螺旋の終わりを知るために

  • 表紙
  • 目次
  • しおり

  • 「お返し、くれると思います?」

     三月十四日——午後九時過ぎ。この階の社員は既に全員が退社済みでオフィスに残っているのはまさに私だけとなっていた。
     デスクを挟んだ向かい側の席、神妙な顔付きで問われた質問に思わず私は苦笑する。彼女は最近までこのビル内にいて社長のそばで働いていた。しかし三月になって突然子会社への異動——社内では、藤真社長と彼女の間に何かがあったのだと思った人も少なくなかったが、それをあえて口にする者は誰一人としていなかった。

     彼女が中途で入ってきた頃から、何かと仕事のやり取りをしていた私は数日前メールである資料をこちらに持ってくるよう彼女に依頼した。要は社長との間に何があったのかを追求するつもりで呼んだのだが先に彼女からそんな質問をされた。どうやら社長に先月、バレンタインの品を渡したのだそう。逆に社長との関係を聞くいいきっかけが出来たと密かにほくそ笑む私だったが、刹那「ちゃんと聞いてるんですか!?」と机を叩かんとする勢いでこちらに身を乗り出してくるものだから、慌てたように両手を前に出して「落ち着いてよ」と、隠しきれない溜め息を乗せて、言葉を吐く。

    「ええ、聞いてはいるから」
    「その割に面倒くさ、って顔に出てましたけど」
    「分かってるなら聞かないでよ……」
    「ほらぁ!もう……」

     いちいち相手にしていると疲れる、と辟易した顔でもう一つ溜め息を吐けば、椅子に下ろされた彼女の腰。唇を尖らせて、ぶつぶつ文句を垂れているその彼女にバレないよう私は小さく笑って、そっと問いかける。

    「でも、受け取っては貰えたんでしょう?」
    「いや……物自体は受け取らなかったというか、気持ちは受け取ったらしいというか……」
    「で?社長の反応はどうだった?てか社長って、どんな人なの?そばで働いてると」
    「うーん……いい人、ですよ?」
    「いい人?それだけ?」
    「なんというか、社長はすごく……品が良くて、それから、とても礼儀正しくて、それで堅苦しいところもあって……で、清潔——。」
    「清潔?」

     彼女から受け取った書類に目を通してパソコンのキーボードをタイピングする私の手が止まり、片方の眉をぴくりと反応させて彼女をチラ見すれば、彼女は私から分かりやすく目を反らして先を続けた。

    「その、つまりなんていうか……知的ってこと。ピンと張り詰めていて、近寄りがたい人。まあ、魅力があるのは確かです、ね……」
    「へえ」
    「……なんで、そんな目で見るんですか?」
    「どんな目?」
    「む……。もういいです」

     ふいっと私から顔ごと背けて彼女は椅子をくるくると回転させ、天井を仰ぐ。時たま、首を捻るその仕草を見ればどうやら向こうの支部でもバリバリ働いていてこちらにいた時と同様にパソコンに向かっているのであろうことが窺えた。

    「社長ってゲイなのかしらね」
    「は?ゲ……ゲイ、ですか?」
    「だって、広告誌にしたって、女の人と映ってる写真が一枚もないのよ?ってことは……ね?」

     頭に浮かんだ一つの事実を口にすれば、相手の唇が拗ねたように突き出されたものだから、その行動の幼さに思わず私はくすりと笑った。

    「ただプライベートを守ろうとしているだけかもしれないじゃないですか」
    「社長のこと庇ってる?」
    「——もう、この話はおしまいです」

     何か彼女なりに思う所があるのだろう、相手の顔を思い浮かべているのか、いま一つ納得しない様子で、溜め息と一緒にそんな言葉を返された。

    「じゃあ、返してくれるんじゃない?その辺りは義理深い人だと思ってはいるけど、私も」
    「はあ〜……」
    「今度はなに?どうしたの?」
    「こんな事なら渡さなきゃよかったなって……」
    「ああ——なるほどね」
    「んっ?なんですか?」
    「だからあえて、今日届けに来たわけね?資料」

     突然持ちかけられたチョコレートの話と今日の日付を照らし合わせながら問いかければ渋々頷きながら彼女が言う。

    「実は……支店長にも手が空いていたら手伝って欲しいって呼ばれていたので、一応仕事ではありますけど」
    「もう支店長とっくに帰ってる時間よ?」
    「……」
    「あわよくば……って感じね」
    「……まぁ、はい」

