瞬間、カチャカチャ、と、乾いた音がしてそのすぐあとがしっと俺の手首を捕まえる温度が伝わる。

    「待って待って、タンマ! タンマ!!」
    「てめえ、水戸のは舐めれるくせに俺のは舐めれねえのかよ!」
    「はぁ!? なに言ってんの!?」

     その顔がみるみるうちに真っ赤になる。反応の理由を深く考える前に彼女はいきなり「きゃー!」だの「わーっ!」だのと叫び出して、正直、こっちのほうが面食らった。狭い部屋に反射した声がやたらと大げさで、俺はただ立ち尽くすしかない。しばらくして、嵐が過ぎ去ったみたいに、彼女は俯いて黙り込んだ。肩が小さく、上下していて、怒ってるのか照れてるのか、それとも別の感情なのか、判断がつかない。
     その顎に無意識のうちに指が伸びていた。軽く持ち上げた拍子に合った目が思った以上に潤んでいて、それだけで、胸の奥が一瞬で熱くなる。
     引き寄せられるみたいに、唇を重ねた。深く、長く。離れたときに見た彼女の目は、合宿初日の朝みたいにとろりと力が抜けていて、正直、理性なんて役に立たなかった。
     もういいだろ、と自分に言い訳しながら、覆いかぶさろうとした、その瞬間。

    「……ちょっと、待って」
    「……っンだよ」

     さっきまでの空気が嘘みたいに引き戻される。覗き込むと彼女の表情はすっかりいつものそれで俺は思わず舌打ちした。

    「なに、どさくさに紛れてヤろうとしてんの?」
    「いいだろ別に。約束しただろうが」
    「もう、なにが約束か、わかんなくなってきたんだけど! 使いすぎ!」
    「うっせえ! 水戸の舐めといて、よく言うわ」
    「……は? もしかして、イチゴ飴の話?」

     時が止まるとは、まさにこのこと。頭の中が、ぴたりと止まった。彼女は完全に怒ってる顔で、俺は間抜け面のまま固まる。
     祭り。縁日。離すな、ダメ、でも、おいしい。そこから連想するもの……イチゴ飴?

    「あ……ああ、なるほどな」
    「……っ」
    「飴って、あの縁日で売ってるやつか」
    「……うん!!」
    「あー、はいはい。あれな」
    「ほんっとに、バカすぎ」

     死ぬほど気まずくなって、俺は、さっと距離を取った。するとこの女、勢いをつけて俺の胸ぐらを掴んできやがった。身長差があるから見下ろす形になるのに、その目は、一歩も引いてなくて、思わず笑いそうになる。幼馴染で、初恋で、こういうとこが昔から変わらない。つくづく、最高に手強い女——いや、良い女だなと思う。

    「信じらんない!」
    「スンマセン」
    「どんな妄想したら、そこまで話飛ぶわけ!?」
    「で、すね……」
    「ありえない! 変態! すけこまし!」
    「はいはい」
    「もう、絶対、寿のは��咥えない�≠ゥらね!」
    「それとこれとは別の話だ」

     胸を張って言い切った瞬間、彼女の顔が、今日いちばんの赤さになる。

    「——っ! この、エロ大魔王!!」
    「待て! 寿のは、ってなんだ!」
    「うるさい! 変態脳内イカれ男!!」

     扉を開けっぱなしで騒いでたせいで、一階から母親の「恥ずかしいからやめなさい!」という、怒鳴り声が飛んできた。さすがにそれ以上は続けられなくて渋々一緒に家を出る。てかあのババアいつ帰ってきたんだ。まあ、いいか。
     納得のいってない顔の彼女が前を歩いていて、俺は完全に後ろ。送ってるのか、ついていってるだけなのか、よく、わからない距離感だ。名前を呼ぶことすらも今は許されない気がして後頭部に手を当てて、黙って歩くしかない。すると突然、彼女がぴたりと足を止めた。頼むから、そのまま行ってくれ、と、心の中で願ったのに、勢いよく振り返られて、俺はまた固まる。

    「……なに」

     睨まれる覚悟をしていたのに、彼女は少しだけ視線を逸らしたまま、ぼそっと言う。

    「……次、勘違いしたら、ほんとに別れるから」

     そう言い切って彼女はくるりと背中を向けた。言葉そのものよりその後ろ姿のほうが胸に残る。道路に落ちた影が少しだけ遠くなる。その距離が思っていたよりずっと怖かった。胸の奥が、じわっと熱くなる。ああ、やっぱり。俺は、こいつに弱い。

