それがあなたの幸せとしても

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  •  五月中旬——高校時代の同級生、リョータくんの気遣いという名のお節介から生まれた、幼馴染との久しぶりのデート。デートと言って良いものか疑わしいが、とにかくそれは、彼の実家で彼の婚約者と鉢合わせてしまった日から約一ヶ月後の熱い夏が目前に迫っていた、初夏のことだった。

     リョータくんとの待ち合わせ場所で会ったのがその幼馴染だった。彼にハメられたのだと知ったときは当たり前に気まずくて、どうしたものかと互いに考えあぐねていたが「……せっかくだし、少し歩くか」と先に提案してきたのは、まさかの彼、寿の方だった。目を見開く私に対して彼は、「帰りまで時間あんだよ」と少し情けなく苦笑し私はそれに小さく肯いた。
     とは言っても特にこれと言って案内する場所も無かったので、有名なお団子屋さんとかクレープ屋さん、お土産屋さんを案内して公園のベンチに座って一緒に缶コーヒーを飲んだ。意外にも穏やかな雰囲気のままで一緒にいる時間は淡々と過ぎていった。そうして彼が帰る時間となり一緒に駅まで行ったときのことだった。確かに数分前まではリラックスした時間を一緒に過ごせていたはずだったのに……。

     駅のホーム、階段を目の前にしたとき横に並んで歩いていた彼が足を止めて私の方に身体を向けたので私も向き合う体勢を取った。彼がぽつり、「付き合わせて悪かったな」と呟く。私は「ううん、私こそ」と返した。視線をやや落としていた彼がゆっくりと顔を上げ私の顔を凝視する。私も目を反らすことなくその瞳を見返した。すると、彼が放ったのだ、じゃあなって。彼はそのまま私に背を向けて駅の階段を登って行く。そんな彼の背中をただただ見つめていた私。丁度、彼の足が階段の中央付近に差し掛かったとき溜まらず私は彼の名を叫んだ。背後から聞こえたであろうホームに響いたその声に彼はふと足を止め後ろを振り返る。彼との距離——階段の約五段目ほど下まで駆け上がって行き、私はそこで立ち止まった。

    「最後に一つだけ、一つだけ聞いてもいい?」

     息を整えぬまま発した私のその言葉に彼の眉間に力が入ったのが見えた。彼は一呼吸置いてから唇をゆっくりと開き「なんだよ」と、聞き返す。

    「成人式の……寿の成人式の、あの約束の日」
    「……」
    「どうして来なかったの?……どうして、」

     私からの質問に彼はやや目を見開かせていた。そして、動揺したように目を泳がせる彼に私は、「ねえ、寿…」と囁く。急いで階段を駆け上っていく人や電車から降りて来たらしき手を繋いだカップルなんかが私と彼の真横を通り過ぎていく。そんな人の往来の中でも私達の間に流れる空気は無音だった。そうして彼が「——ンなこと」と、小さな声でぽつりと言った。

    「……んなこと聞いて、どうすんだよ」
    「え……」
    「今さらそんなこと聞いて、俺らどうにかなんのかよ」
    「それは……」

     言葉に詰まる私に彼がようやく視線を合わせて「……どうにも、なんねーだろ」と、力無くそう吐き捨てた。またも生まれた沈黙の中、彼の乗る電車がこちらへ向かってくる音が、大きくなっているのに気付く。

    「そうだね」

     私のその声は、駅に到着したらしい電車の音と共に掻き消された。なのできっと彼の耳には届いていないだろうと思う。私は続け様に「そうだよどうにもならない。ごめんね、変な事聞いて」とやや矢継ぎ早に、か細く言って微笑んだ。
     そのまま彼は何も言わず、私に背を向け階段を静かに登って行った。私はそこに、立ち尽くしたままだった。彼が階段を登り終わる頃、彼の背中に向かって静かに囁く。小さな声で彼には聞こえないように……『サヨナラ』と——。
     そのとき微かに彼が足を止めた。この位置からでもわかった。彼の両手が拳を握っている事を。それは悔しいときに見せる彼の癖だった。不意に振り返る素振りを見せたようにも感じたけれど、彼の上体がこちらへ向く事はなく、彼はそのまま電車の方へ歩き出した。そして間もなくして彼の姿は完全に見えなくなってしまったのだった。