     素直に一度首を縦に振ってあからさまに落ち込んだ彼女を盗み見ながら仕方ないとデスクをこつりと叩いて俯いている彼女の思考を浮上させる。

    「今日社長なら——まだ社内に居るわよ?もしも会えれば、貰えるかもしれないわね」

     喜ばせるための一言だったとは言えどもこれは決して嘘ではなかった。この一言にさっきまでの鬱蒼とした表情が嘘のようにパアっと顔を明らめた彼女が瞳を輝かせて立ち上がり、デスクをつついた私の手を握ってくる。

    「長谷川さん!大好き!」
    「もう、分かったから早く行ったら?こんなとこ社長やみょうじさんに見られたらどうすんの」

     包まれるように握られた手のひらに体温が伝わる。私がこんな仕事と関係ないことで彼女の背中を押したなんてもし相手に知られたら堪ったものじゃない。あの冷酷な瞳で「君は職場に何をしに来ているんだ」と言われかねない。そう思い無理やりその手を引っぺがすと一度扉を向いた視線がまたこちらに引き戻される。

    「……あの、どこに居るか分かります?」

     会いに行くと勇んでみたはいいものの、ビルの部屋数を思い浮かべて焦燥したのか、見るからに慌て始めた彼女に適当に合わせて返す。

    「恐らく社長室か……それでなくとも探せば会えるんじゃない?ビルの中にはいると思うから」
    「うわ、今また面倒くさって顔しましたね長谷川さん」
    「やだ、バレた……?」
    「……」

     一瞬泣きそうな顔をしたかと思えば扉へと向き直った彼女のその小さな背中に私は声をかける。

    「……頑張ってね」
    「……っ、はいっ」

     扉が押しだされその外へと彼女が消えていくのを視認して、どっと押し寄せてきた疲れに、はぁと溜め息をもらす。彼女には言わなかったが今年社長はその類を一切受け取らなかったと聞いた。それに加えて無理やり渡そうとしてきた女性達のプレゼントは全て目の前で捨てた、なんて噂も。証言者が、お調子者で有名な男性社員だからいまいち信憑性には欠けるがそれに関してその社員が騒いでいるのに対して社長本人も、そのとき側にいたみょうじさんも何も言い返していない様子を見るに、きっと事実だったのだろうと思う。
     これは、脈ありかも知れないわね、と、まるで娘を思う父親のような気持ちになりながら彼女の恋が実るようにと、心の中で願ってみたりする。

     そういえば、彼女の付けてる薬指のリングって藤真社長から贈られたものなのかしら……なんてふと疑問に思ったことを、溜め息と一緒に空中に吐き出して、私はそっと瞳を伏せた。


     *


     廊下を歩きながら、彼——藤真社長の事を考える。長谷川さんに冗談混じりで告白まがいの事をしてしまったけれど、本当に見方によってはそう思われても仕方ないよなあ、と改めて思う。
     私は彼を、どうしてここまで気に掛けるのだろうか。女性には冷たいし話しかけてもそっけないし、重い荷物も持ってくれないし……けれど私はそれを気が利かないとか、そう思ったことは一度もないことを思い出す。再会してからは、優しくないなぁ……とは、たまに思うけど。
     そんな彼が先月、私からのチョコレートを受け取ってくれた。いや、受け取ってはいないけど。本当に嫌々、渋々という感じに近かったけれど。

     私が「たぶん、美味しいと思います」と言って差し出した包みを凝視したとき「食えるんだろうな」とか今の彼ならそんな失礼な事を言ってくると想定していたのだが意外にも「お前は食べたのか?」と、そんなことを言われた。「いえまだ」と返した私に彼は「じゃあなぜ美味いとわかる」なんて聞き返してきた。ただただ挙動不審に上手な返しも出来ず「え、高級だったので」と何とも淑女たる科白を吐いてしまった気がする。

