さよならばかり飲み込んできたよ

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  •  冬 12月
    ― 冬 12月 ―


     この職場に就いてから、既に三ヶ月が経とうとしていた。ある私立高校からの依頼で、社長宛に届いていた質問事項の資料を必死に作成していた長谷川さんが、流行り風邪を引いて欠勤。今日はその資料を社長に直接、渡すことになっていたと彼女からメールが送られて来たのはお昼休み前の事だった。早い話が、代わりに私に行って欲しいのだそう。

    『資料を渡しても社長は目を通してくれないだろうから、直接質問して隅に回答を書き込んで!』

     そうメールの文末に書かれていた文字を読み、溜め息が溢れる。パソコンで社員のスケジュールを確認してみれば社長とのアポは19時から——私は、抑え切れぬ緊張感を抱えたまま久しぶりに社長室のある階へと足を進めた。
     社長室の前では早速秘書の方が私を待ち構えていて、私の姿を見るや否や「社長がお待ちです、どうぞ」と社長室へと促される。ドアが開錠され部屋のなか、大きな硝子窓の淵に手をついて外を眺めている藤真社長。一歩、足を踏み入れた私は緊張からか躓いて転んでしまう失態。絨毯が敷き詰められていたお陰で怪我はせずに済んだのだがその気配で私の存在に気づいたらしい彼がそっとこちらを振り返る。そうして私を一瞥したのち、社長がこちらへと歩み寄って来た。

    「大丈夫か?」

     手を差し伸べられてあたり前に動揺していると社長が不意に目を細めたのでその威圧に負けて、仕方なくその手を取り起き上がる。今日の私は、ジャーナリスト——なんて、何か設定を設けないと、この空気を打破する方法など私にはまだ見い出せそうになかった。

    「名字、名前です……」
    「知ってる」
    「……」
    「藤真健司です」
    「——はい、知って……ます、社長。」

     刹那、見つめ合う私と藤真社長。視線の行き場に戸惑い一度ぐるりと目を回してから私は視線を自身のつま先へと落とし込んだ。

    「今……目玉を回したな」
    「え……。まさか——!目を回しただけでも……お仕置き、されるとか、ですか……!?」
    「……しない。けど——次やったら考えとくよ」
    「……」
    「……で、要件はなんだ」
    「あの——長谷川さんが風邪を引いたので代理で来ました……」
    「なるほど。10分しか時間がないんだ、どうぞ掛けて」

     そう言って自身のデスクに向かい、その革張りの椅子に座る社長。私はその目の前に用意されていた椅子へと座る。正面に藤真社長がいる……。とりあえず今日ここに来た理由は職務。さっさとこの業務を済ませてしまおうと持っていた資料に目を落とした時ペンを忘れてきた事に気が付く。さっと血の気が引いた。それに気づいたのか彼が椅子から立ち上がり私の前に来てペンを差し出してくれた。すみません……と蚊の鳴くような声で言ってそれを受け取ろうとしたが、差し出されたその万年筆——刻印された、K.Fujimaの文字。それは、過去に私が拾って彼に届けた物だった。私が受け取らず固まっていると、再度彼の目元が細められ私は急いでそれを受け取った。そのまま背後のデスクの淵に腰を預けて腕を組んだ社長を一瞥してから私は、ゴホンっと咳払いをする。

    「……ではっ!」
    「いつでもどうぞ」
    「は、はい……!まずこれは私立翔陽高校の学生新聞の卒業特集号に掲載されます」
    「ええ、卒業式は来賓席に座る予定です」
    「えっ!社長、が?……あっ、つまりその……」

     一人で動揺したり焦ったり興奮したりと、忙しない私をよそに、彼はずっと無表情で顔色ひとつ変えずにじっと私を見据えている。それに対してまた私は目玉をぐりんと回してから気を取り直し質問へと意識を戻す。

    「あなたは、若くして巨大な企業帝国を築いた。成功の——」
    「成功の秘訣は?」

     私と社長の言葉が重なった。顔を資料に落としたままで私は持っていた社長のペンをぐっと強く握る。やはり、当たり前に私のペースで事を運ぶことはできないらしいと諭して、先を言い淀む。