     時は流れている、確実に——。離れていた間に流れてしまった時の砂は、私たちを別の場所へと運んでしまった。
     もう戻れないんだ。二度と、あの頃には……。





     *


     六月上旬——久しぶりに会えた親友達との飲み会、幼馴染の婚約者と鉢合わせになった事、その幼馴染に本当の『サヨナラ』を告げた駅の階段、風邪、環境の変化、気疲れ、心細さ、孤立感——それに駅で泣いていた私に肩を貸してくれた藤真さん。
     心の真ん中に、ずしりと居座り続けているストレスの要因を並べ立てて、どれひとつ自分の力量では、如何ともしがたいのだと思い知らされる。これらの原因に対して自分がアプローチする力は無く、ただ流され続けているだけなのだ。何かに怯えていた夜を思い出すのが非道く怖い。今私は上手に笑えているのだろうか。

     色んな出来事が一気に重なり疲労とストレスで高熱をあげ会社を休んでへばっていたとき、藤真さんから突然連絡が入って今の自分の現状を知らせる羽目になった。優しく「看病してあげるよ」とかそういう言葉があったわけではない。電話を切って数十分後にチャイムが鳴り自由の効かない体を持ち上げて出ればそこには果たして彼が立っていた。そのまま拉致されるような形で彼のマンションに連れていかれ今に至る。せめて風邪だけでもよくなれば、藤真さんにかかる負荷を減らすことができるだろう。いや、だけど——もしかしたら、彼にとって私が寝込んでいるという状況は手間がかかるという点を除けば、かえって安心できる事なのかもしれない。私がわがままを言って外に出る事こそ、彼には一番面倒だろうし風邪をひいて臥せっているうちは、彼のプライベートな空間を私に好き勝手うろつかれる事もないから。
     汗をかいた顔を触り、溜め息をつく。居場所がないという事を実感して嫌になる。そしてそんなことを、こうして愚痴っぽく思う自分自身に対しても。

     金曜日の昼——ゆっくりベッドを降りるとフローリングの感触が心地よい。汗を吸った柔らかいシャツを脱いで、用意されていた新しいシャツを身に着ける。肌ざわりのよい、清潔なひんやりとした余韻が裸体に残る。藤真さんはそんな私に、「間に合わせで悪いな」と一言そう詫びたけれど詫びなければならないのは私のほうだった。いくら私が彼の現在の彼女≠セからって、こんなに甘えてしまっていいものだろうか。

     着の身着のままで彼のマンションに来てしまったため、そのとき来ていた服は綺麗に畳んでチェストの上に置かれている。下着も洗って服の下に隠すようにして返却されていた。藤真さんが片づけてくれたのだろうか……彼が、どんな顔で私のブラを片付けたのか想像もできないが、とはいえそこに置いてあることが事実だった。私は寝室を出る時は一応ブラくらい着けなければならないと思った。風邪のときには、こんな最低限のマナーすら億劫になるけど。
     寝室を出ると、リビングでは無く、もう一つの部屋の光だけが無機質にぼうっと床を照り返していた。私はお手洗いを済ませて光に吸い寄せられるようにその部屋へと入った。藤真さんがこちらに背を向けるかたちで、デスクに向かって座っている。キッチンからはぐつぐつぐつ、と何か鍋の中で煮えている音がした。彼はこちらに振り向かない。パソコンに向かい一心不乱にカタカタカタとキーボードを叩いているらしい。そうしてようやく、ゆっくりとこちらに振り向いた。