     あの出来事がヒットしたのかどうかは別として結局それを受け取らずに彼は一度顔を歪めて溜め息を隠そうともせず「実物のほうはお前が食べるといい。高級な味がするだろうしな」と、意図の掴めない言葉をこちらに投げつけてきた。
     実物?という事は実物でないほうは受け取ってくれたということ……?え、どういうこと?と、きょとんとしている私を彼は、不快げに鼻の付け根にしわを寄せ背を向けて去って行った。片手でキーを出して、それで開錠する電子音が、なぜか離れた位置からでも聞こえてきた。車に乗りこむ瞬間、彼はこちらに振り向いた。目が合い、けれど微笑するでもなく、肯くでもなく顔を背ける。ドアを開けて彼は車の運転席に座った。車はなめらかにカーブして、方向転換する。それはすぐに颯爽と走り出して、見えなくなった。目が合ったときの藤真さんの表情。困ったようにイライラを隠しているように、どこか……怪我したみたいなあの顔が、やけに脳裏に焼き付いて離れない。

     それから何度か、彼に会う機会はあったけど、あの美術館に一緒に行ったバレンタインデーの話をされる事はなかった。その事実が私を少々不安にさせたが、なんてことをやっているうちに私は職場を異動した。そうして、寿と一緒に暮らしていたマンションには今、帰っていない。この半月で色んなことが目まぐるしく変わってしまった。
     藤真さんと付き合いたい、とか。そんなことを思っているわけではない……けど、もしこのまま今の関係がもっと悪化してしまうのならこのままでもいいと思っている自分もいたりして。
     お返しなんて口実に過ぎなかった。私は彼からそれらしい言葉が聞きたいのだ。冷たくてもなんでもいい。私は、彼から背中を押してもらいたいのだろう。それが今の私の望む言葉ではなかったとしても——。


     とりあえず社長のもとへ向かう事にした私は、どくり、と柄にもなく緊張を示す心臓を抑えつけながら上階の社長室を目指す。まだ上のフロアに残っていた面々は突然現れた私の存在に訝しそうに目を細めて、ひそひそと何かを呟いているみたいだったけれど、今の私はそれどころじゃない。
     慣れていなければ気が遠くなりそうなくらいの長い廊下の角を曲がってたどり着いた社長室に、思わず背筋が伸びる。
     みょうじさんは何となく私と社長の間に何かがあったのだろうと気づいている気がする。だからもし、ここに彼女が居たとして私が扉を開けたとしても瞬時に事情を理解して、その威厳のある表情を柔和に緩めて仕方ないわねって話を合わせてくれるだろう……と、思いたいだけなんだけどさ。
     社長室を目の前にして、これから訪れてもいい最悪の事態を一度頭に浮かべて、深呼吸をする。

    「——名字です」

     意を決し、数回ノックをした後、部屋の内側に向けて声をかける、その声がどうも震えている。

    「どうぞ」

     ──良かった。この声は、みょうじさんだ。
     安心して重厚な扉を開ければ、彼女と目が合うより先に視界に飛び込んできた、品の良いスーツジャケットとパンツに反射的に背筋が強張るのが分かった。気付かれぬように視線を逸らして見遣った先のみょうじさんは、やっぱり諦めたような優しい顔をしていたから、私は益々もう一人の彼のことを直視出来なくなってしまった。

    「すみません、大事なお話中でしたか?」

     静けさの中、彼女がぺらぺらと資料をめくる音を聞いて、私は咄嗟に問う。

    「いえ……大丈夫です。名字さんこそ、何か御用ですか?」

     自然に視線を宙へと動かしてそう彼女が問えば不躾に向けられるもう一つの視線に私は苦笑する。ぺらぺらと紙を捲る音だけがゆったりとした時間と共に流れて少しだけ落ち着いた気分を取り戻しかけた、その時だった。

    「——名字は、俺に用事があるようだな」

     溜息を盛大に含んだ抑揚のない独特の低い声が室内を舞う。その言葉に思わず「え……」と彼の顔を確認するも真意は窺えず助けを求めるようにみょうじさんに視線を送れば、その顔が何か温かいものを含むようにこちらに向けられていて私は戸惑った。彼の顔は相変わらず無機質なままで、何も映していないように思えるのに。

    「——みょうじ、悪いが少し時間を貰う」
    「ええ、あとはこちらで済ませますので」
    「……悪いな」
    「いいえ、私は構いませんよ」

     資料を足元の鞄へ仕舞い込み、こちらを向いて一度微笑んだ彼女は、もう一人の──藤真さんの顔を見て、更に口角を上げると楽しそうに呟く。

    「社長、ごゆっくり」
    「……それは余計なお世話だ」

     二人の会話の行間を読めない私だけが取り残されて、ただただ戸惑うことしか出来ない。そんな私の様子に気付いた社長は元々深かった眉間の皺を更に深く刻ませて、舌打ちでもしそうな勢いで私の名前を呼ぶ。