    「……え、ええ」
    「それが質問?」
    「……はい、みたい……です、ね……」

     元々、物音ひとつとしてなかった空間にさらにシン……という沈黙の時間が流れる。時計の音も機械的なファンの音もしない。まるで本当に音が遮られた密室にでもいるかのような錯覚に陥る。

    「大事なのは人材です。僕には人を見る目がある何が刺激を与え、やる気を起こさせるか知り尽くしている」
    「運に……恵まれただけかも」
    「努力をすればするほど運がついてくるとは思いますよ。だが成功するかはどれだけ優秀な人材を集めてその能力を引き出せるかにかかっている」
    「なるほど……支配するのが好きですか?」
    「ああ、あらゆるものに支配力を行使する」
    「……」

     質問欄の余白に言われた通りの文字を書き記していた私の手がピタッと止まる。じっとこちらを伺い見ている社長の視線をつむじに痛いくらいに感じる。私は顔を、あげることができなかった。そのとき彼が自身の椅子に戻った気配を感じた。

    「では次に、こちらの会社は主に通信事業に力を入れていらっしゃいますが、農業の技術開発にも投資していますよね?食糧難を救いたいとか?」
    「ただのビジネスだ」
    「……」
    「悪いか?」
    「よく……わかりません。ただ社長は本当は心の広い人なんじゃないかって思ったものですから」
    「友人たちからは、心が無いと言われています」
    「それは……どうして?」
    「藤真健司という人間を、よく知っているから」
    「……」
     
     ここで思わず顔を上げてしまった。藤真社長と目が合う。瞬きひとつ見せず私を見つめる彼と、ぱちぱちと忙しなく瞼を開閉する私。ふうと息を吐いた彼が目を伏せ密やかに「続けて」と言う。

    「仕事以外に、興味のあることはなんですか?」
    「体を使うことが好きだ」
    「高校時代は監督兼主将でバスケットボールを」
    「そんなのは基本情報だ」

     そう冷めた口調で私の言葉を遮った社長が再度椅子から立ち上がる。そうして先ほどと同様に、私の目の前に来てその腰を背後のデスクに預け、腕を組む。

    「もっと、味のある質問をしてください」
    「——ゲイ、ですか?」
    「……」
    「あ、ごめんなさい!いや長谷川さんが追加した質問項目に……長谷川さんは、その、ちょっと」
    「非常識」
    「あ、ええ……そう、かも、しれませんね……。まあ、ですので、ご理解いただけませんかね?」
    「逆に、ご理解いただけると思うのか?」
    「はい……ですね。じゃあこの質問はナシで!」

     私は質問欄に二重で線を引いた。またもつむじに痛いほどの視線が突き刺さっている。怒ったのかな、怒ったよね?いくらなんでもゲイですか?なんて……私もちゃんと質問が適切かどうか確認してから読み上げないと——

    「君はどう思う?」
    「……え?」
    「君自身が俺に、聞きたいことはないのか?」
    「……」

     今度は逆に、彼から視線を逸らすことができなかった。と、言うよりも逸らしてはいけない気がした。なぜかはわからない。彼の瞳の中に、私がいる。その事実が不思議で怖くて、特別で——。

    「さっき社長は——心はないと仰いましたが……私はそれが、本当とは思えません」

     私がそう言い淀みながら答えたとき先ほど入口で私を迎え入れた秘書が「失礼します」と室内に入ってきた。私と社長は条件反射で扉の方に視線を向ける。それに動揺することなく凛とその場に佇む秘書が通った声で要件を社長に伝える。

    「藤真社長、次のお約束が……」
    「キャンセルしてくれ、まだ終わってない」
    「——はい。失礼いたしました」
    「そんな、私ならお構いなく。もう、失礼しますので……」
    「君のことを知りたい」

