指先だけで、そっと(2/3)

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     寿を見送ったあと、校門の前で少しだけ、立ち尽くしていた。背中が見えなくなっても胸の奥に残る温度が、すぐには引いてくれなくて、帰路に向かう足取りはどうにも定まらない。家に帰ったところで今日はきっと落ち着かない。それくらい自分でも分かっていた。
     そんなときに耳に入ってきたのが、桜木くんの話だった。安西先生が一週間、マンツーマンで、指導する。それだけでも驚きなのに、居残りだと聞いて、思わず体育館のほうへ足が向いていた。

     静かな体育館。いつもの喧騒が嘘みたいに床を打つボールの音と呼吸の荒さだけが響いている。桜木くんは、いつになく真剣な顔で、同じ動きを何度も繰り返していた。その姿を安西先生が少し離れた場所から、じっと見守っている。しばらくして見慣れた顔ぶれが現れた。水戸くんたちだ。お決まりの、あの桜木軍団。安西先生が、彼らに向かって「協力者です」と穏やかに告げたとき、場の空気が、ふっと緩んだ。からかいながらも、ちゃんと桜木くんを支えるつもりなのが、態度の端々から伝わってくる。
     そこへ今度は晴子ちゃんがやってきた。励ます声も、視線も、全部がまっすぐで体育館の空気が少し、明るくなる。気づけば私も、その輪の端に立っていた。
     ああ、そうか。この一週間、寿は静岡で必死に走っている。だったら私も、ここで出来ることをしよう。

    「……私も、通っていいかな。サポート、したいなって」

     自分でも驚くくらい、自然に言葉が出た。水戸くんたちは顔を見合わせてから、あっさりと受け入れてくれて、晴子ちゃんも、嬉しそうに頷いてくれた。
     桜木くんが、最初の休憩に入った頃、ベンチに腰を下ろして、携帯を取り出す。これは、伝えておいたほうがいい。そう思って迷わず彼の名前を押した。

     ――――――――――――――――

      🕑 7/25 12:07
      FROM 名字 名前
      件名
      本文

      桜木くんが一週間、安西先生の
      指導を受けるってこと聞いた?
      水戸くんたちが協力者に選ばれた
      から、私も手伝う事にしたよ!

      寿も頑張ってね!

     ――――――――――――――――


     送信ボタンを押して携帯を畳む。すぐに返事が来なくてもいい。ただ繋がっているという感覚があれば、それで十分だった。
     体育館に響くボールの音が、また、動き出す。一週間。それぞれの場所で、それぞれの戦いが、始まっている。

     その日の合同練習を終えて、宿泊施設に戻り、携帯電話を確認したその瞬間だった。画面に表示された文面を読み終えた途端、思わず肩から力が抜ける。自分でもはっきり分かるくらい、分かりやすく落ち込んでいた。その様子を見逃すほど、宮城は鈍くない。俺の手に残ったままの携帯を、遠慮もなく横から覗き込んできやがった。

    「うっわ……予想的中〜!」
    「うおっ! 勝手に覗くんじゃねえ」

     反射的に怒鳴ったものの、声には勢いがない。結局、もう一度画面を見ては深く息を吐いて俯いた。宮城はそんな俺を一瞬だけ見てから同じように小さく息をつき、ぽん、と背中を叩く。

    「まぁまぁ。そんなに気落ちしねえでさ」
    「あ……?」
    「別になんも起きねーっし。夏祭り以外は、ね」
    「は?……夏祭り?」

     聞き返した瞬間、宮城の口元が嫌な形に歪んだ。「あ、知らなかった?」と、わざとらしく、しまった、という顔まで作ってみせる。それ以上聞く気にもならず俺は立ち上がって部屋を出た。

    「あれ、温泉行かねーの?」
    「……先に電話してくる」

     背中越しに投げた言葉にどうせニヤついているだろう気配を感じつつ無視して建物の外へ出る。夜風が、火照った頭を少しだけ冷ましてくれた。コール音が、妙に長く感じられる。

    「……チッ。早く出ろよ」
    『……あ、もしもしっ?』
    「おう。名前か。出るの遅えし、何してた」
    『ごめん。今ね、夜食を買いにコンビニ向かってて』
    「ああ?……夜食だあ?」