    「名字」

     変わらず抑揚のない声だけれど今度のはやけに耳につく言い方だった。上手く形容出来ないのが惜しいくらいに——。

    「行くぞ」

     彼はそう言うなり彼女に目配せすることなく、私の背後にある扉の前までやってきて、こちらを一瞥する。大きいけれどどこか繊細に見える手によって開け放たれた扉の先が、見慣れたものとは違う別のもののように感じられて、一瞬戸惑ってしまったのが癇に障ったのか、彼は一度首を傾げると私の背に手を伸ばして外へと押し込む。服越しに触れたその手のひらが思ったよりも熱を帯びていたから、勢いのまま押し出されてつんのめる体勢で部屋を後にしてしまったのだけれど咄嗟に振りかえった先——みょうじさんが酷く楽しそうに社長と私を見ていたから、私は眉尻を下げて曖昧に笑い返すことしか出来なかった。


     *


     社長はあれから一言も話さない。上階の廊下はカーペットが敷かれているためそれが二人の足音を吸収して、この場は驚くくらいに静かだった。ただひたすらに前を向いてどこかへ案内する彼の後ろを大人しくついていけば暫くして不意に止まった背中に私の足も止まる。この階へは何度も来た事があるけれど入ったことのない部屋だった。社長は私の顔を一瞥して木の擦れる音の立つ扉を開ける。ぶっきらぼうな態度なのに、私が部屋に入るまで扉を押さえていてくれる辺り、彼らしいなと思った。異性を尊重する行動は少なくても、彼は男性相手でも女性相手でも、何気なしにこういうことが出来てしまう人だから。

    「……入れ」

     部屋の中は他のものと比べて随分と簡素で、けれどお洒落なものだった。黒の革張りのソファーがローテーブルを挟んで二脚、観葉植物が置かれ高そうな陶器の置物も置いてある。社長は私が入ったのを確認してゆっくり扉を閉めると奥のソファーを手指して私をそこへ促した。促されるまま腰を下ろしたはいいけれど彼はと言えば私の挙動を横目で見るだけで入口にほど近い壁を背にして腕を組み瞳を伏せてしまった。どうやら向かいに座る気はないらしい。その距離に分かってはいたけれどなんだか少しだけ、寂しい気持ちになる。

    「……それで、なんだ」

     閉じていた瞼を開けてこちらに視線だけを寄こした彼が、やや低い声で言う。

    「……え?」
    「俺に話があるんだろう」

     先ほど言った言葉とは逆のそれに、思わず首を傾げてしまえば、面倒くさそうに小さく溜め息を吐いてこちらに歩みを進めてくるものだから自身の喉が一気に潤いを失うのが分かった。

    「……大方、予想はついているが」

     私の横を通り過ぎてその背後の棚へと向かった社長が、何かを手に持ってこちらに戻ってくる。怠慢な動きで繰り出される足が徐々に近づく音がする。きゅ、と革独特の擦れる音を一つこぼして彼が私の前に座る。ローテーブルを挟んでいるとはいえ普段とは比べ物にならない近さに心臓が跳ねた──その刹那。彼の手に持っている物を見てしまい、私の心臓は引き裂かれる思いだった。

    「それ、……」

     私のあげたチョコレートと、同じ包み紙——。手作りは嫌がられるだろうと分かっていたから、奮発して高いチョコレートを買った。最近店舗を出したばかりの人気店で買うまで時間がかかったけれど、その分きっと気に入ってもらえるものが買えたと自分でも満足していた。バレンタインデーの時期だったお陰で無料でラッピングも頼めたから社長は何色が好きだろう?と、考えて。髪も瞳も中性色だから、暖かい色が好きなのだろうと思って中間色のオレンジを選んでリボンもそれに合わせて金にして。店員さんに微笑ましそうな表情で見守られてしまったくらい悩んだし渡すまで何度も見つめてしまったから、嫌というほど目に焼き付いてる。それと同じ、ラッピングだった。まぁ……受け取ってはくれなかったのだけど。

    「……」
    「……」

     ——オレンジの包装紙に、金のリボン。わざとだよね?これって。私が渡そうとしたものと同じものを返して「君の気持ちは受け取れない」と、言っているようなもの。嫌がらせに近いような、なんとも説明しがたいその事態と事実が、思ったよりも遥かに大きな痛みとなって私に重くのしかかる。そんなことを考えていると、彼の手がゆっくりとローテーブルにそれを優しく下ろした。