    「どうだ、気分は」
    「……お陰様で随分回復してきました。熱も引きましたし、たぶん」
    「でもそれは解熱剤の薬効かもしれないぞ」

     と、彼はいい私に鋭い視線を投げかけた。彼は私の容態を目視で察知できるらしい……すごい。だが彼はすぐに顔を反けてしまった。お医者さんになってもよかったんじゃ、なんて思っているとぽつりと彼が言葉を発する。

    「飯は食べられるか」
    「はい、ありがとうございます。いただきます」
    「よかった、お粥を作ってあるぞ」

     彼はそう言い置き椅子から立ち上がり私の横を通り過ぎてキッチンへと向かった。私もとりあえずその後に着いて行く。広いキッチンに備え付けられたIHクッキングヒーターの台の上、換気扇の音とそこだけ小さなライトが付いている空間で彼の顔が背景の暗い中でも鮮明に見えた。もしかするとすぐそばに立って、その横顔を眺めていたからかも知れないけれど。
     彼は小皿に鍋の中のお粥を入れると、その鍋に蓋をした。私は思わず、「おいしそうな匂い」と心の声をダイレクトに漏らす。しかし彼は、特に反応を示さなかった。私はなんだか自分がとても場違いな発言をしたような気がして口を噤んだ。この人と雑談なんてできる日が、果たしていつかくるのだろうかと、少し疑問視する。

     リビングに向かった彼が電気を付けて、その後リモコンを徐に取ってテレビも付けた。テレビの他にはテーブルとソファーだけの殺風景な部屋。彼のイメージにぴったりすぎる。一度キッチンに戻った彼が鍋を持ってきてテーブルの上に置く。そのテーブルの上には他に、世界経済新聞が置いてあった。私はソファーではなく床に腰を下ろした。この部屋はあまりにがらんとしすぎている。だってやっぱり生活感がない……というよりも、本当に生活していなさそうな感じさえする。匂いとか物音とか、気配がしない。物もない。まるで隠棲しているみたいだ。実際に彼は、そのつもりなのかも知れないな、なんてふと思ったりした。

    「口に合えばいいけどな」

     と、藤真さんが言う。私は緊張しながらそれを食べた。とても薄味で普通においしかった。病院食のようにきちんと計量し栄養面を考えて作ってくれたのだろうという味だった。彼は、私のはす向かいのソファーに座り新聞を手にとっていたが私の食思を確認するためにときおりちらと視線をよこした。

    「おいしいです」
    「食べられそうなら、もっと食べていいぞ」
    「あ、はい……」

     そう言えば、いま何時なのだろうか。この部屋時計がないんだよね。ともあれ、彼が私に時間を割いてくれたのだ。まったくありがたいことだった。高校時代に部活でキャプテン兼、監督を務めていた理由が、よくわかる気がする。私はそんな彼から恩恵を受けるほど価値のある人間ではないけれど。

     すべて食べ終えると藤真さんは私に白い錠剤を出してきた。私がそれを飲み込むまで彼は私から視線を離そうとはしなかった。ちょっと、毒でも盛られている気分になったが出されたものを全て胃に収め手を合わせてごちそうさまでしたと言うと、彼はトレイに食器を片づけ、テーブルの隅に寄せた。

    「——藤真さん。ありがとうございました」

     彼は「いや」とだけいった。長袖のワイシャツに隠れた腕の筋肉や、手の男性らしさが既視感となって私の記憶に流れた時間というものを一瞬、流し去った。数ヵ月前はこうして彼のマンションで看病してもらうなんて、夢にも思ってなかったけれど、だが彼はもう、あの頃の彼ではない。

    「汗かいただろ。浴室使えよ」
    「はい、お借りしたいです」
    「……たしかに、かなり回復したみたいだな」

     ひそめられがちな柔らかな眉やどこか沈痛めいた翳りを浮かべる二重の瞳、高い鼻梁や薄い唇。濃い影をたたえる姿はもっとぐっと迫りくるような凄みがあった。私は思わず後ずさりたくなるのを、すんでのところでこらえた。そんな私の気持ちを知りもしない彼が「今朝、宮城から連絡があった」と言った。藤真さんは私を見下ろして目を細める。