     秘書が出ていった後の室内は、変わらず無音なはずなのにトクトクと何かの音がした。これは、私の心臓の音だ、と思った。社長に聞こえていたらどうしようと徐々に自身の顔が赤くなっていくのを感じる。私は一度、手で頬を軽く仰いでから一呼吸置いて、ようやく言葉を発した。

    「話すほどのことは、ありません……」
    「俺のそばで、働いてみるか?」
    「いや!え、私には……場違いです。よく見て」
    「見てる」
    「……っ」

     そのあと……社長とどんな会話をして社長室を出たのか、あまり記憶にない。人間は緊張や恐怖の度合いを超えると記憶が飛ぶ、という事を本日目の当たりにした気がした。気づけば私は社長と一緒に、エレベーターの前にいた。どうやらこのまま、彼も外出するらしい。

    「回答に、ご満足いただけました?」
    「四つの質問に答えただけですよ?」

     そのとき、チンという機械音と共にエレベーターの扉が開く。それに乗り込もうとした刹那——私の胸に抱えられていた質問一覧の資料がさっと引き抜かれた。顔だけで振り返り、目を丸くする私の背中を社長がとん、と押しやって私はエレベーターの中へと、入るかたちとなってしまった。社長は「お疲れ様」と言い置きエレベーターには乗らず閉≠フボタンを外から押そうと、左手を伸ばす。

    「えっ、社長……乗らないんですか……?」
    「エレベーターは魔が差す。次のに乗るよ」
    「——! は、はい……あの、ありがとうございました……」

     私の言葉と同じタイミングで、エレベーターの扉が閉まる。私はもじもじと動いて自身の降りる階のボタンを押す。滑らかな振動でエレベーターが下の方へと降りていく。窓から見える高すぎるその景色に大きく息を吐いて私はぽつり呟いた。

    「苦しかった……」





     翔陽高校卒業式
    ― 翔陽高校卒業式 ―


     卒業式の日まで居るはずない。そう思いながらもいつものように藤真監督を追いかけて体育館に足を運んでしまった。当然誰もいなくて、静かな体育館にガッカリしたような、ホッとしたような気持ちで外に出て裏側に回ったら見慣れた茶色い髪が見えた気がして、どくん、と心臓が跳ねた。覗き込んだら、ドアの影には体育館脇に腰を下ろした藤真監督の横顔があって咄嗟に逃げ出そうとしたら足を引っ掛けて、派手に音を立てて転んでしまう失態。

    「……大丈夫か?」

     声をかけられ、恐る恐る振り返ると急に彼が真顔を崩して吹き出したので思わずギョッとする。

    「何だよ、その顔」
    「えっ?」
    「それにスカート、捲れてるぞ」

     慌てて裾に手をやる。もう、嫌になっちゃう。彼に会える最後の日ぐらいこんなハプニング要らないのに。

    「そう言えばお前、最初に会ったときも体育館の前で派手に転けてたよな」

     その頃私は怪我をして陸上部を辞めたばかりで友達の付き添いで追っかけのように毎日体育館を訪れていた。そうして何故か友人そっちのけで、その人——藤真監督の姿ばかりを目で追うようになっていた。その人の姿をコートの中で見たときから、私の恋は始まっていたのだ。

    「卒業式の日まで一人なんですね」

     藤真監督は主将も兼任していたから顔はいつも無表情で感情を表に出すことはなかった。自分に厳しすぎませんかと聞くと、お前は監督じゃないから分からないんだよ、と……バカにしたように言われたのが、まるで、昨日のことのように思い出される。

    「いいだろ別に」
    「いま飲んでるその空き缶、くれません?」
    「ゴミを貰ってどうするんだよ」
    「洗って、大事にとっときます」
    「馬鹿か……卒業記念に、ジュースぐらい奢ってやるよ」

     既に空になっていたのか藤真監督は白とブルーの爽やかなラインの入った缶をくしゃりと左手で潰した。そう言えば彼は、サウスポーだったな。

    「可愛い後輩への奢りだな」

     茶化すように彼は言った。最初は苛ついたような表情で、何を話しかけてもぶっきらぼうにしか答えてくれなかったのに今の彼は柔らかな笑顔を見せている。卒業式という、晴れやかな日のせいかもしれないけれど。