    「緊張してるな」
    「威圧的だから」
    「はっ……確かに」
    「それになんだか強引ですし」
    「お返しが欲しかったんじゃないのか」
    「……」

     無骨な中指と人差し指が綺麗にラッピングされたままのチョコレートを私の方へとスライドさせる。意思とは反対に視線をそれから動かせなくて視界の端に捉えた、少し意地悪く上げられた口角しか今は窺い知ることが出来ない。

    「……いらないです」

     頭の中で思い描いていた声よりもずっと冷たい声が出てしまう。社長の珍しくも少し愉快そうにこちらを覗いていた瞳が細められて一気に不機嫌になったのが気配で分かった。どうして、そんな顔をするのだろう……その理由は分からなかったけれど、彼はまさか私がこれを、受け取るとでも思っていたのだろうか。

    「……」
    「俺にはお前の考えている事がよく分からない」

     包装紙を抑えていた指を離してソファーの背もたれへと体重を預けて、両手と足を組んだ社長の溜め息が聞こえる。その声色が珍しく困っているようだったから俯く首を無理やり引き上げて社長を見遣る。彼は眉間に深く皺を寄せて何か考えているみたいだった。

    「これは——何ですか?」
    「お詫びだ」
    「え……?」

     ぽつりと。思いもよらない言葉をかけられて、藤真さんの顔を凝視してしまう。目元は大きな手のひらに隠されて見えない。口調はどこか素っ気ないものだったけれど、その口元はたぶん少し尖って、いつもより幼い雰囲気が感じられて、私は再び視線をローテーブルに移す。そうして嫌でも視界に入るオレンジに下唇を緩く噛んで、寄せてしまいそうになった眉が、それを見つめる時間と比例するように徐々に離れて行く。──なんだか私のあげたものより一回り大きい気がする。さっきは彼が持っていたから小さく見えたけれど比較するものの無くなった四角い箱は、見覚えのあるそれよりも幾らか大きく見えて、まさか、と私の中で、一つの考えが浮かんでしまう。そんな……嘘だよね?だって……

    「これ、もしかして……同じところで買って来たんですか?」


     ——そんな甘いこと。あるはずないのに。


     私の問いかけに社長が目元を覆っていた手のひらを下げる。面倒くさそうに歪められた瞳がこちらを向いてテーブルの上のものを一瞥すると再び戻ってくる。彼が口を開くまでの数秒間のあいだが怖ろしく長いものに感じられて私の心臓が激しく跳ねる。勘違いだったらどうしようという杞憂が頭をよぎりそうになったとき、彼がそのオレンジ色の箱を掴みあげてこちらに差し出してくる。

    「見て分からないのか」
    「……」
    「たぶん、美味しいと思うんだろう?」
    「……、」
    「お前のことだ。どうせ食べていないと思った」
    「……っ」

     数度上下に揺らして受け取れと催促をしてくる右手に促されて、それを両手で受け取れば、私のあげたものよりも少しだけ重いそれに泣いてしまいそうになる。私のあげたものと同じものをそのまま突き返されたのかと思ったのに——。そんな考えが伝わったのか、大きな溜め息が目の前から発せられて、居たたまれない気持ちになりそうになるのをぐっと堪えて私は、社長に笑いかけた。

    「……ありがとうございます」
    「……」
    「……」
    「何を勘違いしたのかは知らないが最初から素直に受け取ればいいんだ、そうやって」

     普段通りの意地のわるそうな笑みを返されて、思わず頬が緩んでしまう。わざわざ私のために買いに行ってくれたということが嬉しくて。勘違いしてしまったけれど、ラッピングも同じにしてくれたことが嬉しくて。ああやっぱり私はこの人が好きだなぁ、なんて現金なことを考えてしまう。恋愛感情とかじゃなくて、なんというか……人として、だけど。うん、たぶん。


    「それで——」

     貰ったお返しを大切そうに両腕に抱けば、それを横目で見た藤真さんが不意に言葉を紡ぐ。言葉を中途半端に止めソファーの背もたれから身体を起こしてローテーブルを足で退けたかと思えば、その距離を詰めんばかりにこちらに身を乗り出してくるから視線が逸らせない。彼が伸ばした左手が私の座るソファーの縁に置かれて革の軋む音がしたけれど、近づいてきた顔にそんな事を考える余裕は無かった。社長から離れるようにじりじりと背もたれに沈んでいけばそれすら詰めるように身体が迫ってきて顔を下げるタイミングを失ってしまう。