     その一言で嫌な予感が背中を走る。目を閉じて電話越しの気配に意識を集中させる。

    「……誰か、隣にいんな?」
    『え? あ……み——』
    「……み?」
    『ち、違う! 晴子ちゃん!」

     ……はあ、あンの野郎。いま絶対、横で誰かが手を振った。しかも「俺って言うな」って顔で。どこが『み』だよ。赤木の妹と、一文字も被ってねえだろ。

    「なあ、名前」
    『なに?』
    「お前、バスケろくに知らねえくせに、何が協力者だ。大人しく課題でもやってろ」
    『ちょっと、それ失礼じゃない?』

     口調は拗ねてるくせに、声は妙に楽しそうで、余計に苛つく。

    「いいからお前は——、……あ、」
    『ん?』
    「常誠に勝ったら望み叶えろって言ったの覚えてるか」
    『うん。覚えてるよ』
    「あれ、前借りな。もう家にいろ』

     どうせ勝つ。湘北が負けるわけがない。だからこれくらい、言っても——

    『なにそれ。ばっかみたい』
    「ンなっ——」

     ひとりで脳内会話をしていた俺の思考を遮ったのは、そんな冷めたふうな、彼女の言葉だった。思考を真っ二つに切られた。同時に、コンビニの自動ドアが鳴る音が、ピンポーンピンポーンと、はっきり耳に届く。

    『あ、水戸くん。カゴ、私持つよ』

     電話を少し離したらしい声が静かな夜の空気を通って、やけに鮮明に届く。眉間に、自然と力が入った。……水戸。お前、今そこにいんな?
     胸の奥に、じわりと嫌な熱が溜まっていくのを感じながら、俺は黙って夜空を睨んだ。

    「オイ、嘘つき女!」

     自分でも驚くほど荒れた声が受話器の向こうに投げつけられた。言った瞬間、胸の奥で、何かがひっかかる感触があったけど、今さら引っ込められるほど大人でもなかった。

    『はいはい?……あ、ごめん。今ちょっと聞こえなかった。なに?』

     その間の抜けた返事がやけに腹に障る。悪気がないのは分かってる。分かってるのに、こっちは勝手に積み上げた苛立ちの置き場を見失っていて声の温度差がそのまま火に油を注いだ。

    「名前よぅ。この俺に嘘、つきやがったな」
    『え?ていうか、着いたから一回切っていい?』

     あっさりとなんでもない用事みたいに言われて頭の中で、何かが弾けた。

    「うっせ!もう電話なんかしねーよ浮気者っ!」
    『え、ちょ……ひさ——』

     言葉の途中で指が勝手に動いた。ピッ、という無機質な音がやけに大きく耳に残る。通話終了の画面をしばらく見つめたまま、俺は息を吐いた。吐いたはずなのに胸の中は少しも軽くならない。そのままの勢いで彼女宛のメールを打ち始める。


     ――――――――――――――――

      🕑 7/25 21:28
      FROM 三井 寿
      件名
      本文

      水戸と一緒じゃねーか!
      嘘つき!浮気者が!
      彼氏が頑張ってるってときに
      おまえは

     ――――――――――――――――


     画面に並ぶ言葉はどれも刺々しくて今の俺そのものだった。けど最後の一行を書きかけたところで、急に指が止まる。怒りの奥に別の感情が顔を出した。虚しさだ。ぶつける相手のいないパンチを、空振りし続けてるみたいな感覚。俺は親指で打ち込んだ文字を一つずつ消していった。消えるたびに、少しずつ自分が情けなくなっていく。

    「……チッ」

     深く溜め息をついて、頭をぐしゃっと掻きむしる。どうせ今さら送っても、意地を張ってるのはこっちだけだ。分かってる。分かってるからこそ動けない。携帯をポケットに突っ込み宮城たちがいるはずの温泉へ向かう廊下を、歩き出す。畳の匂いと、どこかで響く笑い声が、やけに遠く感じられた。
     その夜、彼女から電話はかかってこなかった。画面が光ることもなく、メールの通知音も鳴らない。俺も俺で意地になって一言も送れずに、ただ時間だけが過ぎていった。
     そして翌日、常誠高校との一回戦の練習試合。コートに立つ前——胸の奥に残ったままの重たい何かを、俺はまだうまく処理できないでいた。