    「お前のことを訊こうとはしなかったけど。まぁあいつなりの気遣いだろうな」
    「そう。彩子から連絡がきた時に、風邪をひいて寝込んでるって言ったから、彩子がリョータくんに言ってそれでかな。何て伝えてくれました?」
    「ああ。心配はいらないって、伝えておいたよ」
    「……」

     私が、またあの二人に心配をかけてしまったと顔を曇らせると彼は目を逸らして顔を背けるようにカーテンの開けっ放しになっている窓のほうを眺めた。ここは高層階なのでカーテンは必要ないのだろう。本当に夜景が綺麗。互いに無言の時間が続く。彼は相変わらず窓を眺めていた。遠く、薄い青空が窓枠ごしにたゆんでいる。私はぞく、と身体の中枢が冷え込んだような気がした。彼に対する違和感だった。なんだか彼を見ていると、本当に生きているのか死んでいるのか夢や幻ではないのかと、そんな事を思う瞬間があったのだ。

    「——シャワー、浴びないのか?」

     藤真さんは独白のように低くささやくと、そのまま唇を固く閉ざした。私は彼の想いや、苦悩の一端を垣間見た気がした。それは、まるで実際の体験のように深く心に圧し掛かる苦しみだった。私は、なんだか息が詰まって言葉を失い、小さく肯くだけで、その場を後にして浴室へ向かった。


     *


     土曜日の朝——顔を洗って寝室を出ると、藤真さんがジャケットを着ながら玄関に立っていた。彼は私に振り向いた。玄関は昏く沈んでいたが、朝の冷え冷えとした清潔な空気と共に、遠くから射す青い陽光の気配がした。

    「どこかに出かけるんですか?」
    「ああ」
    「気をつけて……」
    「……いつまでもお前に俺の部屋着を着せておくわけにもいかないな」

     と、彼は私の全身を眺めていった。確かに彼の物を借りて着ているが特に不便や不都合を感じてはいなかった。この上質の生地のやわらかさや、着心地がよく気に入っている。それにシルエットもいい。そのことを伝えると彼は「そうか」と、目を伏せた。

    「欲しい物があったら書き出しておけよ。日用品やら本やら、好きに書いていい」
    「でも、まだこの調子じゃ、どこにも出かけられないし……特に必要ないですよ」
    「それはお前が風邪で臥せっていたからだろう。回復したからには可能な限り普段どおりの習慣を守るようにした方がいい。お前に不自由させたくないしな」
    「え……」
    「いいな」

     突然押し付けられたメモ用紙に面食らって私は落っことしてしまいそうになる。アナログなんてこの世に存在しませんでした、みたいな彼の性格から見ても、そんな相手からまさかの、メモ紙を預かったことに呆然としていたのだ。

    「でも、わたし——」
    「女なら当然、必要な物も多いはずだろ」
    「……」

     彼は腕時計で時間を確認するとさっさとドアを開けて行ってしまった。私は所在をなくしたメモ用紙を見下ろし、とぼとぼと寝室に向かって二度寝しようとした。だが、彼が帰ってきたときに、このまま何も書かずにいれば、彼は怒るかもしれない。彼にとってみれば私の遠慮はただの怠慢にしか映らないだろうから。私は全然ほしくなかったがしばらく考えてみてやっぱり化粧品と衣類とをメモ用紙に書かせてもらった。

     夕方——藤真さんはまだ帰ってこない。浴槽にたっぷり湯を溜め、体を洗って首まで浸かった。風邪はほとんど治ったといっていいと思う。まだ咳が時々出るけれどそれよりもときどき、ぞくっと襲ってくる悪寒が不快だった。いくらあったかくしても湯につかっていても、芯まであたたまることはできない。体が硬縮しているようだ。