    「それは、好意と受け取って良いんだろうな」

     私の身体を覆いながら、吐息のかかる距離まで顔を近付けた社長が不敵に笑う。だめ——流される、と。でも、もう……いい、と。
     その質問にやっとの想いで小さく頷けば、満足そうに目を細めて私の前髪を耳にかけてくれる。その顔が酷く優しくて、期待してしまう。

    「……藤真さんも、ちゃんと、お返しってことで良いんですよね?」

     もしかしたらと、そんな事を想いながら、ぎゅっと箱を包む両腕に力が入る。数秒考えるように目の前の瞳が閉じられたかと思えば、再び緩く開かれた両の瞳が私をいとも簡単に射抜いていく。

    「……ああ」

     ややあって返された言葉に現実味を感じられなくて、今度こそ泣いてしまいそうになる。そんな私に気付いたのか髪の毛を触っていた手が後頭部に回って優しく撫でていく。そのぬくもりに身を任せるように笑いかければ、藤真さんの顔がまた少しずつこちらへと近づいてくる。

    「……だが、それだけじゃない」

     今までと比べ物にならない心臓の高鳴りを感じながら、私はその身を縮めて目を瞑った。

    「言っただろ?お詫びだと」
    「……?」
    「君に——誤解を与えた、そのお詫びだ」
    「え……?」

     突然の冷めた声色に、閉じていた瞼をゆっくりと開ければ、その至近距離のまま、彼が私の頬に片手を添えた。しかし視線は、見下すように私を見下ろしている。

    「いいか?俺は恋愛に興味はない」
    「……」
    「俺には近づくな。もう本当に、これっきりだ」

     ハッとして我に返り勢いよく彼の手を振り払って立ち上がる。パタパタと早足で入り口へ向かい扉の前に辿りついたとき、彼に背を向けたままで私は言った。


    「——さよなら、藤真社長。」


     急いで部屋を出て、扉を閉めた。エレベータが来るのを待ちながら何かもっと他に言葉にしたかったけれど何も言葉が出なかった自分を戒める。なぜこうなったのか一つも状況把握できていないからだ。わかるのはただ、さっきとはもう様子が違うこと。そして……やっぱりこの人は、過去の彼にはもう、戻らないということだった。

     まただ……。私の浅ましさを彼はいつだって、お見通しなのだ。私は自分をわかっていない愚か者。目があったときの、藤真さんの表情。いつも困ったようにイライラを隠しているようにどこか怪我したみたいな、あの顔。あれをされると私はこうして流されることを彼は見抜いているのだ。


     *


     彼女に例の物を渡してから数日後。自宅でパソコンに向かっていた午前一時を過ぎた頃——突然携帯電話が鳴って液晶を見た俺は一つ小さく息を吐き、その着信を取った。

    「——名字か?」
    『そう、私〜。ああ、あの高価なチョコレートは送り返すから〜中開けてびっくり!私なんかじゃ到底買うことの出来ない最高級のやつでさぁ〜』
    「……」
    『でも——とにかく、ご親切にどーも!』
    「……どういたしまして、今どこ?」
    『いまぁ?トイレに行きたくてぇ並んでるぅー』

     どうやら彼女は、外で飲んでいるようだった。背後からは質の悪い騒がしい音が聞こえる。もう一度デスク上の時計で現在の時刻を確認して俺は椅子の背に深く体重を預けて首を捻る。

    「お前、酔ってるのか?」
    『ふふ。そう!酔ってる〜、ミスターお金持ち!そう、ズバリそう言うわけなんですよぉ。つまり大当たりってことー!』
    「……いいか、今すぐ三井のいる家に帰れ」
    『何それ、ほんと偉そう。名字、美術館に行こう、名字、ダメだ俺に近づくな、君とはもうこれっきりだ!』
    「……」
    『名前……俺と、結婚しよう。』
    「———……」
    『こっちへ来い……あっちへいけ。きみのそれは愛じゃない——』
     