     *


    「あと十本で、今日の千本目だ。ほら行くぞ」

     水戸くんの声が、体育館に乾いた音を残して、跳ね返る。

    「「ファイト、花道〜!」」
    「桜木くん、頑張って〜!」

     野間くんと大楠くん、そして私の声が重なった瞬間、桜木くんは迷いなく跳びボールをリングに叩き込んだ。パスのリズムも着地の衝撃も午前中の締めくくりにふさわしい勢いで体育館の空気が一度、気持ちよく震えた気がした。
     こうして、桜木くんの午前練習は無事に終了。汗と達成感を連れて、私たちは揃って食堂へ向かう。テーブルに着くなり桜木くんはフードファイターでも目指しているのかと思うほどの量のご飯に真正面から挑んでいた。
     そんな中、晴子ちゃんが大事そうに包みを取り出し自分で作ってきたらしいサンドイッチを差し出す。その様子が、あまりに微笑ましくて、私もバッグの中から朝に握ってきたおにぎりをそっと取り出した。晴子ちゃんのサンドイッチをひと口食べた桜木くんは、なぜか、目を潤ませている。感動が胃より先に来るタイプらしい。

    「湘北、試合……頑張ってるかなぁ」

     ぽつりとこぼした晴子ちゃんのその言葉に私と隣同士で座っていた座っていた水戸くんが、首をかしげた。

    「試合って?晴子ちゃん」
    「うん。お兄ちゃんが言ってたの。合同合宿中に三試合、常誠と練習試合をするって」

     なるほど、と、水戸くんがうなずくのを見て、私もふと、思い出した。

    「あ、それ……寿も言ってたよ」

     続く話では相手は静岡代表で、去年はベスト8まで行った強豪校らしい。晴子ちゃんは、話しながら、どこか、遠くを見るような目をしていて、たぶん頭の中は流川くんでいっぱいなのだろう。それに気づいた桜木くんが露骨にムッとした顔になる。

    「練習だ、練習! さっさと続きをやるぞー!」

     どうやら気合いだけは誰にも負けないらしい。

    「……その前に、おばちゃん。かつ丼、もう一杯おかわり!」

     野間くんが青ざめた顔で「まだ食うのかよ」とぼやいていたのが、妙に現実的でおかしかった。

    「名前さん」

     そのとき不意に、名前を呼ばれて、桜木くんを眺めていた視線を「ん?」と、水戸くんに戻す。

    「そのおにぎり、もらってもいい?」

     右手で頬杖をつき眉を少し下げた顔で言われて思わず笑ってしまう。「もちろん」と差し出したおにぎりを見ながら今日の出来を密かに自画自賛する。形がいい。きれいな三角。地味だけれど、ちゃんと握れた証拠だ。

    「みっちーも、頑張ってんのかな」
    「……だと、いいね」
    「ん? なんだよ。なんかあったのか?」

     問いかけに、言葉を選びながら答える。

    「いや……実は、連絡とってなくて」
    「あー、昨日のアレが引き金か」
    「うん……かもね」

     情けない声になってしまったのが自分でも分かる。水戸くんは小さく息を吐いて、呆れたように天井を見上げた。

    「大丈夫さ」

     次の瞬間、今度は明るい声が降ってきた。見ると、水戸くんは柔らかく笑っている。

    「試合の報告、してくるだろ、絶対」
    「そうかな……怒ってたら、しないかも」
    「いや。あの人なら、する」
    「……どうして?」
    「言わないだけでさ。名前さんと二人三脚でバスケしてるはずだぜ」

     その言葉に、胸の奥が、じんわりと温かくなった。

    「水戸くん……」

     私が何か言う前に、彼はいつもの調子で笑う。その笑顔につられて私も微笑んでしまった。実はずっと、引っかかっている言葉がある。

    『バスケろくに知らねえくせに、何が協力者だ。大人しく課題でもやってろ』

     ——あの一言。確かに私は彩子みたいに戦術を語れるわけでもないし、晴子ちゃんほどバスケが生活の中心にあるわけでもない。それは否定できない事実だ。だからこそ水戸くんに言われた言葉が、胸に沁みたのだ。同じ場所で、同じ目線で、支えることはできる。その感覚が、少しだけ私を救ってくれていた。