     濡れてまとめた髪がひとすじ首にまつわりついている。それを指に取るとつやつやした雫をたたえていて、清潔な植物のような香りがした。藤真さんと同じシャンプーや、ボディジェルを使っているし彼と同じ洗剤で洗った衣類を身に着けているという事を今更ながらに考えて何とも言えない罪悪感を覚えた。藤真さんに大変な厄介になっているという事と嫁入り前の身で、付き合って浅い異性の住環境にいることが果たしてどういうことなのかを苦々しく思ったからだった。ここを出てお世話になりましたと告げる時、いったい自分はどんな気持ちでいるのだろうか。きっと気まずい思いをぶら下げたまま、逃げるように藤真さんの前から立ち去るのではないか。こんなに世話になっている御恩を返すにはいったいどうすればいいのか私にはわからなかった。
     家に帰ったらまず一番に何か貯金も飛ぶような贈り物をさせてもらおう。ネクタイ?ハンカチ?だけど、それだけじゃ足りない気がする。もっとなにか、藤真さんが安心できるようなことはないだろうか……。


    「名前」


     という声が聞こえた気がして私は浴室テレビの電源を切った。だが——どうやらそれは気のせいだったようだ。しんと耳に静寂の振動が伝わってもう一度テレビのボタンを押した。ちょうど音楽番組が流れていた。けれど、うわの空の頭では、心地よいサウンドも、なにも響いてこない。なぜ自分はこんなふうに、誰かの厄介にならなければ生きていけないのだろうか。

     鼻をつまんで湯船の中に頭まで沈み、お湯の中で膝を抱えて丸くなった。今はこうして膝を抱え悪魔が来ない事を祈ることしかできない私でも、できることが限られている現状だからこそ方向性を決めたい。ただひたむきに、幼馴染の彼の幸せだけを祈る人になりたい。不安や恐怖よりも信じる気持ちで過ごしていきたい。きっと彼なら、嘘みたいに私を強く強く信じてくれるだろうから。私はきっと雑念が多すぎるのだ。すっきりと割り切ることがとてもむずかしい。
     息がつづかなくなって、お湯から顔を上げようとしたとき——ざぶっ、といきなり大きな両手が私の体を湯船から引き揚げた。目の前に険しく美しい顔があって息が止まった。藤真さんだった。私と同じシャンプーと衣類の香りがする。怒気をはらんだ彼の顔は、私を見つめるうちに、すっと無表情になった。


    「——悪かった」

     と、彼は私を掴みあげていた手を放した。ずると私の体が浴槽の中に沈み込む。私を抱き上げたその袖は私の体から滴ったお湯で、ひどく濡れていた。彼は顔を背け、すぐに浴室を出て行った。——嵐のような、出来事だった。浴室テレビから流れる歌、藤真さんが出入りしたために入り込んだ冷気、自分が丸裸だということ。私はしばらく湯船の中から出ることができなかった。


     *


    「さっきはすまなかった」

     意を決して脱衣所から出るとキッチンのところに寄りかかるようにして藤真さんが立っていた。彼は腕を組んでいたが、筋張った指先でコップに入った飲み物を取ると、それを私に差し出した。ここに来てからというもの、飲み物といえば常温の水しか与えられなかったが、それは100%フルーツジュースで、しかも冷えていた。私がそれを受け取ると熱っぽい手にとても心地がよかった。

    「いえ……でも、びっくりしました」

     まだ心臓がドキドキしている。彼は眉根を寄せ「だろうな」といった。そんなふうに冷静な態度を取られると逆に恥ずかしくなってくるからもっと驚いたり焦ったりして欲しかったけど相手がこの彼ではそれは望めないだろうと早々に諦める。