    「藤真監督の飲んだヤツじゃなきゃ意味無いじゃないですかぁ〜」

     そう呟くと彼は昔のような怖くも見える訝しげな表情で言い返してきた。

    「もう、監督じゃないよ……」
    「……確かに。でも、冬の選抜前にちゃんとした監督が来て、良かったですよね」
    「……。ほら、自販機行くぞ、来いよ」

     シュートを何度も決めて、みんなを必死に引っ張っていたその手を差し出す藤真、元監督——。私はその手は取らずにぽつりと「あの」と呟く。

    「最後にひとつだけ……聞いてもいいですか?」
    「ん?」
    「バスケット——楽しかったですか?」

     さらさらと、体育館裏の木々が、音を立てる。差し出した手を引っ込めて卒業証書と、空き缶を片手に彼は立ち上がった。そうして体育館をゆっくりと振り返る。

    「ああ……楽しいよ、バスケは。」
    「……」
    「……」
    「藤真キャプテン・・・・・は将来何になりたいですか?」
    「おいおい、最後に一つだけじゃなかったのか」
    「いいから!」
    「そうだなぁ……誰かの憧れになるような——」
    「……」

     そう、自分に言い聞かせるように彼は呟いた。ほら行くぞ、と、風に揺れて先を歩く彼の左額の古傷が顔を覗かせる。
     最後に彼が言ったその言葉は、風の音で私には聞こえなかった。でももしかしたら「誰かの憧れになるような」の後に続いた言葉は『尊敬されるような人になってみたい』だったんじゃないかなって。そうで、あって欲しいな、って……。

     もう、なってますよ。あなたを憧れて尊敬している人は翔陽バスケ部員全員なんですから——。





     *


    「完璧……」
    「ん?」

     斜め前に座る風邪から復帰した長谷川さんが、そう声を漏らしたので私は一度手を止めて視線を彼女の方へと向けた。目が合うと彼女はニヤリとほくそ笑んで、私にグッドサインを向けてくる。

    「学校からの質問30項目と、私の追加した質問20項目、全部メールで返信が来たわよ」
    「え、あの質問のうち、20項目も長谷川さんが追加したんですか!?」
    「だってー、高校からの質問なんか全部バスケのことに関してだったのよ?つまらないじゃない」
    「や……だからって、ゲイですか?なんて……」
    「……噂だけど、社長が監督権主将をしてたの、話題性があるからとかで、当時の理事長が決めたらしいわね」
    「……」

     そういう話は、交際時も聞いたことがなかったから私にはよくわからない。もちろん元湘北メンバーに聞いたことだってなかったし。特に深くは気にもしていなかったけれど、よくよく考えれば監督権主将って、すごく大変で重くて、辛いことだったんじゃなかろうか、と思った。

    「チームメイトも抗議に行ったーとか周りからは聞くけど、結局は噂に尾鰭がついて、何が真実かなんて誰にもわからないのよ。社長以外には。」
    「……」
    「まぁ、そんなことは置いておいて……」
    「……?」
    「よほど気に入られたようね、名字さん」

     デスクに頬杖をついて私に目を細める彼女の顔が高校時代の親友を彷彿とさせて、私は思わず、目をぐるりと回した。

    「ねえ、それ癖?」
    「え、何がですか?」
    「その、目玉をぐるんって回すやつ」

     彼女は頬杖をついていない方の手で人差し指をこちらに突き出し円を書いて見せる。指が細くて綺麗だなぁ、それに可愛いネイル。どこのネイルサロンに行っているんだろう、なんて余計な事を考えている私の思いなんて知りもせずに彼女は、「お礼言いに行かなきゃね」と席を立ち上がる。咄嗟に私は「待ってください!」と先輩でもある彼女に待ったをかけていた。