    「……ありがとね、水戸くん」
    「いーえ」

     軽く返されたその一言が思っていたよりも胸の奥に残った。桜木くんが食べ終えて勢いよく立ち上がるのに合わせて水戸くんたちも椅子を引く。食堂の床に脚が擦れる音が重なりさっきまで満ちていた昼休みの空気が、また、練習用の緊張へと戻っていくのが分かった。

    「おにぎり、うまかったよ」

     そう言って、水戸くんは一瞬だけ立ち止まる。私は返事をする前に、なぜか、言葉を飲み込んでしまった。

    「ごちそーさん」

     最後にウインクまで添えられて胸の奥がひょいと持ち上げられる。どう反応していいかわからずただ顔が熱くなっていくのを感じていると、水戸くんはそれを面白がるでもなく、どこか穏やかな表情で小さく笑った。そして何事もなかったみたいに、桜木くんたちの背中を追って、食堂を出ていく。残された私はしばらくその背中が見えなくなるまで視線を落とせずにいた。ざわついていた食堂の音が、急に遠くなる。

     ……よし。心の中で、そっと息を整える。桜木くんの一週間の特訓。そのほんの一端でも、力になれたらいい。直接コートに立てなくても、声をかけることや、ここにいることならできる。
     寿だって、きっと今も、必死で頑張っている。だから私は私にできることをしよう。その決意を胸の内で静かに握りしめながら、私はもう一度、体育館へ向かう準備をした。


     *


     常誠高校との一回戦は、正直に言って楽な立ち上がりじゃなかった。試合開始からしばらくは、相手のテンポに引きずられコートの空気がどこか他人行儀なまま進んでいく。湘北らしさが出る前に、点差だけがじわじわと開いていくのが、嫌というほど分かった。
     それでも途中、少しずつ噛み合い始めた。一本決まり、一本止め、流れを掴みかけた、と思った矢先、また常誠に引き離される。
     スコアは、65―54。湘北のタイムアウトがかかり、俺たちはベンチに集まった。汗が額から落ちる。息は上がっているが、脚が動かないほどじゃない。そんな中、宮城が短く舌を鳴らした。

    「やっぱ強いぜ、さすがに静岡ナンバーワンだ」

     誰も否定しなかった。その言葉が事実だと全員わかっていたからだ。赤木は返事をせず体育館の外、見えないはずの場所にしばらく視線をやってから、ぽつりと呟いた。

    「今頃、桜木の奴もひとりで頑張ってるころだ。下手なりに」

     その言い方が、妙に胸に引っかかった。赤木はすぐにこちらへ向き直り、「これで負けたなんて言ってみろ」と、やや強い口調で低く言い切る。その瞬間、頭に浮かんだのは、あのふてぶてしい顔だった。

    『やはりこの天才抜きじゃあ、どうにもならんな君たち! ワッハッハ!』

     ああ、想像できすぎる。それはたぶん、俺だけじゃない。「許せん……」と、流川が吐き捨てるように呟いた。続けて赤木が、今日いちばん腹の底から声を張り上げる。

    「絶対勝ぁぁぁーつ!!」

     円陣が組まれ、俺たちも声を重ねた。肺の奥が熱くなる。

    「あの馬鹿にバカにされるのだけはごめんだぜ」
    「花道ぃ、見てろよ……」
    「どあほうめ……」

     コートに戻った瞬間から、空気が変わったのが分かった。俺のスリーポイントが決まり、赤木がリバウンドをもぎ取る。そこから一気に走る宮城の背中。迷いのないパスを受け取った流川が当然のように決める。
     ああ、これだ。気づけば俺たちの呼吸は揃っていた。考える前に身体が動くいつもの湘北のバスケ。点差は縮まり、逆転し、体育館のざわめきが味方に変わっていく。そして試合終了。スコアは73―72。わずか一点差で湘北の勝ちだった。胸の奥に溜まっていた何かがゆっくりとほどけていく。確信化、もしくは、安堵だったのかもしれない。