    「何度か声を掛けたが返事がなかった……まさか溺れて死んでいるんじゃないかって」

     彼は、すうと鼻腔から息を吸い込んだ。私は、ちら、と藤真さんを見上げる。彼は横顔のまま、気難しげに怒ったように黙りこくっていた。

    「……浴室テレビをつけてお湯に潜っていたので藤真さんの声が聴こえなかったんです……こちらこそすみませんでした」
    「……」

     私は裸を見られたという大ショックを忘れる事はできなかったが彼の心的負担の軽減を図るために嘘をつくことにした。

    「藤真さん、私——全然気にしてませんよ!藤真さんの事、お医者さんのように思っているので、こんな、裸くらい……」
    「……」
    「私の病態も経過も治療方法も、すべて把握してくれてますよね?裸なんかより心配をおかけして申し訳なかったなって思います」
    「言っとくけどな俺はお前の医者じゃない。ただ症状に合わせた薬を渡しただけだ」
    「そうですけど、でもそのくらい信用してるって事です!だから、本当に全然……」
    「……俺のことを、あまり信用するな」

     そんな彼からの返しに私がびっくりしていると彼は「いや……、」と口元をゆがめた。

    「医者だなんて……恐れ多いってだけだ」
    「……」

     どうしよう。ますます、眉間の皺が濃くなってしまったではないか。私の対応は間違いだったのだとこのとき気づいたがもう遅かったみたいだ。彼は「とにかく、悪かった」と、それだけ言うと仕事部屋の入り口へと、ゆっくり歩いていった。彼の事を案じているうちに、確かに裸を見られたことなどきれいに忘れてしまっていた。彼が何と言おうと藤真さんは誠実で、私をとても心配し、大切にしてくれているのに。私は自分があの日、駅の階段で幼馴染の彼にした質問の事をいまだに責めつづけていることを改めて知った。

     藤真さんと出会ったとき、確かにイケすかない人だとは思ったけれど客観視して見れば都会的でスマートで俳優か何かのようだった。藤真さんと彩子とリョータくんとお酒を交わした後日、私は二人に藤真さんに付いて聞いたことがある。藤真さんってどんな人なの?って。リョータくんは、ひとしきり彼のバスケセンスを誉めたあと、顔を曇らせた。

    『でも、藤真って……自分に厳しすぎるところがある気がする。そこが少し、心配かも……ね』


     *


     日付が変わって日曜日になっていた。ベッドに座って窓の外を眺めながら、幼馴染の彼のことを思い出していた。私は立ち上がって寝室をでた。キッチンにいって水をもらおうと思ったからだ。ひっそりと静まり返った廊下を歩いてキッチンの電気をつける。なにか飲みたい。整理整頓が行き届いた棚からコップを取ったとき鼻腔の奥がツンとなった。不安で不安でたまらなくなった。心臓がばくばくとして立ちくらみを起こし思わずシンクに寄りかかる。震える指で胸を掻き毟ったとき背後から、きい……と扉の開く音がした。

    「名前。……」
    「……っ」
    「名前、どうした」
    「あ、いえ。すみません。ちょっとぼうっとしてて……」

     体がすくんで動けなかったけれど、藤真さんの存在を認識すると関節がやわらかくなりゆっくり振り返ることができた。私はすごい顔をしていたらしい。彼は私を見るなり、ぴくと顔をこわばらせて、まっすぐこちらに歩み寄ってきた。

    「大丈夫か」

     がし、と肘と肩を後ろから支えられる。私は、生唾を飲みながら、なんとか肯いた。

    「深呼吸できるか」
    「……」
    「不安でつらいのか」
    「……」

     指先の震えは痙攣のように大きくなり突然ものすごく寒くなって息苦しくなった。目の前がくらくらして立っていられなくなってやがて藤真さんの声も聞こえなくなる。視界がひっくり返ったかと思った。猛烈なめまい。だが私は倒れていなかった。彼が、しっかり抱き留めてくれていたからだった。目を開けると、藤真さんの唇が見えた。薄くこわばった唇が「名前」と呼び彼の手が私の体幹を支えていた。

    「深呼吸しろ」
    「……、はい」
    「大丈夫だ。お前は生きてる、安心しろ」
    「……はい」

     すうーと息を吸うと、すこしずつ楽になった。彼は私に「歩けるか」と聞いた。彼に抱きかかえられたままおぼつかない足取りで歩きソファーに横になった。まだ指先と唇が震えている……藤真さんはコップを持って戻ってきた。