    「私が、行きます……行かせてください。」


     *


     あの、社長室に出向いた日から約一週間。彼の顔を社内で見かけることもなくこの日を迎えた。長いエレベーターを登り長い通路を歩いて社長室に向かえば今日は秘書が立っていないようで廊下は閑散としていた。
     社長室の前に立った私は、手のひらに『人』と言う文字を書いて飲み込み、小声で「よしっ」と気合いを入れてから扉横のインターホンを押す。「はい」という低い声で彼の所在を確認しカメラ付きなので、私の存在はもはや向こうには知れているだろうと思いつつもやや声を上擦らせながら「名字です」と、名を名乗る。

    「どうぞ」

     その声と同時にカチャ、と鍵が開錠された音が廊下の端にまで響き渡った気がした。震える手で扉を開けて「失礼します」と一礼して中へ入る。彼はデスクで、パソコンを打ち込んでいた。カタカタと鳴るキーボードの音はそのままに、視線をこちらに投げた社長が「座って」と言って、目線だけで椅子を促す。「はい」と小さく返事をして来客用の椅子に腰を下ろしたところでお茶を持ってくれば良かったと、このとき気がつき、静かに焦りはじめた。しかし、今から再度立ち上がり、「お茶入れますね」は失礼すぎる気がする。確実に忘れていました、と言っているようなもの……どうしたものかと考えあぐねていると目の前の席に誰かが座った気配を感じ、そっと視線を正面に向ければ相手は、藤真社長だった。

    「どうした」
    「あっ……その、長谷川さんからのこの間の質問すべて、メールで返信いただいたようで……」
    「で?」
    「あ、えっと……」
    「……なに?」
    「あ、ありがとう……ございました。」
    「……」

     刹那的に流れた沈黙の後、すくっと社長が立ち上がり、そのまま窓の方に歩いて行った。窓淵に手をつき空を眺めているのか大都会を見下ろしているのか、それとも何も考えていないのか……、そんな雰囲気でこちらに背を向けている。窓の外はすでに真っ暗だったが、なぜかこの部屋の中にいると時間が止まったように思えて、今が何時頃なのか、私には見当もつかなかった。そんな事をぼうっと考えていると彼がこちらに戻ってきて、入り口横のハンガーから自身のコートを取った。

    「今日の業務はもう終わったのか?」
    「あ……はい、ここを出たらもう退社します」
    「なら、送っていくから帰る支度を」
    「え」

     え、と呟いてから声に出さずにもう一度、え、と呟く。相手は、ごく普通にしている。まるで、「会合に行くぞ」とでも伝えているようなそんな空気が流れている。もしその空気が乱れているとすれば、私が動揺しているからであって、しかもその事を社長本人は気づきもしていないと思う。


     結局、社長に送ってもらう事を了承した、と、いうか強制的に送ってもらうことになった私は、自分のオフィスへ戻り急いで帰る支度を整える。そのまま彼、藤真社長の車が停めてある地下まで降りて、彼の車のそばでしゃがんで待っていた。私が社長室を出る際に社長の携帯が鳴ったので、きっとまた仕事が入ってしまったのだろう。もう少し待って見て彼が現れなかったら、私も電車で帰ろう、なんて考えている矢先——。

    「君を見ていると、犬を飼いたくなるな」

     地下に来てから、20分は経過しただろうか。さっきまで聞いていた聞き慣れた声に顔を上げれば、藤真社長が立っていたので私も立ち上がる。ピッ、と車のキーで鍵を開けてコートを脱ぎ去り後部座席へとそれを置く動作を目で追いながら、私もコートを脱いで、それを腕にかける。

    「犬、ですか?」
    「そんなふうに待たれてみたいもんだよ」

     彼は私の方へ移動してきて私が手に持っていたコートをこっちへ寄越せと言わんばかりに、手を差し出してきた。それに従って「お願いします」と渡せば、それも後部座席へとそっと置いてくれた。