    「湘北が、これほどやるとは思わなかったぜ」

     常誠のキャプテン、御子柴が赤木に声をかけ、二人は軽く言葉を交わしていた。俺たちはそれを横目に、相手チームと握手を交わす。

    「いやいや、お疲れさん」

     宮城が笑って声をかけると「なんか、すごいっすね、湘北って」と、向こうも素直に笑い返してきた。

    「ま、お互い全国では頑張ろうな」

     木暮の穏やかな言葉に俺も肩をすくめて「あの二人はほっときゃいいさ」と、言いながら、心のどこかで思っていた。
     これ、ちゃんと伝えなきゃなと。勝ったこともあのバカのいないコートで、俺たちがどんな顔をして戦ったかも。

     その日の夜、宮城たちと風呂を済ませたあと、俺は一人で外に出た。夜風は思ったよりも冷たく湯上がりの身体からじわじわと熱を奪っていく。けれど、それ以上に胸の内が落ち着かなかった。
     携帯の画面を開いては閉じ、また、開く。その繰り返し。彼女からの着信も返信も、今日もなかった。昼間の勝利の余韻は、いつの間にか薄れていて、代わりに嫌な予感だけが、頭の奥に重く、居座っている。
     逃げても仕方ない。そう自分に言い聞かせて、着信履歴のいちばん上にある名前を、意を決して押した。プルルル……という無機質な音が、耳に流れ込む。その音よりも、自分の心臓のほうが、やけにうるさい。トク、トク、と、鼓動が跳ねるたび、胸の奥が詰まる。十秒。十五秒。やっぱり出ねえか。耳から携帯を離して、切ろうとした、その瞬間だった。プツ、という微かな音。慌ててもう一度、携帯を耳に押し当てる。

    『……もしもし?』
    「名前……っ?」
    『……うん。お疲れ様』
    「お、おう……お疲れ」

     声を聞いた途端、胸の奥が一気に緩んだ。
     たった数日なのに、ずいぶん長い時間、離れていたみたいな気がする。高鳴っていた鼓動のせいか、あるいは諦めかけたところで繋がった反動か目の奥が、じんわりと熱くなった。

    『試合、どうだった?』
    「ああ……勝った。73―72で、湘北がな」
    『すごい……おめでとう!』
    「ああ、サンキュ……。なあ、名前」
    『……なに?』
    「昨日は悪かった。あのあと、連絡もしねえで」
    『ううん。私も、嘘ついてごめんね。水戸くんと一緒だって言ったら、気にするかなって思って。夜だったし』
    「ああ……まあ、気分は良くなかった」
    『ふふ、正直だね』

     電話越しに聞こえる軽やかな笑い声。その音が胸に染みる。
     だー、クソ。会いてえ。そんな、単純でどうしようもない感情が腹の底から湧き上がる。けれど彼女はそんな俺の気も知らず、桜木が、どれだけ食べたとか、どれだけ走ったとか楽しそうに話し続ける。俺は、「ああ」とか「そうか」とか、形だけの相づちを打ちながら、頭の中では別のことばかりを考えていた。——お前から言えよ。会いたいって。

    『私もね、パス出すの手伝ってて』
    「……」
    『基本は水戸くん。晴子ちゃんが、記録係で』
    「……」
    『でも特訓の中身は秘密だから教えられないの。ごめんね』
    「……」
    『それでさ、寿。わざわざ試合報告するために、電話くれたんだよね、ありがと——』
    「名前」

     思わず、遮るように名前を呼んだ。一瞬の間。それから不思議そうに『どうしたの?』と、聞き返してくる。

    「いや。まあ、だな。試合の結果くらい、伝えとこうと思ってよ」
    『……』
    「……ッ、——ってのは、口実で」
    『……え?』
    「お前が、どうしてんのか……気になって」

     言った瞬間、電話の向こうの気配が変わったのが分かった。息を呑む音が微かに伝わってくる。

    『……ちょっと、待って』
    「……」
    『……っ、』
    「……泣いてんじゃねえよ、ばかやろう」
    『……会いたい』
    「名前……」
    『会いたいよ、寿……』