    「過換気を起こしかけていたんだろうな。これを飲むと少し落ち着くと思う」
    「……あ、ごめんなさい」

     中はぬるい水だった。私は、ごくごくとそれを飲んだ。一杯飲み干しあおむけになって目を閉じていると突然、どっと汗が滲んできた。失われた水分と電解質が末梢までいきわたったのだ。

    「……藤真さん」

     彼は毛布を持ってきて、私の腹部から下半身に掛けてくれる。だんだん体が温まって大丈夫だという判断ができた。体を起こすと藤真さんが私を見下ろして立っていた。

    「……名前、これで納得できたか」
    「え……?」
    「俺がお前の思ってる以上にお前の事を気にかけているって」
    「……は、はい……」

     藤真さんは、ゆっくり私の隣に腰を下ろした。ソファーがふわっと軋んで私の身体は重心である藤真さんの方に傾きかけた。彼は私を安心させてくれたが彼のほうは誰にも慰められてはいないのだと思った。そういう横顔をしていたから。卑屈になって叫ぶ私を縛りつける前に、私なんかに、優しくするべきではないのに。私は今の彼に聞かせられるような綺麗な言葉が見当たらなかった。

    「ごめんなさい。みっともないところを見せちゃって……」
    「いや。体調が優れない時は不安も大きいんだ、当然だよ」
    「わたし……実は先日、幼馴染と会ったんです」
    「……」
    「相手の気持ちも考えないで好き勝手言って結局最後にはまた、怒らせちゃいました」
    「いや相手は怒ってないと思うけどな。幼馴染ってことは、古くからの友人なんだろ?」
    「そうですかね、いや……どうなんだろ」
    「必要なら、俺も一緒に謝罪してやるよ」
    「ふふ……ありがとうございます。大丈夫です、もう……会うことはないと思いますので」
    「……お前のような存在がいて羨ましい気がする
    ——その、幼馴染の相手を」

     藤真さんはそういって、私のことを一瞥した。茶色く澄んだ美しい双眸だった。硬質のつくりの中で睫毛だけが柔らかく、たわんだ。彼が瞬きをしたという残影を刻んで——。

    「……藤真さんは?」
    「いない。……いや、実際のところはいるのかもしれないけどな」
    「いますよ、きっとたくさん」
    「今はそれを口にしていいのか……難しいところだな」
    「……みんな変わらず慕っていると思うけどな」
    「……」

     私は鼻をすすった。ぴりぴりと強く硬く冷たい空気が流れてきた気がしたから。だが彼は案外、おだやかな顔をしていた。

    「私は藤真さんと一緒に青春を謳歌した人達を誇りに思ってます。みんなきっとすごく優しくて誠実で真面目な方たちなんだろうなって思うから」
    「……」
    「……?どうしました?」
    「いや……過去、同級生にもそんな台詞を言われたことがあったから」
    「え、そうなんですか?そうですよ、きっと他の人も同じ意見だと思いますよ?」
    「どうかな。お前と、アイツらだけだと思う」

     そういって藤真さんは無理に目元を細めて微笑んだ。何で笑ったのにきゅっと胸が切なくなるのだろう。彼の微笑にはそのような作用があった。あまりにも綺麗で、嘘みたいに柔らかかったからかもしれない。

     私と藤真さんはそこから半時ばかりとりとめのない話をし、おやすみなさいと告げて私だけ寝室に戻った。まだ心臓がドキドキしている。ベッドに横たわり密かに祈りを込める。ここへ来て毎日祈りつづけていること。それが叶った日は、まだないけれども。
     もしかしたら今日くらいはその祈りが彼に届くかもしれないと願って。


     藤真さんが今日こそは寝室に来て、私と一緒に眠りについてくれますように——。










     それでも、なぜ
        を追ってしまうのだろう




    (——今日だけはどうしても叶って欲しかったの)


    ※『それがあなたの幸せとしても/ヲタみん』を
    題材に
    ※Lyric by『 眩暈/鬼束ちひろ 』

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