    「あの今は、社長を、待ってたんですけど……」
    「……乗って」

     私の言葉には何も返さず助手席のドアを開けられエスコートされたので「失礼します」と言って助手席へと乗り込んだ。私が座ったのを確認してドアが閉められる。すぐに社長も運転席へと乗り込み車が発進した。なめらかに当てもなく都会を過ぎ去っていく社長の車。この車に乗ったのは、二回目、だろうか……不思議なのは社長室にいるときの方が緊張するということ。ここは彼のプライベート空間でもあるから、緊張感がすこしだけ和らぐのかも知れないけれど。でも、そんな事を私なんかが思うのはおこがましすぎる気がする。だから平常心を保つため、バレないように小さくため息を吐いた。

    「え……この曲……」
    「……」
    「社長、この曲好きなんですか?」

     いつもは無音なはずの彼の車内から今日は珍しく音楽が流れていた。すべて洋楽だったので特に気にも留めていなかったがこれ、水戸くんが好きだって言っていた曲だ、と思ったら無意識にそう問いかけてしまっていた。しかし社長は無反応でオーディオの音を止めるため停止ボタンを押してしまったので、車内はまた無音となり、結局あの水戸くんが好きだと言っていた曲を社長も好きなのかどうか、真相を確かめる事はできなかった。

     気がつけば車が、大きな橋の脇に停められる。「降りろ」とも「そのまま待っていろ」とも告げられず彼が降りるのを見て、私もとりあえず後を追うことにした。社長は橋の中程まで歩いて行き足を止めた。橋の手すりに腕を乗せ、まっすぐに前を見据えている。私はその横に立って目の端で彼を盗み見る。しばらくすると密やかに、社長が言葉を紡いだ。

    「さっきの曲は——あの映画が好きなんだ」
    「えっ……」
    「……官能映画なんて観るんですね……って?」
    「あっ、いや……!その、あの、なんというか」
    「あの映画はプレイの一つ一つに主人公の心情が反映している深い映画だ。感性が、まだ青いな」
    「……なんか、すみません。社長は、洋楽が好きなんですか?特によく聴く曲とかありますか?」
    「それは……翔陽高校からの質問とは別か?」
    「はい。個人的な質問です」

     刹那的な沈黙の中、私が社長からの返答を待っていると社長は、ふぅと溜め息のような白い息を吐いてから、ぽつりと言った。

    「……8Letters——」
    「エイトレターズ?えっと、8枚の、手紙?って意味ですか?」
    「なんでもかんでも直訳するんだな」
    「え、違うんですか?えっ、じゃあ何だろ……」
    「母校からの質問はバスケの話ばかりだったよ」

     突然そんな事を言い出したので驚いて今度こそしっかりとその表情を窺おうとしたが正面を向いている彼に対してこの位置からではうまく表情が見えなかった。私は姿勢をまた正面に向けて続く社長の言葉を待った。

    「冬の選抜前に後任の監督が来て、ようやくそのしがらみから解放された。まあ、左遷だけどな」
    「……」
    「でもこれで、大会の申込書を書いてもらえる」
    「……、」
    「もう仲間を——順位付けしなくていい、って」
    「……え」

     偶然というのは、神の御業みわざなのだと昔、誰かが言っていた。長谷川さんが風邪を引いて私が代理で社長室へ行かなかったら……こんな話を聞ける世界線はなかったのかな。
     それならそもそも再就職した先に彼がいた事も神の御業みわざ——だったのだろうか。

    「あの用紙の一番上——学校名、監督氏名、主将氏名……あそこに自分で自分の名前を書く作業が本当に嫌いだった」
    「……」
    「これからは4番に選ばれるよう努力するだけだって、嬉しかったんだろうな」

     まるで彼は、人ごとみたいにそんな事を言う。彼が今、どんな言葉を欲しがっているのかはわからない。もしかすると言葉なんていらないのかもしれない。まさに、富と名声を手にしているって思っていたけれど……今はどんな言葉を投げかけたって、きっと月並みな言葉しか言えなくて居た堪れなくなるだけな気がして、それでも——、