     俺は椅子から立ち上がり、窓際へ移動して窓の外を見下ろし少々苛立ち気味に彼女の言葉を遮るように言う。

    「今……どこにいる?」
    『藤真さんの生活圏からは遠ぉーく離れたとこ』
    「なんてバーだ?名前は」
    『知らない——もう切らなきゃ』

     そう呟いたかと思ったら、突然電話が切れた。思わず電話を耳から離して、液晶画面を見やる。そうしてすぐに電話をかけ直せば、ワンコールもしないうちに相手が電話口に出た。

    『悪いけど、私——』
    「そこにいろ、迎えに行く」
    『は?ちょ、藤真さん、もしも——』

     無理やりに電話を切ったあと、すぐに折り返しが来てこちらの言葉は無視で、今度は向こうから電話を切られた。
     バレンタインにホワイトデー、異動、寿とすれ違い——この数日で起こった出来事に、さすがの私もキャパオーバーとなり急遽誘われた長谷川さんとの飲み会に繰り出してあまり来ることのないクラブに足を踏み入れ、テキーラを数杯煽ったらこの様だ。具合が悪くなってトイレに立って順番を待っていたとき、ふと彼の連絡先を消してしまおうと思い立った。それなのに気がついたらその相手に電話してしまっていたと言うオチ。
     とりあえずトイレを済ませて外の空気でも吸おうとクラブハウスから出ておぼつかない足取りでふらふら歩いていると、突然腕を引かれた。

    「お姉さんっ♪なに〜?酔っ払ってんのぉ〜?」
    「いいねぇ、俺たちと遊ぼうよっ!」
    「ちょ……っと、離してっ!」

     私はたぶん——どうかしてる。こうして、変な男たちに絡まれる始末。もう、本当に救えない。彩子から何度も入っていた安否確認の連絡にすら返信できていない。きっとお酒のせいだ。こんなに心臓がうるさくて涙が出そうになるのは。ダメだ、私はなんて出来損ないなんだろう。このままこの見知らぬどこの馬の骨かもわからない連中に連れ去られレイプされてきっと東京湾に沈められるんだ。いや、もうそれでもいいかも知れない。

     彼女と寿がキスをしたことを、なんとも思っていないなんて嘘。裏切りを許せるほど、大人にはなれなくて、傷ついてもすがりつけるほど一途にもなれなかった。私の負けだ。
     二兎追うものは一兎も得ず——どちらも得られなかった私は結局、白にも黒にもなれないのだ。だから決めた。私が寿と藤真さんの前から消えるって。それで終わり。それでゼロ≠ノなる。

    「——好きだったのに……」
    「ん?なにィ?お姉さんめっちゃ酔ってんね!」
    「俺たちと気持ちいことしよーぜぃ♪」

     藤真さんのことも、寿のことも。ただ……好きだっただけなのに——。


    「やめろ!嫌がってるだろ」

     そのとき、もう一つの腕を強く後ろに引かれて目を見開く。私を抱えるように背後にいたのは、先ほど私が酔っ払って電話をかけた元、婚約者。

    「……藤真、さん?」

     彼が適当にあしらってくれたおかげで、文句を垂れながらも男たちは小言を吐きながらその場を去っていった。彼——藤真さん、いや……社長と突如ふたりきりになる。

    「——吐くっ」

     ムードもへったくれもなく襲ってきた吐き気に口を抑えて前屈みになると、スッと差し出された洗濯済みの彼らしいセンスのハンカチ。「ほら」と出された質の良さそうなそれを受け取り、私は口元を覆った。

    「見ないで」
    「見てない」
    「ああ……いい肌触り。これ洗って返しますね」
    「……家まで送る。おいで」

     先ほど勢いよく掴まれた時とは打って変わって今度は、そっと肩に手を添えられて、彼の補助を借りながらとりあえずフラフラと歩いていくと、すぐそばに彼の愛車が停まっていた。私を助手席に乗せ、しっかりシートベルトまで締めてくれた彼の無意識の優しさに、思わず頬が緩む。それを隠すように私が目を伏せれば瞬間——社長と至近距離で目が合った。それでもすぐに目を反らして彼は私から距離を取り、助手席のドアを締めて、自分は運転席に乗り込んだ。間も無くして、アクセルが踏まれ、緩やかに車は発進した。

    「なんで……ここだって、わかったんですか?」
    「……兄貴の経営している店の一つだ」
    「え、兄貴……って、お兄さん?え、どの人?」
    「長谷川と、一緒にいた人だ」
    「えっ!あ、長谷川さんと。あれがお兄さん?」
    「ああ、残念ながらな」