     堪えきれない声が、耳に流れ込んでくる。それだけで、胸がぎゅっと締め付けられた。俺まで、今にも泣き出しそうになる。夜風がさっきよりも冷たく感じた。けれど、それ以上に、離れている距離が、どうしようもなく遠かった。

    『大事な合宿だって、ちゃんとわかってる。でも……でも——』
    「……」
    『早く帰ってきて、寿……淋しいよ……死んじゃうよ……』
    「……」
    『淋しくて……ほんとに、死んじゃう……』

     電話の向こうから彼女の鼻にかかった泣き声が続く。たぶん、自室なんだろう、テレビのバラエティか何かの、やけに陽気な音だけが、場違いに混じって聞こえてきて、それが余計に、胸に刺さった。

    「なあ、名前……」
    『……っ』
    「おい、聞いてるか?」
    『……ぅん……』
    「俺も……会いてえよ。名前に」
    『……う、ん……』
    「……今すぐ、会いてえ」

     俺は外の柵に腰を預け、ぼんやりと空を見上げた。星はひとつも見えない。真っ暗で、雲に塞がれた夜空。せめて星が出てりゃ、話題のひとつも振れるのに、なんて、我ながら間の抜けたことを考えてしまう。

    『あと何日もあるじゃん……そんなんで、どうするの……』
    「……は。泣いてるお前に言われたくねえな」

     思わず鼻で笑うと彼女は泣きながら笑うという器用な真似をして、ズズッと盛大に鼻をすする。その音も言い返してくる生意気な口調も笑い声も全部が全部、愛おしくて仕方なかった。
     急に気恥ずかしくなって、俺はいつもの調子に逃げる。

    「……とにかく、切るぞ」
    『え、もう消灯?』
    「違ぇよ。風呂だ、風呂。これから入んの」
    『ああ……お風呂ね、はいはい』
    「じゃあな。また連絡する」
    『あっ!』
    「……なんだよ、急に声出すな。鼓膜破れんだろーが」
    『みんなにも、よろしく伝えてね?』

     すでに風呂なんてとっくに済ませてるくせに、嘘までついた自分が可笑しくて、でも最後の言葉が「みんなによろしく」なのが、ちょっとだけ、癪だった。

    「……ああ。言っとく」
    『うん……電話、ほんとにありがと。じゃあ——』
    「名前!」
    『……なに?』
    「最後、それだけかよ」
    『……え? ああ……』

     彼女は瞬時に何かを悟ったみたいに、アハハ、と、楽しそうに笑う。

    「……チッ。笑ってんじゃねえよ」
    『ごめんごめん。……寿?』

     素直になれない自分のこういうところがどうも好きになれない。でも直そうとしても、どうにもならない。だからもう、開き直るしかない。

    「……あ?」
    『す……。へへ』
    「あ? す、ってなんだよ」

     一瞬、喉が詰まった。期待しそうになる自分を必死で抑えて、息を殺し、ぐっと喉の奥をつまらせて彼女の言葉を待つ。

    『……ス……スラムダンク!』
    「チッ……てめえ——」
    『……ウソ。好きだよ』
    「……」
    『ねえ、寿は?』
    「………………俺も! じゃあな!」

     ほとんど投げつけるみたいに言って、ブチッと通話を切った。
     顔が熱い。鏡を見なくてもわかる。真っ赤だ。だせえ。何だこれ。青春かよ。きつすぎる。直接言うほうが百倍マシだ。なんで電話なんかで勝負仕掛けたんだよ……。試合より疲れた気がする。

    「あ……しまった」

     そういや、明日祭りだとか宮城が言ってたな。「水戸とは行くなよ」って釘、刺し忘れた。
     溜め息をひとつ吐いて、宿泊施設に戻る。でも不思議と心は軽かった。さっきの彼女の声を思い出すとくだらない不安なんてどうでもよくなる。歩きながら携帯を取り出し、勢いのままメールを打つ。恥ずかしさが冷める前に、いまの気持ちをそのまま残したくて。


     ――――――――――――――――

      🕑 7/26 21:13
      FROM 三井 寿
      件名
      本文

      名前、早く会いたい。
      いつもおまえが好きだ。
      おやすみ。

      返信不要。

     ――――――――――――――――


     送信してから、ようやく胸の奥が静かになった気がした。

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