    「……悪かったって」

     小さくこぼれた声は空気に溶けて彼女の耳まで届いたかどうかは分からない。ただ、先を行く、背中の歩幅が、ほんのわずかに緩んだ気がして、それだけで胸の奥が、ひどく、情けないほど軽くなる。ああ、今日はもう負けでいい。そう思ってしまう自分が、我ながら単純だ。

    「あのさっ!」
    「は、はい……」

     呼ばれて、思わず眉が跳ねた。その反応がおかしかったのか、彼女は一瞬きょとんとしたあと、ぷっと吹き出し、こらえきれないみたいに、肩を震わせた。

    「寿、ずっと残りの合宿、そのことばっか考えてたの?」
    「え? いや……まあ、夜だけな。練習と試合はちゃんとやった……つもり」
    「ふうん……そっか」

     からかうような声音なのに、どこかやさしい。そう思った矢先、「ごめんね、心配かけて」と、そんな言葉が、当たり前みたいに差し出されて、俺の頭は一瞬、止まった。

    「へっ?」

     情けない声が出たのも無理はない。ついさっきまで怒っていたはずの彼女は、もうその影をどこにも残していなくて街灯の下でやわらかく笑っている。

    「大事な合宿中だったのにさ。ほんと、配慮足りなかったよね。ごめん」

     そう言って深く頭を下げる。なんで、謝るのがそっちなんだよ。胸の奥が、ぎゅっと、掴まれたみたいに苦しくなって、同時にどうしようもなく愛おしいって感情が込み上げてくる。
     俺は反射的に一歩踏み出して頭を下げたままの彼女を前から抱き締めた。不意打ちだったのか、彼女の身体が小さく強張る。それでも、すぐに、その細い腕が俺の背中に回されて遠慮がちに力がこもった。顔を上げた彼女と視線が合う。間近で見るその表情は、怒ってもいなければ、責めてもいなくて。ただ少しだけ不安そうで、だからこそ守りたいと思ってしまう。ああ、ほんとに。俺はこいつのことが、どうしようもなく好きなんだ。
     そんな結論に今さら辿り着いたみたいに、胸の奥で何度も噛みしめながら、しばらくのあいだ、何も言えずに抱き合っていた。

    「……なあ、いまから名前ん家でする?」
    「なにを?」
    「バーカ、決まってんだろ。恋人同士がヤることつったら」

     俺が何か言うより先に彼女の小さな手のひらがためらいもなく飛んできた。べちんと乾いた音がして、反射的に「ぐぬっ」と情けない声が喉から漏れる。叩いた当人はもう一歩ぶん距離を取っていて、その手をひらりと引っ込めている。俺は、思わずその行き先を追うみたいに視線を送った。

    「当分、おあずけ」
    「ええ……なんでだよ。却下だろ」
    「だーめ。インターハイ、終わってからね?」

     そう言って彼女は、少しだけ顎を上げて笑う。ずるいくらいかわいい笑顔だ。胸の奥がきゅっと締めつけられて同時に、どうしようもなく満たされる。
     ……ああ、もう。衝動のまま、力いっぱい抱き締めた。逃げ場を与えないつもりはなかったけど腕に収まる体温があまりに愛おしくて力の加減を忘れた。

    「ちょ、ちょっと……!」

     軽く抱き上げた瞬間、足が床から離れたことに気づいたらしい。「うおっ、浮いてる! ちょ、離してって!」と、品も何もないその慌てぶりに思わず笑いがこみ上げる。
     抵抗する腕も力が弱くてむしろ抱きついてきているようにしか見えない。俺はそのまま、頬に、額に髪の生え際に、ぽつぽつとキスを落とした。数を数える気もなくただ気持ちが溢れるままに。彼女の声はどこかくすぐったそうで、怒気なんて欠片もない。腕の中で温もりが揺れて、俺はようやく、深く息を吐いた。……ああ。おあずけでもなんでもいい。インターハイが終わるまで、ちゃんと我慢する。そう思えるくらいには、今の俺は十分すぎるほど、満たされていた。










     触れた 指先 に、うずく熱。



    (なあ……勃っちまったって)
    (知らないよ、自分で処理しな)
    (名前、頼む。先っちょだけでいいからよ)
    (アンタは慎め!こんのスケベあんぽんたん!)
    (ちょっと舐めてくれるだけでいいから、な?)
    (てか!待って……。一勝一敗、一分けってさ)
    (……)
    (勝ってない! 引き分けじゃん!!)
    (……チッ、ばれたか)

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