    「……その、順位付けの頂点に……自分の名前を書くのは、重圧でしたか?」
    「いや——それは別に。俺より上手い奴がいればそいつの名前を書くだけだからな」

     彩子やリョータくんから彼は、一年生のときはもちろん……二年生のときもエース≠セったと聞いた。確かにエースの自覚は充分。自己肯定感も高い。それは、いまも変わらずに——。
     藤真社長は、なんというか……保定のレベルを超えて司令塔になっている。本能に、忠実なのだろう。しかし、そんな人間であっても、誰にユニホームを与え、誰をスタンドに置くか。仲間を、選別するのは……苦しかっただろうと思う。


    「藤真さん——」

     思いがけず呼んでしまった彼の略称。すぐに、「社長と呼べ」とお叱りを受けるかと思いきや、彼は特に気にするそぶりも見せずにずっと前だけを見据えていた。

    「……バスケット、楽しかったですか?」
    「……ああ——バスケは、楽しかった。」

     ——夜明け前が一番暗い。この痛み、悲しみは永遠じゃない。この瞬間も永遠じゃない。なにも永遠じゃない、そう……今の私たちも、きっと。

    「昔の事は話したくない、でもお前とは話したいと思った。まあ、気まぐれだ。深い意味はない」
    「……」
    「……」
    「今度から眠れない夜はここに来る事にします。午前5時に——この橋の上に」
    「……午前5時?なんで」


     光が多いところでは、影も強くなる


     小説家、ゲーテの言葉。光が強く当たっているところでは影は濃く出る。光が強ければ強いほど陰も強くなる。とかく人は明るく照らされているところだけを見てしまう。しかしその裏には光の強さに比例する強さの影の部分が必ず存在する事を、忘れてはならない。影をなくして光を得ようとすることは不可能。光と影は共に存在するものであるから……また光だけを見ようとしても影がないと光は見えない。光の意味をどう捉えるかの違いはあっても、光と影の関係をしっかりと見据えて行動して生きていくことが、豊かな人生には大切なことなんだって——。

    「日の出の時間だからです。一日の中で一番美しい時間……始まりの、時間帯です」
    「……。電話して、付き合うよ」

     驚いて今度こそ彼をじっと見据える。ゆっくりと向けられたその瞳に囚われて、金縛りにあったように瞳を逸らすことができない。
     きっと、私から電話をかける事はないだろう。仮に私が電話をかけたとしたって、この人は仕事以外の着信は取らないだろうと思う。なのに——なんで、そんなことを言うんだろうか。
     ようやく現実世界に戻ってきたとき思いがけず私は目を回して、あからさまに視線の行き場所に戸惑いを見せた。

    「また……目玉を回したな」
    「……かも、ですね。お仕置きします?」

     ふ、と鼻で笑った社長はまた、視線を橋の先、海の方へと向けた。それに従って私も視線を海へと向ける。真っ暗闇の中、今日も時間が経てば、またちゃんとこの闇の中にも光が差すのだ。
     明るい未来と希望は前にしか存在しない。絶対に。光を描くために、闇を描くのだと……私は、そう思っている。いや、願っている——。


     人はなぜ、愛を求めるのだろうか。それは愛が幸せの原点——生きた証だからだ。
     誰かを愛するとき、人はこれまでと違う自分に出会う。一度きりの人生に意味を見出す。
     なぜ生まれてきたのだろう、なぜ生きているのだろう……この問いに答えられるのは愛≠セけなのだ。愛する人と抱き合う時、その瞬間だけ人は永遠の命を得る。おろかな私たちは愛によって生かされているのだ。なぜなら——、

    「……さっきから、ずっと携帯が鳴ってるぞ」
    「……」
    「出なくていいのか」
    「……、」

     恋愛は遅く来るほど激しいと言ったのは誰だっただろう——恋≠ェ、私を壊そうとしている。分かれ道≠ニいう言葉を思い出した。この電話に出なかったら私はきっと引き返す道を失うだろう。だから私にはこの着信を取るしか道は残されていないのだ。それが、私の運命さだめだから——。










     I Love you が 8 文字なんて
        彼女はきっと、気づかない。




    (——もしもし、寿?あ、うん。もうすぐ帰るよ)


    ※『 8Letters/Why Don't We 』を題材に。

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