     お兄さんなんていたんだ……と、そう言えば、過去にそんなことを言っていた気がするなと先の言葉に詰まっている私を見たからか、それとも、特に意味はなかったのかは定かではないが、彼はぽつり「腹違いのな」とだけ呟いた。それ以上は追求することは避けた方が良いと思った私はそのあと口を噤んだ。そうして無言のまましばらく車を流していた彼から先に言葉を投げかけられる。

    「マネージャーのところでいいんだよな?」
    「あ、はい……え、なんで知ってるんですか?」
    「三井の連絡先を知らない……とりあえず宮城に確認してみたら、お前が今はそこに寝泊まりしていると聞いた」
    「……リョータくん、なんて?」
    「俺にお行儀よくしろって。脅されたよ」
    「藤真さんが!?あはは!……あー、だめ。ぐらぐらしてる。ああ、倒れそう」
    「——え、今!?」


     *


     私はあのまま気を失ったらしい。要は……あの状況下で爆睡してしまったのだ。次に目を覚ましたときには藤真さんの車があるマンションの前に停車していた。それは彩子のマンションだった。

    「……目が覚めたか?」
    「はい……今、何時?」
    「三時だ」
    「……」
    「やけ酒してこの有様か。全く、マネージャーや宮城の心労は、いか程かと察するな」
    「……ごめんなさい」

     藤真さんは「水を飲め」とペットボトルの水を手渡してくれた。多少水滴がついていたので私が寝ている間にコンビニから買ってきてくれたのだろうと察する。それを受け取りゴクゴクと飲めば水分を欲していたのかとても美味しかった。勢いよく飲んだことで口の端から水が溢れる。それを目敏くみていた藤真さんが身を寄せてきて、私の口の端を親指で拭った。そのまま彼の冷たい指が私の口元から離れないため、私は静かにパニックに陥る。息が荒くなる。藤真さんの顔が近づいてくる。

    「また——下唇を噛んでる」
    「……っ」
    「お前の癖だな。その唇を噛んでやりたい——」
    「だったら、噛めばいいのに」

     藤真さんはフッと笑って私の下唇をなぞると、「相変わらず反抗的だな」と、言った。そうしてその指を離し満足気に「そういうところ嫌いじゃないよ」と呟く。彼は私と距離を取ると、自身も運転席のシートに深く身を沈めて真っ直ぐに遠くを見る。急に訪れた沈黙。彼の横顔を盗み見て、私はそっと呼吸を整える。

    「恋だけは二度としないと、心に誓った。生きる理由なんて、どこにもなかった」

     藤真さんが動いたことで、布擦れの音がする。再度彼が寄ってきて、私は金縛りにあったように動けなくなる。彼の冷たい手が私の頬を包んで、愛おしそうに撫で付けられる。私はそっと、瞳を閉じた。

    「愛車に乗せたのは君が初めてだ。自分のベッドで女を抱いたのも……他人と一緒に眠ったのも、初めてだった。お前だけだよ」
    「……っ」
    「お前と出会って、この世界が愛おしくなった。夢を見れたんだ、お前となら……。けど——」
    「……」
    「あいにく俺は、略奪愛は趣味じゃない」
    「……」
    「それに、人間を噛みちぎるへきも持ってない」
    「——!」

     その言葉に私は、少し前に寿に痕をつけられた鎖骨を咄嗟に右手で隠すように抑えた。それを見た藤真さんがふうと短く息を吐く。まるでタバコを吹かすみたいにして。彼の息が、唇に触れる。


    「名前」
    「……はい」
    「俺は君に——ふさわしくないよ。」
    「……。」

     そのとき私はどんな顔をしていたのだろうか。自分のことはよく覚えていないけれど、藤真さんの表情はしっかりと覚えている。わざと私を試しているのだ。それでも私を責めるようでいて何かと戦っているように見えた。まるで自分をいじめているみたいに——。
     さっきまでは息苦しかったのに、今は心がバラバラになったようだった。だがこれは彼にとって状況≠ナしかない。わかっていたのに……。

     車を降りて彼の愛車が去っていくのを見守る。私は涙も出ないのに、顔を擦った。いっそ本当に涙が出てくれればよかったのに——。
     ああ……月明かりが照らしてる、こんな夜は。










     崩落は正しさを 駆逐 する。



    (ズルくてバカなのは、いつだって私——。)


    ※『 ニビイロ/竹内唯人 』を題材に。

     Back / Top